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バングラデシュ政治危機:内政への影響と国際関係の変容


はじめに

 2024年8月、南アジアの重要国であるバングラデシュで政治的混乱が発生し、シェイク・ハシナ首相の辞任と国外退避という劇的な展開を迎えた。この事態は単なる一国の政治問題にとどまらず、南アジア地域全体の国際関係にも影響を及ぼす可能性がある。本稿では、この危機の背景やそれによる内政や外交への影響を概説する。


危機の背景と経緯

 今回の政治危機の直接的な引き金となったのは、公務員採用における優遇枠の問題だった。1971年の独立戦争で戦った人々の子孫に対する公務員採用枠の優遇措置が、一旦廃止された後に高等裁判所によって復活を命じられたことが、全国的な学生デモの発端となった。
 しかし、この問題の根底には、長年蓄積された政治的不満、汚職問題、そして国際関係における微妙なバランスの崩壊があった。ハシナ政権は2009年から15年にわたり権力を維持してきたが、その間に権力の腐敗、反対勢力への弾圧、選挙の公平性への疑念など、様々な問題が指摘されていた。
特に、2024年1月に実施された総選挙は、野党の主要政党であるバングラデシュ民族主義党(BNP)が参加を拒否し、国際社会からも懸念が表明されるなど、民主主義の後退を象徴する出来事となった。
 さらに、ハシナ首相が抗議活動参加者を「ラザカル(裏切り者)」と呼んだことが、国民の怒りに火をつけた。この言葉は、1971年の独立戦争時にパキスタン側についたバングラデシュ人を指す非常に侮蔑的な表現であり、国民感情を著しく害する結果となった。
 つまり、今回の公務員採用枠の優遇措置をめぐる一件は、政権の崩壊のきっかけの一つにすぎなかったのである。


バングラデシュ内政への影響

 政権崩壊に伴う影響としてはさまざまなものが考えられるが、特に以下の2点ついて言及する。

テロリズムと過激主義の脅威

 政治的混乱に乗じて、イスラム過激派組織が活動を活発化させる可能性がある。特に、近年活動が抑制されていたジャマトゥル・ムジャヒディン・バングラデシュ(JMB)などの組織の再興が懸念される。
JMBは、バングラデシュ政府から非合法組織として活動禁止措置を受けており、2016年にはISILに感化された構成員が「ネオJMB」と称する分派を形成し、2016年7月にダッカ市内レストラン襲撃テロ事件を起こしている(この事件では日本人も犠牲になっており記憶にある人も多いのではないだろうか)。
 同事件以来、JMB内の関係者の多くは治安当局により殺害または逮捕されているが、近年も依然としてグループの活動の実態は確認されていた。現在の権力の空白と治安状況の混乱に乗じた同グループの活動の再活発化には注意しておく必要があるだろう。

経済への影響

 ハシナ政権の下、バングラデシュは急速な経済成長を遂げた。特に、世界銀行の2019年の報告書では、それまでの15年で、2,500万人が貧困から抜け出したとされており、ハシナ政権がいかにこの国の経済発展に寄与したかが窺い知れる。
 しかしながら、その政権の担い手がインドに亡命してしまったため、今後の政治的状況ないし政権の力量次第では、経済が著しく停滞してしまう可能性もある。また、権力の空白の中、治安維持も大きな課題となっており、今後治安が大きく悪化するような事態になれば、バングラデシュの経済活動は大幅に制限されてしまうだろう。
 なお、バングラデシュに進出している日本企業の工場の多くは、すでに稼働を再開しているとの情報もあるため、現時点では悲観的な見通しはそこまで強くないのが不幸中の幸いである。


バングラデシュ外交への影響

 バングラデシュの地政学的位置づけは非常に複雑である。インド、中国、アメリカといった大国の利害が交錯する中、ハシナ政権は巧みな外交バランスを取ろうとしてきた(所謂「全方位外交」)。今回の政変に伴う政権移行は、各国に以下のような動きをもたらす可能性がある。

インドの影響力低下

 ハシナ政権は、国内の反インド勢力の取り締まりを行うなど、長年インドとの関係を重視してきた。また、バングラデシュは、バングラデシュ-インド間の鉄道連結プロジェクトや水資源管理を通じて、国際的な協力関係も深めている。これは、インドの東北部諸州(所謂「セブンシスターズ」)へのアクセス改善を意味するものであり、バングラデシュとインドとの物理的なつながりをも保障するものであった。
 しかしながら、今回の政変によって、対インド関係の柱となっていたハシナ首相はインドへと亡命し、軍部による暫定政権が樹立された。もし、新政権がこの方針を転換するような場合には、バングラデシュ-インド間の関係性の希薄化ないし悪化が引き起こされ、インドの地域的影響力が低下する恐れがある。
 これに伴い、インドは関係構築に注力すると同時に、国境管理の強化や情報収集活動の intensification を図る可能性が高いとみられる。

中国-バングラデシュ関係の再構築

バングラデシュは、インド亜大陸の東端、すなわち南アジアと東南アジアの結節点、中国のインド洋への出口に位置する。このような地政学的な位置付けから、バングラデシュは、中国にとって、「一帯一路」の重要な拠点であるとされている。
中国は、「一帯一路」構想を推進するために、このバングラデシュとの関係性を深化させることに努めてきた。例えば、7月10日、ハシナ首相と中国首相の李強、国家主席の習近平は、北京で会談を行った。そして、バングラデシュと中国の間で、貿易や投資に関する28項目の全面的戦略的協力パートナーシップ協定が調印され、今後もますますバングラデシュ-中国関係の深化は推進されていくものだと思われていた。
しかしながら、今回の政変によって、これまで中国が関係強化を進めてきたハシナ政権が突然消失することとなった。これは中国にとっては痛手である。中国は、今後何かしらの形でバングラデシュとの関係性維持に努めていくことが予想される。

米国の思惑

米国にとっても、バングラデシュは、アジアにおけるグローバルサウスの重要国であり、中国に対抗する形でその取り組みにはリソースを割いてきた。特に、これまで米国はバングラデシュに対して累計80億ドル以上の援助を行ってきたという事実は無視できない。
その一方で、米国は民主主義をリードする国家としての自己認識からか、ハシナ政権の独裁的なあり方については批判的であった。特に、米国は民主主義と人権の問題でハシナ政権を批判しており、過去には一部の政府・与野党関係者に対するビザ発給の制限措置をとるといった制裁も課していた。両国関係は一筋縄では行かないという様相を呈していたのである。
今回は、その米国の批判の対象であった政治体制が崩壊したわけであるから、米国はこれを好機と捉えて、民主主義の回復と人権状況の改善を要求するないし支援していく可能性は十分にあるだろう。これには中国の影響力拡大を牽制する効果もある。


今後の展望と課題

上記に見てきたように、バングラデシュの政治危機は、南アジア地域の秩序に変動をもたらす可能性がある。不測の事態をこれ以上起こさないためには、まず政治的な安定性を取り戻すことが急務である。そのための具体的な方策としては、民衆の信頼の回復と民主主義の構築や、経済の安定化、テロリズムや治安課題への即座の対応などが求められる。
そして、それらの方策が実行されるには、国際社会による慎重かつ建設的な関与も重要となってくるだろう。同時に、日本を含む関係国は、急変する情勢に適切に対応できるよう、情報収集と分析能力の強化、そして柔軟な外交戦略の構築が求められる。
バングラデシュの民主主義の回復と経済の安定化は、地域全体の安全と繁栄にとって不可欠である。


参考資料

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