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「頭の良さ」とはなんなのか

大学に進学してからというもの、
私は、親戚に会う度に
「頭がいいのね」
と言われるようになった。
名前の知れた大学に合格できたことを喜んでくれているのだろうが、何か心に引っかかる。

高校2年生の頃から受験勉強をはじめ、クラスの誰よりも勉強をした。
部活にも入らず、予備校に通いつめた。
時間と労力を他人よりもかけた。
だから合格できた。

しかし、その事実をもって「頭がいい」と
本当に言えるのだろうか甚だ疑問である。

大学に行くために勉強をした。
楽しいからでも、賢くなりたいがためでもなく、
かなり機械的に暗記を繰り返しただけの話だ。

文系だった私が受験で得たものは、
今にも崩れ落ちそうなほど地盤の弱い『知識』だけだった


しかし、インターネットが身近なものとなり、
調べたいことなどすぐにスマホで確認出来る
現代では、知識を詰め込んだだけの人間など必要ないのである。

注意してほしいことは、知識が必要ないと
言いたいわけではない。
知識をただの知識として風呂敷を広げたところで
なんの意味もないということを言いたいのだ。

そのため、本当に頭がいいかを考える時、
学歴など判断基準にもならないと思う。

私は、「頭がいい人」とはどういう人を言うのか、ここで定義したい。

「頭がいい」とは、
物事の最大公約数を迅速かつ的確に判断できる
ということだと思う。

世の中の出来事は非常に複雑な構成要素で成り立っている。

その中で、最も複雑な構成要素は
「人間関係」だろう。

ひとは、一人ひとりが目に見えない意思を持ち
何よりもまず自らの利益を優先する。

しかし、人間は利己的には生きられない。
自らの利益を優先し、他人に損害を与えるような人物は必ず組織から排除される。

すなわち、人間関係を構築する上では、
組織、他人の利益が、そして何よりも
自らの利益が最大公約数となる点を見つけなければならない。

そういった判断の迅速性や適格性に富む人材を
社会は必要としていると思う。

そして、判断のために初めて必要となるのが、
知識と経験である。

知識を振りかざしたところでなんの意味もない。
応用して初めて意味を持つ。

その意味合いで、私はまだ頭が良くない。
知識も足りなければ、応用力もない。

ただ、伸び代はあるのではないかなと。
頑張ります、、

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