【カレー小説】開演 ~阪神甲子園球場の名物カレー~
正午前に怪しいと思っていた雲は青色を見せる隙を作らず、この時間に来て一気に周辺の明度を下げたと思えば、大粒の雨を降らせた。
雨は地面で勢いよく跳ね、窪みに集った水滴はたちまち大きな水たまりとなって更なるしぶきを上げている。視界もこの雨量で先ほどまで見えていた数十メートル先も滲み霞んで見える。
広場で屯していた人々は皆一斉に雨を避ける場所を求め走る。その飛沫が誰かにかかるという事はお構いなし。空からの襲来を避けようと必死だ。
この私もその走る一群に与するもので、手近にあった売店の軒に駆け込んだ。既に先客がいたが、幸いにも屋根は広く突き出しており、また先客も私が駆け込んできた事を拒むことなく、少しだけ後ろに下がり間を開けてくれた。その先客に軽く頭を下げ、私は来た方へ体を向けた。雨は白く幾重にも重なり、屋根や地面を打ち鳴らす音は間近で話している若い二人組の会話にも介入し、彼らの声が私の耳元へ届くのを阻止していた。
九月二十二日。
予報は一日中曇り。朝の天気予報では、少なくとも私が東京発七時半ののぞみに乗る前に見た情報では、そうなっていた。午前に新大阪に到着し、そのまま阪神電鉄で甲子園駅に到着したとき、雲は今のような墨液を流し込んだ禍々しい色などしておらず、時折太陽の光が切れ間から微かに顔をのぞかせるくらいだった。
それがどうだ。このまま降らないままでいて欲しいという希望を持たせ、このもうじき開場前という時間をあげつらうように性根の悪い雲が降らせた大粒の雨。ここ数日夏日が続いていたとは思えない程、空気は澄みながら冷えていった。
視界の向こうに遠く見える小さな屋台では今回のライブ開催の特別記事で編纂された新聞を販売していた。紙の商品を扱っているので、屋台の中は大わらわで対応に追われているのがぼんやりと窺えた。降り始めてからまだそんなに経ってはいないが、甲高い声や空を恨む声を上げながら雨水を避けようと走りこむ人は絶えず、隣の商店、遠くの高架下へと非難する人の脚は途切れていない。私はこの売店の近くにいたからそこまで濡れることはなかった。しかし、直後に割入ってきた人々は皆ずぶ濡れだった。それぞれが開いているスペースを探して身を寄せ、一様に空を仰いでいる。
少し冷えた風が撫でていたのもほんの僅かの間で、こうも人が寄ると今度は湿気と体温で周辺は熱を帯び始めた。
不用意に体を捻ろうものならば、隣に当たってしまう。私は小さな身をより一層小さく縮め、鞄の中を確認した。中身は水濡れなどなく無事だった。自分が濡れるより、今しがたあの屋台で売っていた新聞を数部程買っていたのがふいになってしまうのではという事が一番心配だった。他のものも大丈夫だ。
止むどころか勢いを消さない雨。そしてこの寄り集った雨宿りの群衆から発せられる温度と湿気に息が詰まりそうになった私は、今すぐにでもここを飛び出したかった。しかし今ここをこのまま出たところで自身も荷物もずぶ濡れになるだけで何も面白くはない。私は窮屈な中、辺りを見回していた。
売店は軒下に商品をせり出して陳列しており、丁度私の袂までそれは伸びていた。飲み物、菓子、甲子園球場の前にあるのだから球団を応援するグッズも並ぶ。普段の野球観戦であれば、ここで買い物をしていけば大体何とかなるという事なのだろう。
ふと陳列台を前にした店員と目が合った。店員は手前にあるビニールに包まれた白く四角い塊を手に取り私に見せた。
「どう、雨合羽。必要でしょう? 」
えっ。
私は話しかけられ、咄嗟に口からこぼした。
店員はにこりとして続けた。
「どう見てもねぇこれ止まないだろうし。使い捨てできるから持ってて損はないよ」
確かにこのままでは埒があかない。最悪、雨の中で開催された場合、屋根がないのだから何らかの雨避けはいるだろう。
あの、一つください。
私は店員に言い、五百円玉を手渡した。すぐ着るからという事でビニールの包装を取って貰い、私はそれを羽織った。多少肌に残っていた水滴でビニールの生地が吸い付いてくる。それが些か不快であったが、贅沢は言っていられない。私はフードをかぶり、肩にかけた鞄を合羽の内側に入れたことを確認すると、雨の中へ踏み出した。
何もなければ一分とかからない球場前の高架下へもその道のりが遠くに思え、ようやくたどり着いたそこもまた、空を憂いながら待つ人々でひしめき合っていた。しかし売店の軒下のように動けないわけではなく、そこは歩き回れるだけの広さは確保されている。一人でスマホを触っている者もいれば、何人も集まって騒いでいる者たち、雨脚が弱くならないかと身を寄せ合う二人もいる。
天井が高いからだろう、雨音は随分上で歓声のように響く。
球場へ渡る横断歩道の前まで歩くと警備員が数名おり、カラーコーンで人が往来できるだけのスペースを作っている。
「この辺りに立ち止まらないよう歩いてください」
若い警備員が横断歩道付近に溜まる一群に声をかけ続ける。彼等は一時的に移動はするが、すぐに同じところに違う一群が形成され、また警備員が声をあげる。
それを少し離れた所で眺めていると、雨音が弱くなったような気がした。私は球場側を見る。視界に映る雨の線にさして変化はなく、しかし周りの会話をかき消していたあの轟音はどこか優しく聞こえた。
入るなら今のうちだろう。
そう思った私は、移動する集団の後ろにつき、ゆっくりと歩き出した。幸い車の通りも少なく、球場側へはすぐに渡ることができた。少しだけ歩いた私は振り返った。背後にある車道を挟んだ高架下は移動する人々と、変わらず雨宿りを続ける人々が集っている。その光景は間近にある先ほどまで私もそこにいたはずである場所なのに、別の世界にいる自分とは違う何かに思えた。
「ご来場の皆様にお知らせします。本日これから物販列にお並び頂くと開演には間に合いません。予めご了承ください」
遠くでハンドマイク手に、青いレインコートを羽織った係員が叫ぶ。
雨音と人ごみに負けない音量で、何度も何度も、彼は呼びかける。
「うぇ……そんなに並んでんの? 」
「そういやさっき十一時前に並んだけどまだ物販テントが見えないって呟きあったわ」
「あの人たちライブ間に合わないんじゃない? 」
周りで歩く人たちの声が聞こえる。私は笑えなかった。正午まで私はあの未だ列を成す物販――ライブグッズ販売コーナー――で買い物をするために並んでいたのだ。列は確かに進まないわけでもなかったが、球場をほぼ一周していたようなものだったので、どの位時間がかかるのか測れなかった。途中で係員が読み上げる「売り切れたグッズ一覧」を聞いた事に加え、延々と連なるこの先の見えない行列に並ぶことに飽きてしまった私は、とうとう列から離れてしまった。
しかし今考えるとそれは正解だったのかもしれない。そこから抜け出なければ何の方策もなくただ雨に打たれ、ライブ観覧どころではないだろう。そう私は言い聞かせ、入口へと向かった。
入場口でのチケットチェックと荷物チェックは思ったより簡素であった。
コンコースで水濡れして重くなった合羽を脱ぐと、冷房のヒヤリとした風が上半身を撫でた。合羽からは水がいくらでも滴り落ち、足元には小さな水たまりができた。ここで雨が止むのを待つのが最善と考えたが、後列がどんどん入場してくる。立ち止まるのは迷惑だし、何よりまた先ほどと同様の窮屈を味わうと思うとぞっとした私は合羽を四つに折り奥へと進んだ。
蛍光灯で照らされたコンコースからスタンド席へのトンネル通路を抜けると視界が一気に開ける。トンネルの暗がりから出るためか、世界はいつだって眩しく映る。この瞬間はどこの野球場でも味わえる解放感だ。野球であれば土のむき出しになっている内野に青く茂る外野の芝が拝めるのだろうが、今日は用途が違う。内野側からすべて板とシートで覆われている。その一番奥の外野側には巨大な舞台セットが組まれている。鉄骨が幾重にも組まれ、緑の蔓がその間を縫い、色とりどりの風船が敷き詰められている。向こうのグランド席にいる観客と対比するとその巨大さは圧巻だ。
雨はどうやら小雨になったらしい。らしいというのも、私がいま立っているトンネル出口は上からせり出している屋根に守られており、雨が当たらないでいたから実感が持てていないからだった。もう少し先で降る雨はあの店先や高架下の時のように激しい雨音も跳ね返る水滴もなく、か細く線を引いているだけだった。
こんな屋根があるなら途中雨が降ってきても大丈夫だろうと安堵した私は、チケットを片手に座席を求めて各座席の端に書かれた文字を追っていった。そして私のチケットに書かれていた席を発見した時、そこはあの心強い屋根がとうに終わっており、座席は弱い雨水で濡れていた。もう十数メートル程屋根があればと何度か屋根を見返した。そんなことをしても屋根が伸びるわけでも席が変わるわけでもないので、私は今しがた持っていたちょっとした期待をそっと胸にしまうと、自分の席へ荷物を下ろした。
小雨になったとはいえ雨が降っているからか、私の周りにある殆どの席はまだ誰も座っていなかった。少しだけ借りますと心の中で断り、一旦荷物を隣の席に置き、必要なものを取り出した。ペンライト、ケミカルサイリウム、タオル、飲みかけのペットボトル入りの水。これ以上濡れるのもよくないと思った私は、ライブTシャツの上に着ていたシャツを脱いで小さくたたむと鞄へしまった。併せて中から用意していたゴミ袋を二枚ほど取り出し、鞄を一枚目に入れて口を縛り、二枚目で更に包み込む。こうしておけば急に雨が強くなっても荷物だけは無事だと教わっていたのだ。包みを隣の席から自分の席の下へと移動させた。
小雨はいつの間にか霧雨に変わっていた。合羽を広げて座席に敷き、座りながら辺りを見回す。続々と流れ込んでくる人の列は徐々に増えていき、緑一色だったスタンド席と白色のシートは色とりどりのドットで埋まっていった。
私は思い出した。今日ここに来たのはライブが目的ではあったが、もう一つ目的があったのだ。丁度雨もほとんど降っていない状態だ。周辺の座席も幸いにガラガラ。やるならば今が絶好の機会だ。
私は席を立つとコンコースへと向かった。
コンコースは先ほどより人が増え、点々とコロニーが形成されていた。その大小のコロニーの隙間を縫いながら私が向かったのはフードスタンド。私の楽しみの一つだ。
まだ小さかった頃。所属していた少年野球チーム全体のスポーツ観戦行事で広島市民球場に何度か足を運んだことがあった。私はプロの選手が活躍する様子に一喜一憂する事より、そこで食べられる赤いシロップがかかった氷、天かすとネギが入っただけのうどん、冷え切った弁当やラムネなどに心躍らせていた。その為だけに親にせがんで参加していたようなものだった。
今もそれは変わらず、球場をはじめ様々なスポーツスタジアム、競馬、競輪場に赴いた際は何かしら食べないと気が済まないでいた。
今日は甲子園。初めてくるこの場所。食べるものは決まっている。
私は小さな列を形成しているフードスタンドの一つに並んだ。
カウンターの下にはコンコースの光を反射して光る金色の看板があり、そこにはこう書かれている。
「甲子園カレー」
そう、私の今日のもう一つの目的は以前から耳にしていた「日本の球場で一番有名なカレーライスを食べる」ということだった。
甲子園に限らず野球場にはカレーがある。すぐ提供できて大体の日本人が食べられるものという意味も含まれているのだろうか。三年ほど前の座談会で食道楽から話に聞けば、兎に角球場の飯の中で甲子園カレーはまた格別であるという事だった。しかし特に西側への用事もなく、阪神ファン……否、熱心な野球ファンでもない私がこの地に足を運ぶことなどなく、今日この日がまさに好機だった。あれだけ力説されたからには食べなければならないだろう。私は並びながら期待を曝け出すと、カウンターの向こうへ注いだ。
順番はすぐに回ってきた。メニューはカウンター上に記載されている。基本的にベーシックなカレーと牛すじ入りの甲子園カレー。それぞれが写真付きで掲示されている。掲示されている分には違いが判らない。値段は五百五十円。牛すじ入りはもう少し割高。牛肉文化圏の関西に来たからここは牛すじ入りと思ったが、やはりここはスタンダードな甲子園カレーをチョイスすべきだと決めた。他にカツやチーズのトッピングもあったが、どうしても余計な気がして追加する気にはなれなかった。
物販の大行列から外れて立ち寄った記念館の情報によると、甲子園でカレーの販売が始まったのは大正十三年。当時は三百食分の寸胴をフル稼働で回しても足りないくらいの需要があったそうだ。職業野球隆盛期。当時洋食として根付いていたであろうカレーライスに需要が集まるのは意外でもないと私は思っていた。野球を観戦しながらカレーという行為。それが当時のハイカラ、モダンと言ったものであるかどうかはさておき。
何十年前は鍋から提供されていた伝統のカレーは今、湯の中で整然と列を成している白いレトルトパウチを開けての提供に切り替わっている。風情が等と野暮なことを言ってはいけない。効率と衛生、そして回転率を考えれば十分に良策だ。ライスを盛った白い発泡スチロールのカレー容器にレトルトのカレーをかけ、福神漬けを少しだけ添えて手渡される。雨で冷えた指先をじんわりとライスとカレーの温度が暖める。始めて食べるのにこの匂いはどこでもありそうな、安心するスパイスの匂いだ。
振り向けばコンコースの中はさらに人が増え、芋洗い状態になっている。その一人々々が雨を連れてきているのだ。この湿気はエアコンの風に飛ばされることなくその場にたたずみながらその姿を膨らませていた。
人の払う雨水を避け、ぶつからないように大事に容器を両手で抱えながらスタンドに戻ると、雨はもう殆ど降っていなかった。しかし太陽はついぞ顔を覗かせることなく、未だ薄暗い雲が上空ではうねっていた。
席に戻ると私の席の後方に何人か座り始めていた。両隣は未だ誰も座る気配はない。私は自席に着くと、両手に抱えていた白い楕円の容器を膝上に乗せた。
雨の中食べるのかと買った後で心配になっていたが、一時的にもこうして雨脚が静まったのはなんとも好都合だ。カウンターで貰ってきたスプーンを取り出す。
カレーの色はどこにでもあるいかにもなカレーの色。楕円の容器の半分にライス、半分にカレーが入っている。カレーはこってりとやや粘り気のある欧風カレーのそれに近い。重たそうに見えるがしかし、ファストフードとしての役割を担っているこいつはそれ程しつこくはないだろうと私は思った。
ところでこうしてみたところカレー自体に具は入っていないようにも見える。牛すじカレーやカツのトッピングがあるのだから、もしかするとその方が都合がいいのだろう。
それよりも問題は味で、彼の人物の曰く「日本一有名な球場カレー」がいかがなものか試してみなければならない。
ライスとカレーの境が半分ずつスプーンに乗るように掬い、口に運ぶ。辛口とあるが激辛ではない。しかしこの辛さと微かに口の中に残る香ばしさは「丁度良い」ものだった。これ以上辛くても甘くてもいけないような。私にとって辛口は正解だったようだ。一口目ついでにカレーの中をスプーンで探索をする。どうやら具が入っていないのではなく、見えなかったようだ。細切りの玉ねぎと細切れになった肉の塊が入っている。さてさてこれは何の肉なのだろうか。ライスなしでカレーとその塊を口にする。
この脂身、そしてこの繊維質な食感で牛肉だということがすぐに分かった。これ一切れだけではないだろうと探ると、もう数個程発掘できた。それが何となく嬉しかった私はその残りの牛肉をカレーの中へしまい込み、再びカレーとライスを食べ始めた。
「カレーかぁ」
後ろから声がした。右後方に座っていた夫婦らしい二人の男の方が席を立った。人が徐々に着席を始めているとはいえ、この辺りはまだそれ程埋まってはいない。男の歩く足音が、階段を少し上がった位置からこちらに届く。
あまりじろじろ見るわけにもいかず、私は再び膝の上に視線を戻した。
カレーを掬った時に玉ねぎが引っかかってきた。牛肉より小ぶりでいくつかみられるだけだが、その存在感は今しがた見つけたあの数切れの牛肉よりも存在感がある。ビーフカレーと呼ぶべきか、牛肉入り玉ねぎカレーというべきか……。しかし味で言えば肉の脂の甘味と口当たりを備えた味だからこれは前者に違いない。私はそう思いながら3口目のカレーを玉ねぎと共に口にした。
スタンドの向こう正面はもうほとんど座席が埋まっているようだ。その所々で多色ペンライトを振る者が多数みられた。青、赤、オレンジ、ピンク。よくある光景だが最近まで私はその行動の意図するところが分からないでいた。精々ライトが付くかどうか試しているだけだろうと思っていたのだが、違ったようだ。最近知り合いにあった同好の士がいうには、こうだ。席が離れた友人知人たちに「この辺りにいる」という位置表示をするために振っている。だからその際にはチャットアプリやSNSを使って呼びかけながら振るというのだ。連れ合いのいない私にしてみれば無用の行為だが、あの点いたり消えたりする多色の蛍火は、この曇天模様で鮮やかさを増していて綺麗であるので嫌いではなかった。
食事を続けようとしたところ、左隣に二人程荷物を抱えて来た。
二人とも学生だろうか、私より一回り若い見た目の男女だった。どうやら男の方がデートにと誘った様子だった。垢抜けない若い彼氏は色々とこれはこうだ、ああだと彼女に言い、彼女はそーなんんだと落ち着いて相槌を打つ。どうにも浮足立っているのは彼の方だけだった。それを横目で見ながら私にもそんな頃があったな等と思ってしまった。
「こんにちは。よろしくです」
彼氏の方が言った。
私はスプーンを止めて若者の方を向き、あ、こちらこそよろしくと返した。突然だったのでつい口ごもってしまった。
「今日ちょっと騒がしくするかもしれませんが、ぶつかったりしたらごめんなさい」
彼氏は続けた。私は、かまいませんよ。楽しくやりましょうと返した。
そこへ席を立った後方の男が帰ってきた。両手には私が持っている容器と同じ形のものを一つずつ乗せている。
「何アンタ。何買うてきたの?」
奥さんらしき女性がいう。カレーを手にした旦那はよっこいしょと腰を下ろし、女性に一つ手渡した。
「なんやこれ、カレーとかええなぁって思ってな」
「アンタ人が食べてる物ならなんでもええなぁって買ってくるやん。前の人の見てたんやろ」
「大あたり。ほい。特賞は福神漬け。外でカレーとかたまにはありかも知れんって」
男は冗談めかして言った。
私は再びカレーに意識を戻した。九月とはいえ、この天候だ。容器の中のカレーライスは少しずつその熱を失いつつあった。早いところ食べてしまった方がいいだろう。しかしその前に私は鮮やかな赤色をした福神漬けとライスをスプーンにとり、口へ運んだ。表面やや冷えたライスとその上に乗った福神漬けの甘味が辛口カレーの辛味と殺しあわずに共存しているのが分かる。カレーの付け合わせは色々あれど、私はこの赤い福神漬けが好きだ。カレーの中にあって色彩の存在感はあるのに、嫌味な主張をしない自由人であり、優等生である。茶色のものが本来の……と誰かが言っていたが、私の中で福神漬けはこの赤色のこの甘い味なのだ。
「雨降らないかなぁ」
隣の彼女が彼氏に言った。
「大丈夫だって。今日やる人は晴れ女だからね。大体ライブの時そこだけ晴れるんだ」
「そーなんだ。でも今日凄い雨だったし」
「大丈夫だって。椅子の下に荷物おけるから多分それで大丈夫」
彼氏は自分の鞄をごそごそとまさぐりながら彼女の問いに答えていた。
「あ、なんか……カレー食べたい」
彼女が言った。
「え、さっきお好み焼き食べたでしょ」
「いやなんか……匂いがすると……」
彼女がこちらと後ろを振り返る。それに彼氏が視線を合わせてなぞる。なんだかすみません。一口いかがですかと言えるはずもなく、目が合った瞬間だけ私は首を軽く動かし誤魔化した。
「まだ開演までちょっと時間があるだろうし、飲み物もさっきなくなったからアタシ買ってくるね」
「えっ、いいよ。ぼく……俺が買ってくるから」
「いいって、なんか今日ずっと奢って貰ってるからいいって。待ってて」
彼女はそういうと、高そうなハンドバッグを彼氏に手渡して財布だけを手にして階段を上がって行った。その様子をじっと見てた私は再び目が合ったその彼氏に何と言えばいいか分からず、デートですかと聞いてしまった。いい大人がカレーを手にしながらそんな質問をするのも随分恥ずかしいもので、私は彼が発するより前に赤面してしまった。
「ええ、ちょっと……誘ってみまして……」
彼氏はハニカミ顔で答えた。私は次の会話が思いつかず、とはいえこのまま放置しているわけにもいかないだろうなと勝手に考えていた。彼氏はそのまま手渡された彼女の真っ白い高そうなハンドバッグを彼女の座っていた椅子の下に置こうとしていた。
あの、そのまま置くと濡れますよ。多分またライブ中に降るかもしれませんし……。
そこまで言って私はまたもしまったと思った。今あったばかりの人に随分とお節介を焼こうとしている。
「あー、やっぱ降りますかねー」
さっき彼女に言った「大丈夫」を彼氏はどこかに置いてきたらしい。心配するようなそぶりを見せる。
何かビニールに入れてた方がいいですよ。と彼に言ったが、持ってきたのはペンライトとサイリウムの束とタオルに携帯充電池。雨除けのものは何一つ持っていないと返ってきた。
私はお節介ついでに足元にしまったビニールの封印を解き、鞄の中から未使用のビニール袋を一枚取り出し彼氏に良かったらこれに荷物入れてくださいと手渡した。
「えっいいんすか? ありがとうございます」
どうやら渡して正解だったようだ。さっき鞄をゴソゴソと探っていたのはなにか覆うものを見つけたかったらしい。結局彼の鞄からはコンビニの小さな袋しか出てこなかったが。
「なんかすみません初対面なのに。助かります」
彼はそういうと抱えていた彼女の鞄を彼女の席に置き、自分の鞄を袋に入れだした。流石の私も、いや君のじゃなくてね、彼女さんのねと止めた。
そうこうしているうちに彼女が帰ってきて、一つの器を彼氏と二人で分けて食べ始めた。振り返るといつの間にか周囲は人で埋まっている。私のカレーも残り僅かだ。
もうこうなると全部一気に食べたほうがいいと思い始めた。手元の時計は十六時半を過ぎている。いつも開園が二十分程おすのが通例だが、早めにこの膝上の幸せを片付けた方がいいに決まっている。
私は残りのカレーとそこに残った牛肉を集め、残りわずかとなったライスにかけるとそれを掬って食べた。カレーは冷えたものの、風味は変わらなかった。ライスが甘いのは福神漬けの名残だろう。そこに牛肉が混ざってくるとまた一段とご馳走になる。そのご馳走ももうおしまい。成程、これは彼の人の言う「日本一有名な」という二つ名をつけても違いはないだろう。しかしそれを租借しながら私は、ああ今日が快晴の夏日だったらなと心で吐露した。雲は一向に晴れる気配はなく、時折こちらに悪戯するようにぽつりと雨粒を小さく落とす。
「カレー食べたくなってきた」
「いやもう始まるて」
「ちょっと止めといて。買うてくるから」
私の真後ろに座った若者二人が話している。
「なんかカレー食べたくて買ってきちゃった」
「あー、人がカレー食べてると匂いでそう思うよな」
そんな声がちらほら聞こえ、気が付いたら直近の何組かが席でカレーを食べ始めている。なんとなく自分が起爆点になっているような気がして恥ずかしかったが、別に友人でも何でもない人たちがそんなに私を見ているわけでもないだろうと決めつけて私は辺りを見回すのを止めた。
「あれ、もう開けるん? 」
前の方でする声に私は視線を向けた。三人連れの男性のうち一人が小さな包みから青い風船を取り出していた。それは入口で全員に配られたものだった。確か演出で使うという事だから指示があるまで膨らまさないでくださいという事だったが、はしゃいで今膨らませようとしているのか。
「いやこれ素人は知らんやろけど、これ伸ばしてな、一回膨らませて置いたら慌てんでもええんや」
そう言いながら彼は風船を縦横に引っ張って伸ばし、息を吹き込んだ。風船は命を授かったように膨らみながらうねる。
「な、これな。それ伸ばさんと吹いてみ……ほら、あかんやろ。これやると何故かスムーズに膨らむんやな」
得意げに言う彼の横で感心しながら二人が同じようにビヨンビヨンと風船を引っ張る。それを見た私もなんだかそうしておいた方がいいと思い、左のポケットにしまい込んでいた風船の包みを取り出すと、前の三人と同じように引っ張り始めた。そうすると隣の若いカップルも、なんとなく前を見ながら同じ動作を始める。そうすると「ああ、そうしておくのか」と気が付いたまた隣が、またその後ろがビヨンビヨンと引っ張り出す。その伝搬していくような一連の光景がなんだか滑稽に映った。時刻は十七時を少し過ぎた。会場のざわつきはどこも同じで、少し前まで点々としていた。ペンライトの蛍火はいつしか青一色の天の川へと変わっていた。
ふと舞台の照明が消え、ざわつきは歓声になり、全員が立ち上がる。私も同じく立ち上がって歓声を上げる。その声は周囲の声に混ざりあっという間に消えてしまった。
オープニングの映像と、聴きなれた曲のイントロがかかるとさらに周りの声は勢いを増す。いよいよ開演だ。
あれだけ気にしていた雨が少しだけ降ってきたようだったが私はそれを気にすることもなかった。歓声の薄渦の中、スピーカーからここにいる誰もが待っていた彼女の声が響く。
「いくぜ、甲子園!」
〈終わり〉
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?