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【翻訳】セーフ・ヘイブン/ナシーム・タレブ

マーク・スピッツナーゲルの著書『Safe Haven』への序文


聖マリーナ - カール・ポパー - ヘルマン・ヘッセのシッダールタ - Mutua Muli - ポルシェの代替品は存在しない


聖マリーナ


 私の先祖代々の村である北レバントの丘の上には聖マリーナを祀る教会がある。
 マリーナは地元の聖人だが、特徴的なのは他の伝統がマリーナの起源を主張していることである。例えば、ビテュニアや他の東ローマ帝国のアナトリアの地域など。

 マリーナは、私たちが言うところの5世紀に、裕福な家庭で育った。母の死後、父は市民生活に背を向け、修道生活を送ることを決意した。
 彼の目的は、私の村から8マイルほど離れたレバノン山の麓にあるコンヌビウム(カヌビン)谷の岩に彫られた独房で余生を過ごすことだった。マリーナはどうしてもそれに加わりたいと思い、マリノスという名前の男の子になりすました。

 その約10年後、彼女の父が死んだ後に、訪問したローマの兵士が地元の宿屋の主人の娘を妊娠させ、無実であるマリノス神父がその行為を犯したと告発するように指示した。
 マリーナは告発されたが、自分の無実を証明するためにタフな訴訟者を雇ったりはしなかった。
 彼女は、僧侶としてのアイデンティティーと自分の使命の神聖さを保つために、生物学的な性別を明かさなかったのである。
 そのため、マリーナは子供を育てることを余儀なくされ、犯したことのない行為への懺悔のために修道院の壁の外で10年間乞食のような生活を送ることになった。

 マリーナは、仲間や地域社会からの侮辱に日々晒され続けた。しかし、彼女は真実を明らかにしようという誘惑に負けず、毅然とした態度を保った。
 早死にした後、浄罪の儀式が執り行う中で彼女の性別が明らかになった。彼女の死後、告発者の不正が暴かれ、彼女はギリシャ正教の聖人として崇められることになる。

 聖マリーナの物語は、別の種類のヒロイズムを示している。
 一つは自発的に大規模な勇気ある行動をとること、大義のために命をかけること、戦場で英雄になること、哲学的な死のためにヘムロックを飲むこと、ローマのコロセウムでライオンに傷つけられながらも背筋を伸ばして殉教者になることである。
 しかし、正当性が保証されていない中で、仲間からの屈辱的な扱いを毎日受けながら耐え抜くのはずっと困難である。
 急性の痛みは消えるが、鈍性の痛みは遥かに耐え難く、圧倒的に雄々しい。


スピッツナーゲル


 マーク・スピッツナーゲルとの付き合いは長く(20年以上)、彼がかつて一時的にベジタリアンだったことを覚えているほどだ。「考えることも、待つことも、断食することもできる」と主人公が主張するヘルマン・ヘッセの『シッダールタ』を読んだ後かもしれない。
 ギリシャ正教の断食に倣って、1年の3分の2は菜食主義、残りの3分の1は積極的に肉食主義(主に日曜・祝日)にしたらどうかという提案をしたが、納得してもらえなかった。もう一度やってみるべきかもしれない。

 彼は自分の音楽の趣味を同僚にこっそり教える方法を見つけた(主にマーラー、フォン・カラヤンによる演奏)。初期の頃は、儀式のように、会話はカール・ポパーと科学的方法における中心的な(ブラック・スワンの)非対称性に終始するものであった。推論や確率論をビジネスの世界に適用し、市場からのフィードバックに応じて謙虚に改善していくという知的事業を行っているのであって、トレーディングを行っているわけではないという主張である。
 また、Gedankenexperiment(思考実験)などのドイツ語の専門用語もよく話していた。
 戦前のウィーンとそのWeltanschauung(世界観)という、彼のオフィスに侵入してきた著者やトピックの起源には、ランダムではない地理的条件があったのではないかと思っている。

 スピッツは昔から頭が固かったが、それが驚くほどの明晰さをもたらしたという言い訳ができるかもしれない。
 私は紙面上よりも実際の方がはるかに外交的で頑固ではないが、彼はその逆で、外部の人間、つまりジャーナリストやその他のカモに対してはそれを驚くほど上手く隠している。
 例えば、ニューヨーカー誌で私たちを取り上げた作家のマルコム・グラッドウェル氏に、バーでの喧嘩は彼が仲裁し私が仕掛けるものだと思わせることに成功したのがそうだ。

 彼のオフィスの雰囲気は、遊び心のあるユニークなものになっている。来場者はボード上に数式がずらりと並んでいるのを見て、我々のメインエッジは数学的なものだけだと勘違いしてしまう。
 マークも私も、クオンツをやる前はピットトレーダーであった。
 私たちの仕事は既存の金融モデルの数学的欠陥を検出することに基づいているが、私たちの強みは実際に現場にいて、キャリブレーション、微調整、実行、オーダーフロー、取引コストの重要性を理解していることにある。

 驚くべきことに、スキン・イン・ザ・ゲームを持っている人、つまり自分のお金をリスクに晒している自営業の成功者(例えば、退職した繊維製品の輸入業者や、元ショッピングセンターの開発者など)は、すぐにそれを理解してくれる。
 一方で、人事部に期末評価を提出された、どちらともいえないファイナンスのMBAの人たちが理解するには助けが必要だ。
 彼らは直感にも数学にも結びつかない。私がマークと出会った当時、私たちはピットトレーディングと新しい確率論(極値理論など)の交差点にいたのだが、その交差点には当時(現在も)2人しかいなかった。


Mutua Muli


 さて、何が支配的なアイデアとして現れたのだろうか?
 一般の人々には無視されるような、見返りのない、フィードバックのない活動が存在する。これに関連して、次のような補題がある。

フィードバックがないことが、人の無意識の行動や選択に与える影響を過小評価してはいけない。

 マークは、長い間ピアノを弾いている人が一向に上達しない状態を我慢していると、ある日突然ショパンやラフマニノフを完璧に弾けるようになる、という例を挙げていた。

 いいや、現代の心理学とは何の関係はない。心理学者たちは、ペイオフの延期という概念と、満足を遅らせることができないことを障害として論じている。
 今の1ドルと将来の2ドルを比較して1ドルの方が良いと思う人は、結局、人生の中でうまくいかないというのである。
 しかし、これはスピッツのアイデアとは全く異なる。
 なぜなら、線の先に見返りがあるかどうかはわからないし、さらに、心理学者は粗悪な科学者であり、彼らが議論するほとんどすべてのことについてほとんど常に間違っているからである。
 満足を遅らせることで遅らせた人が社会経済的に有利になるという考えは、最終的には否定された。現実の世界は少し違うのである。
 不確実性の下では、1年後に2ドルを提供してくれる人と今日1ドルを提供してくれる人が、その時には破産しているかもしれない(あるいは懲役刑を受けているかもしれない)ので、今実現できる選択を選ぶことを考えなければならない。

 つまり、この考え方は延遅満足(訳注:日本語では「衝動の制御」だが、文意から直訳に近い中文の訳語を使用している)ではなく、外部からの満足がなくても活動できる能力、あるいはむしろランダムな満足が存在することを意味しているのである。なので、約束がなくても生きていける不屈の精神を持つことが求められる。

 したがって、第2の補論は次のようになる。

良いものでも見た目が悪いものは、何かしらエッジ(強み)がなければならない。

 後者の場合、カモが無限に集まってくる中で、忍耐力と精神力のある彼または彼女が正しい行いをすることを可能にしてくれる。

 人は、人の目に良く映りたいと思う欲求を過小評価してはならない。
 科学者や芸術家は、満足感の欠如に対処するために、賞や一流ジャーナルのようなものを作らなければならなかった。
 これらは、(知的・文化的)英雄ではない人たちの「この場にふさわしい姿でありたい」というニーズを満たすためのものである。
 あなたのアイデアが最終的に正しいことが証明されたかどうかは関係はない。その間に勝つことができる中間ステップが存在しているのだ。
 つまり、「研究」は、最終的には研究のように見える非研究のブランド品に仕立て上げられるだろう。
 たとえそのアイデアが将来実現しなくても、「一流の」ジャーナルに掲載されればそれで終わりだ。
 このゲームでは、学術的な金融や経済学などの分野で、(目に見えるフィードバックがない)引用リングやクラブを作り、そこで延々とデタラメ(BS)を言い続け仲間からの称賛を集めることができる。

 例えば、マーコウィッツのポートフォリオ構築理論(またはそれに関連する「リスクパリティ」)では、資産間の相関関係が既知であり、かつ非ランダムであることが求められる。
 これらの前提条件を外してしまうと、ポートフォリオ構築の事例がなくなってしまう(本書で取り上げているエルゴード性など、他のもっと深刻な欠陥は別として)。
 しかし、コンピュータ画面の存在やデータへのアクセス方法を知らなければ、相関関係がむしろ固定されておらず、ランダムに変化していることに気づかないだろう。
 人々がこれらのモデルを使用する唯一の言い訳は、他の人々がこれらのモデルを使用しているということである。

 そうすると、ほとんど何も知らないのに、膨大な業績・経歴(ノーベル賞受賞者もいる)を持つ人が出てくる。
 これらの引用リングや円形のサポートグループは、古代人によって「Mutua muli」と呼ばれていた。つまり、互いに尊敬し合う"ラバ"の協会である。


費用対効果の高いリスク軽減


 金融やビジネスのリターンは、ほとんどが稀な事象から得られるものであり、平時に起こることはトータルではほとんど関係がない。
 しかし、金融モデルはその逆を行っている。1998年に爆発した「ロング・ターム・キャピタル・マネージメント」と呼ばれるファンドは、そのようなMutua muli的誤解の代表格であった。

 ノーベル賞を受賞した学者たちは、彼らのモデルが偽物であることをたった1ヶ月で証明した。
 1980年代、特に1987年の大暴落の後、事実上誰もがこれがインチキであることを知っていたに違いない。
 しかし金融アナリストのほとんどは、長い週末を過ごした後のニューヨークの下水道業者のような"明晰な"頭脳の持ち主なので、これではMutua muliが業界全体を支配してしまうのも無理はない。

 実際、投資の世界には、明らかに間違った数学を使用しながら、外観上は洗練されているように見えても長期的には顧客に損害を与えるアナリストが大勢いる。
 なぜかというと、リターンは自分のものなのに、リスクを負っているのはOPM(他人のお金)だからである--またもや、スキン・イン・ザ・ゲームが欠如しているのだ。

 安定したリターン(継続的な批准)には、テールリスクの隠蔽がつきものである。
 銀行は、1982年と2008年の2回のエピソードで銀行の歴史の中で稼いだ金額よりも多くのお金を失ったが、経営者は依然として豊かである。
 彼らは標準モデルが低リスクを示していると主張していたが、実際にはダイナマイトの樽の上に座っていたのだ。
 そのため、詐欺の道具であるこれらのモデルを破壊する必要があったのである。

 このようなリスクの移転は、すべての事業活動において見られる。
 企業は、テール保険を避けるために、金融アナリストの指示に従うことになる。
 彼らの目には、嵐に耐えられる企業が、次のわずかな景気後退や金利上昇に弱い企業よりも後者の1株当たりの利益が前者の利益をわずかに上回るだけで、あたかも劣っているかのように映るのだ!

 つまり、近代金融経済学のツールによって顧客の利益から乖離した「レントシーキング」層が生まれ、最終的には納税者のお金で救済されることになったのである。
 金融レントシーキングは明らかに社会の敵であったが、実際にはもっと悪い敵、つまり模倣者(imitators)の存在がわかっている。

 ユニバーサ(スピッツナーゲルが運営し、タレブが技術顧問をしているファンド)では、スピッツはポートフォリオのテールヘッジを行う仕組みを構築していたため、ランダムな満足の遅延の必要性から免れていた。
『Safe Haven』で紹介されているように、リスクの軽減は「費用対効果」が高くなければならず(つまり、富を増やすことが必要)、そのためには、重要なリスクを軽減する必要があり、そうでないリスクは軽減しない。

それは、投資可能なアセットクラスとしてのテールリスクヘッジの誕生であった。
 テールリスクヘッジは、ポートフォリオ上の厄介なブラックスワンの影響を取り除き、費用対効果の高いテールリスクヘッジは他のすべてのリスク軽減策を消し去った。その結果、このアイデアが人に伝わり、新しいカテゴリーが誕生した。

 これにより、多くの模倣者が出てきた。これまで近代的な金融ツールに騙されていたのと全く同じmutua muliな人たちが、新たな商品を見つけたのである。

 ユニバーサは次のことを証明した。テールリスクヘッジに代わるものがないだけでなく、テールリスクヘッジに関しては、ポルシェの広告にあるように、簡単に言えば「代替品が存在しない」。

 理念から実行に移すとなるともっと複雑になる。アウトプットは外から見ると簡単だがプロセスは中から見ると大変だからだ。
 実際には、数えきれないほどの自然のエッジやペイオフや確率論的メカニズムを理解するために、何年にもわたる勉強と訓練が必要となる。

 私は先ほど、マークの優位性はピットトレーディングとテールの数学を自然に(作為的ではなく)理解していたからだと言いったが、これは完全に表現できているわけではない。
 彼のエッジはほとんど行動的で、私が言った「頭が固い」という表現は控えめなものであった。
 人間にとって最も過小評価されているのは、執拗で、執着心が強く、退屈で、規律正しいことではないだろうか。
 20年以上もの間、彼が与えられたプロトコルから1マイクロインチも逸脱したのを見たことがない。

 この本は投資業界に対する彼の記念碑的なf*** youなのである。

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