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在宅疲れは一生続くのか?

「在宅(勤務)疲れ」も二巡目だ。
昨年、テレビでアナウンサーは、東日本大震災の時張りに「皆で協力しあっていきましょう」的なメッセージを送っていた。もちろん災害時とウイルス感染拡大では状況も異なるし比べるべくもない。

会社員なら、通勤時間がまるまる無くなった分、寝坊もできるし満員電車に乗る必要もない。朝もゆっくりコーヒーを飲める。それってずっと切望していた生活だよな?始業時間になったら自室でもカフェでも、仕事を始めればいい。フレックスを導入していれば、始める時間さえ自由でいい。

仲のいい同僚と会えないよりも、顔も見たくない上司や先輩と距離を置けるのは「理想的な働き方」だ。しかも電話や余計な指示が入らない分、本当に仕上げるべき仕事は集中することができ、いともたやすく、短時間で仕上がってしまう。

そんな理想的な、待ち望んだ働き方なのになぜ疲れるのか。
狭い自宅に家族がいるから?
人と話す機会が減るから?
歩数計が一日1000歩もいかないから?
仕事終わりに居酒屋に寄れないから?
実は嫌な奴だと思っていた会社の人に会いたいから?

独房的感覚が引き起こす気分の波の無さなのだと思う。たぶん平坦すぎるのだ。

生活リズムの節目が減る。普段なら朝起きる、しかも「あーまだ眠い、会社へ行くのはイヤだな」と思いながらも起き上がり、顔を洗う、髭を剃る、せかせかと朝食をとる、着替える、カバンの中を確認する、定期、財布、鍵確認よし、靴を履く、駅へ向かってスマホでポッドキャストを聞きながら歩く、地下鉄に乗る、乗り換える、コンビニでペットボトル飲料を買う、エレベータでいつものフロアに、そして自席に着く。午前も午後も打合せ。でも昼休みには外に出る。

行程のかなりの部分がいま、欠落していることがわかる。

戦時下、明日の命をも知れない兵士が毎朝、仲間に「おはよう」と言って挨拶をし、わずかな水で顔を洗い、髭を剃る。今日撃ち殺されるかもしれない極限状態にあってなお、こうした兵士が生き延びると五木寛之サンのエッセイで読んだことがある。

一見面倒なルーチンは実は必須なのかもしれない。そうした日々の習慣が一日の時間を少しずつ埋めていき、その人の一日が成り立っていく。毎日行っている時は「こんな面倒な時間が無くなればもっとやりたいことがある、自由になる」とさえ思っていたはずだ。それが実現してしまった今、在宅疲れを感じている。

そうか、在宅疲れは「自由になってしまったことによる疲れ」なのだ。

(そんなことはないね)


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