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【翻訳】"大学の終焉" / Roger Scruton


1.『大学と人文学の歴史と意義』


 大学は、私たちの生活に必要な知識・技術・文化を学生に提供すると同時に、私たちの知的資本を高めるために存在しているが、明らかに、この二つの目的はそれぞれ異なるものである。
 一つは個人の成長と関係しているが、もう一つは知識を求めるという、人間に共通の欲求に起因している。

 しかし、これらは相互に絡み合っているので、一方の目的に害を与えると他方の目的にも害を与えることになってしまう。
 これこそ、今日、私たちが大学で目の当たりにしていることだ。
 大学はより一層、大学を生み出した(西洋)文化に反旗を翻し、若い世代から知識を奪うようになってきている。

 大学で過ごす年月とは、ヴィクトリア朝の人類学者が研究していた、部族に生まれた者が、自分達の部族を存続させる責任を負うために行う通過儀礼と同じようなものだ。
 私たちがこれを見失うと、大学をその社会的および道徳的目的、つまり、知識の蓄積とそれを理解する文化の両方を引き継ぐことから切り離される危険に晒されてしまうと、私には思われる。

 このような社会的・道徳的な目的は、西欧文明を生み出した教育の伝統の中心にあり続けた。

 ギリシャのパイデイア(paideia)は、市民性の育成をカリキュラムの中核と考えていたし、宗教的実践と道徳教育は中世を通じて大学の研究の基本的な部分を担い、芸術界の巨匠達が思い描いたルネッサンス期の理想は、人文学(studia humaniores)のカリキュラムを新興させる際のインスピレーションとなった。

 啓蒙から生まれた大学は、道徳の手綱を緩めるのではなく、学問を、日常生活とは違う規則や手続きを持った、規律ある人間の生き方であるとみなしていた。
 だが、大学は、日常生活に対し、それ無しではどんな人間の活動も意味をなさないような、長期的視座をも与えたのだった。
 決闘が大学文化の一部となっていた19世紀のドイツの荒々しい学生生活でさえ、形式的に統一された行動規範と大学の家庭性の中に含まれており、ドイツ人が「Bildung」と呼んでいる道徳的規律、事実的知識、文化的能力の特異な統合に専念するためのものであった。

 しかし、19世紀の間に、大学は急速な社会的変化に見舞われることとなる。
 宗教的な生き方の衰退、社会的地位や政治力を求める中産階級の台頭、産業経済に必要な知識や技能の要求など、大学はカリキュラムの変更、学生や教員の追加採用、周囲の文化との関わり方の変更を余儀なくされた。

 そのような流れの中で、イギリスとアメリカでは新しい大学が設立されたが、そのうちの一つである1826年に設立されたロンドン大学(University College London)では、世俗的なカリキュラムが明示されており、大学で提供される全ての科目が、それまで学問を包んでいた神学的な蜘蛛の巣を一掃できるような、科学的頭脳の持ち主を育成することを目的としていた。

2.『枢機卿の求めた大学の姿』



 しかし、教育機関が新たな使命感を持たざるを得なくなった一連の変化にも拘らず、大学は上位文化(high culture)の守護者としての地位を維持していた。思索的な思考、批判的な探究心、重要な本や言語の研究など、全てが学問のために隔離された雰囲気の中で維持されている場所として在り続けていたのだ。

 ニューマン枢機卿(John Henry Newman)が1852年に『大学の構想(The Idea of a University)』を書いたとき、それは主に、新しい製造業社会の実用主義的な考え方に対抗する、社会から隔離された場所、準修道会の境地としての大学の古い概念を支持するためのものであった。
 ニューマンにとって大学とは、大学に通う人々の人格を形成するために存在するものであり、学生を大学の環境に浸し、教養ある心の理想を彼らに印象づけることで、未熟な人間を一人の紳士へと変えることができる場所であった。

 これこそ、ニューマンが意図していた大学の真の社会的機能である。
 大学の壁の内側では、思春期の若者には人生の終わりのビジョンが与えられ、彼は大学から世界が提供していないものの一つ、すなわち本質的な価値の概念を得ることになる。
 そして、それ故に、利己主義的な誘惑が四方八方から私たちを取り囲み、あらゆる目的を物質的なものにしてしまう危険に晒されている--言い換えれば、ニューマンが見たように、手段が目的を飲み込んでしまう危険に晒されている商業と産業の時代に、大学が重要となるのだ。

 現代は、ニューマンの時代から多くのことが変わった。
ほとんどの学生が女性である時代に、大学が紳士の輩出に従事しているというのは、些か馬鹿げているとしか言いようがないだろう。

 ニューマンの理想とする大学とは、実際のオックスフォード大学、ケンブリッジ大学、ダブリンのトリニティ・カレッジをモデルにしたもので、当時は男性のみを入学させ、常駐学者の結婚を認めず、英国国教会の枠内で準宗教的な機関として維持されていた。

 彼らの学部生は主に私立の学校から募集され、カリキュラムはラテン語、ギリシャ語、神学、数学を中心とした堅実なもので構成されていた。
 彼らの家庭生活は大学を中心に展開されており、ドンと学部生の居住区があり、毎晩ホールで一緒に食事をし、大学のガウンを着ていたりした。

3.『大学の変化』

 ニューマンの時代にイギリスの旧制大学に通っていた人の中で、母校で「成り上がる」ことを本当の目的と考えていたのは極一部の人だけである。
 ある者はボートを漕いだりラグビーをするのを楽しんでいたし、また別のある者は爵位を相続するまでの時間を待っていたし、ある者は軍の従軍要請を待つ間、仲間と乱痴気騒ぎに興じるなどして大学生活を過ごしていた。

 ほとんどの人が社会的エリートの一員であり、高度な文化で覆うことでその権力を永続させるという、ユニークな方法をとっていた。

 そして、この保護された美しい環境の中では、文化にも真剣に取り組むことができた。
 銀行にお金があって時間に余裕があれば、実用主義的な価値観に背を向けるのはそれほど難しいことではなかったのだ。

 今日の大学は、ほとんどすべての点でニューマン枢機卿の時代とは異なる。
 社会のあらゆる階級から入学し、男女平等に開かれており、国家がその研究・運営資金を提供していることが非常に多くなった。

 ニューマンの魂を形作った冷静な家庭生活はほとんど残っておらず、カリキュラムの中心となるのは、商業を超えた人生の魅惑的なビジョンが漂っている古代ギリシャ語のような崇高で目的を持たない科目ではなく、科学や職業訓練的分野、そして今ではどこにでもあるような「ビジネス系学部」であり、それを通して学生は世界の道を学ぶことになっている。

 さらに、大学は、そのサービスの提供を享受する人口の割合が増え続けるにつれて、国家予算をどんどん吸収することで拡大していった。

 例えば、マサチューセッツ州において、大学の教育はどの産業よりも最大の収入を得ているし、イギリスやアメリカの主要都市には少なくとも 1 つの大学があり、アメリカの州立大学では、一度に 5 万人以上の学生が在籍していることすらある。
 また、高等教育は、フランスのバカロレア(baccalauréat)やドイツの検定試験(German Feststellungsprüfung)に合格したすべての人に権利として提供されており、欧州の政治家たちはしばしば、全ての子どもたちが適時に卒業できるようにならないと、教育改革の取り組みが完了しないかのように語っている。

 大学は、もはや社会的エリートを創設する事業ではなく、エリートが過去のものであることを保証するという、初期の目的と反する事業になったのだ。

4.『新しい大学と検閲』



 「目的を超えた目的」を提供するという口実の下にニューマンが称賛した大学は、既存の上流階級の特権を保護し、競争相手が進出する前に障害物を置くように設計されていたのだと、批評家たちは言うかもしれない。
 
 極少数の人だけが栄誉に授かる会員の証として作られたので、かつての大学は、まさに無駄であるがために尊重されていた無駄な技能を授与する場であり、知識の蓄積を前進させることからは程遠く、神聖な神話を守るために存在していた。
 宗教や社会的価値観、過去の高度な文化を魅惑の壁で囲い、この魅惑を楽しむために必要な技術--例えば、ラテン語やギリシャ語--が最高の知識の形であるかのように見せかけていたのだ。

 要するに、ニューマン的な大学とは、有閑階級を永続させるための道具であり、それが伝えていた文化とは共同体全体の所有物ではなく、単にイデオロギー的な道具であり、それによって既存の秩序の権力と特権が正当性のオーラを付与されたのである。

 それとは対照的に、私たちは知識の成長に専念する大学を持っているが、それらは単に非エリート主義的なだけでなく、その社会構造において反エリート主義的である。

 現代の大学は宗教、性別、人種、階級による差別を一切しない。彼らは開かれた精神による研究と探究の場であり、独断的なコミットメントはなく、その目的は自由な探求の精神を通して知識を進歩させることにある。
 この精神は、可能な限り幅広いカリキュラムの選択肢を持ち、単にちゃんとした基礎を置いているだけでなく、ホテル経営や国際関係学などの、将来の生活に非常に役立つ知識を習得している学生達に授けられる。

 つまり、現代の大学は、貴重な無益さを研究するための社会的に排他的な上流クラブから、必要な技能を広めるための社会的に包括的な職業訓練所へと進化していった。
 そして、彼らが与える文化とは特権的なエリート文化ではなく、誰もが獲得して楽しむことができる「包括的な文化」なのである。

しかし、今日のアメリカの大学を訪れた人は、自由な探究の雰囲気よりも、アメリカの土着的な検閲の多様性に襲われる可能性が高いと言えるだろう。
 アメリカ人が寛容な社会に住んでいるのは事実であるが、アメリカ人には警戒心の強い"保護者"もおり、若者の間に「偏見」の最初の兆候を察知し、駆除することに熱心である。

 そして、これらの"保護者"は、カリキュラムの自由度と革新への開放性により、自分たちの検閲への情熱を行使する機会を提供してくれる大学に引き寄せられるという、生来の傾向があるようだ。

 政治的な正しさを理由にシラバスに掲載されたり削除されたりする書籍、言論統制やカウンセリングサービス、学生と講師の両方の発言や思考を監視し、イデオロギー的な適合性を与えるようにコースが設計され、学生はしばしば、今日の主要な問題について異端的な結論を導き出した場合に罰せられる。

 人種や性別、「ジェンダー」と呼ばれる不思議な何かなどのセンシティブな分野では、生徒だけでなく、どれだけ公平で誠実な講師であっても、間違った結論を出してしまう人は明らかな検閲の対象となってしまう。

5.『なぜ、現代の大学で教育を受けた学生達は、ハードサイエンス(理系)以外の分野を学ぶ価値が見出せなくなったのか?』

 もちろん、西洋の文化は、人文系学部での研究の第一の対象であることに変わりはない。
 しかしその目的は、その文化を植え付けることではなく、その文化を拒絶し、それが平等主義的世界観に反する罪を犯していることをあらゆる手段でもって検証することである。

 マルクス主義的なイデオロギー論や、フェミニスト、ポスト構造主義、フーコー主義などの子孫のようなものが、我々の文化の貴重な成果は、その地位がそれらを介して語りかける力に負うものであり、従って、それらには本質的な価値がないという見解を証明するために召集されるだろう。

 別の言い方をすれば、ニューマンがそれ自体が目的であると考えていた古いカリキュラムは、ただの手段へと降格させられてしまった。

 古いカリキュラムは、エリートによる支配を存続させる排除や支配の形態であり、階層や差別を維持するために存在していたと私たちは教えられている。
 現在の人文科学の研究は、西洋の文化がそのイメージ、物語、信念、芸術作品、音楽、言語を通して、それが永続させるための権力以上の深い意味を持たないことを証明するために設計されているのである。

 
 このようにして、私たちが受け継いできた文化は、道徳的な知識の自律的な領域であり、それを向上させ、保持するためには、学習、学問、没頭を必要とするものであるという考え方全体が、あっさりと捨てられてしまった。
 大学は、文化を発信するのではなく、文化を解体することでその「オーラ」を取り除き、4年間の知的散逸を経て、「何でもありだが、何も重要ではない」という見解を学生に与えるために存在するようになった。

 従って、ハードサイエンス(理系)を除けば、
教義的な態度だけが残るだけで、受け取った知的体系など存在せず、学ぶべきことは何もないという印象が学生たちの中に生じてくる。

 アラン・ブルームは『アメリカン・マインドの終焉』の中で、人文科学に蔓延していた気だるい相対主義--学生も講師も同じように、普遍的な価値観は存在せず、私たちは単に好奇心から私たちに降りかかってきた作品を研究しているだけだという信念--を嘆いている。
 もし私たちが、それらの作品が私たちに突きつけてくる道徳的な挑戦に無関心でいるとすれば、それは、本当の道徳的な挑戦があるとは思えなくなったからに他ならない。

 ブルームの観察は真実ではあるが、それは真実の全てはない。

 道徳的相対主義は、新しい種類の絶対主義のための地平を切り開く。

 新興の人文系カリキュラムは、重要な問題については、それが取って代わろうとしているものよりも、実際には遙かに検閲的なものなのである。

 人と人との間に現実的で内在的な区別があると信じることは、もはや許されない。
 すべての区別は「文化的に構築された」ものであり、それゆえに変化しうるものである。
 そして、カリキュラムの仕事は、それらを脱構築し、区別が継承された文化の一部となっている全ての領域において、区別を平等に置き換えることにある。

 学生は重要な点、特に人種や性別・階級・役割・文化的洗練に触れる問題において、西欧文明は単なる恣意的なイデオロギー装置であり、(その自己イメージが示すような)真の道徳的知識の貯蔵庫ではないことを信じなければならない。
 さらに、彼らの教育の目的は、その文化を継承することではなく、その文化に疑問を投げかけ、可能であれば、自分たちを取り巻く様々な生活様式を区別しない新しい「多文化」アプローチに置き換えることであることを、学生たちは受け入れなければならない。

6.『神への信仰から平等への信仰へ』

 
 
 これらの教義を疑うことは、最も深刻な異端を犯すことであり、現代の大学が必要とするコミュニティに脅威を与えることになる。

 現代の大学は、宗教・性別・人種・文化的背景・能力に関係なく学生に対応しようとしているが、それは、物事の大部分が国家による創造物であり、社会はどのようにあるべきか--すなわち区別の存在しない社会になるべき--という国家主義的な考えに完全に同意している。
 
 したがって、ニューマン枢機卿の大学が神への信仰に依存していたのと同じように、現代の大学は平等への信仰に依存しており、その目的は、ニューマン枢機卿の大学が紳士の世界の小宇宙であったように、現代の大学にとっては、未来の社会の小宇宙を創造することである。

 そして、私たちが受け継いできた文化は区別のシステムであり、吟味(taste)・判断・識別が主張する全ての領域において、平等とは反対の立場に立っているので、現代の大学は西洋文化とは反対の立場に立たざるを得なくなる。

それ故に、若い世代は、社会や集団の一員になりたいという生来の願望にもかかわらず、大学では「自分たちはどこから来たわけでもなく、何にも属していない」-- つまり、既存の全てのメンバーシップの形態は無効である--と教わることになる。
 そして、学生達が文化的な無の境地への通過儀礼を提供されるのは、これが平等主義的な目標を達成するための唯一の方法であるからである。
 神々しさ、判断、区別に基づいた文明の古い信念の代わりに、平等と包摂に基づいた社会の新しい信念--つまり、他の生活様式を裁くことは犯罪であると教えられる。

 目的が単に一つの信念体系を別の信念体系に置き換えることであれば、合理的な議論の余地はあったであろう。
 だが、その目的とは、ある共同体を別の共同体に置き換えることなのである。

7.『プラハの地下セミナー、あるいは共産党とフーコーが広めた病』

 しかし、それに代わるものは何だろうか?大学がかつて託された文化を伝播しないのであれば、若者は他にどこへ行けばいいのだろうか?
 その問いに答えるためのいくつかの考えは、私にとって1979年に始まった経験から来たものだ。

 当時、私が教えていたロンドン大学では、フーコー、ドゥルーズ、ブルデューの著作が波紋を広げ始めていた。
 私の学生たちは、人文科学には知識など存在しない、大学は知識としての文化を正当化するために存在するのではなく、権力としての文化を覆い隠すために存在している、とあらゆる面で言われていた。

 その中で、自分は一体何を教えようとしているのか、なぜ教えようとしているのかを自問自答していた。
自分が学校や大学で吸収した哲学・文学・批評の偉大な作品を学生に紹介することで、私は、学生が自分の世界を理解するための参照の枠組みや推測の貯蔵庫、洞察と引用のパラダイムを提供していると感じたのだった。

 私は彼らに、教義の体系としてではなく、進行中の会話としての文化のメンバーシップを提供した。それは、事実や理論による知識ではなく、何を感じ、どのような関係を築き、誰とどのような友情を育むのかという、本物の知識の一形態であると私は感じていた。

 しかし、私が想定していたこの知識の集合体は、今では、ブルジョアのイデオロギーとして、あるいは、フーコーの用語で言えば、支配階級のエピステーメー、蓄積されたサヴォワールとして却下される。

 ある日、プラハで開催される地下セミナーの講演をしないかと誘われた。
 私はその誘いを受け入れ、その結果、知識と文化の追求は何にも代えがたい贅沢なものではなく、必要不可欠なものであると考える人々と接触することになったのである。

 彼らが求めていたもの、それは彼らを取り巻く嘘の世界からの逃避路であり、他に彼らの望みを叶えることができるものは無かった。
 そして、自分たちの間で西洋の文化遺産について議論することで、彼らは異端者とみなされ、彼らが実際にしたように、会合を開いただけで逮捕されたり投獄されたりする危険を冒したのだった。

 皮肉なことに、おそらく共産党のもたらした最大の知的成果とは、プラトンの"知識"と"意見"の区別は有効なものであり、思想的"意見"は単に"知識"と区別されるだけでなく、"知識"の敵であり、人間の脳に植え付けられた病気であり、真の考えと偽の考えを区別することを不可能にするものであると、人々を納得させたことである。

 それは党が広めた病気だった。そして、それはフーコーによっても広まった。
 なぜなら、私の同僚たちにあらゆる考え・議論・制度・慣習・伝統を、それが覆い隠す「支配」の観点から評価するように教えたのはフーコーその人だったからである。

 フーコーの世界では、真実や虚実は何の意味も持たず、重要なのは権力だけであった。

 これらの問題は、ヴァーツラフ・ハベルのエッセイ「無力者の力」(1978年)によって、チェコ人とスロバキア人にとって浮き彫りになり、同胞に「真実に生きる」ことを促した。

 もし彼らが真実と偽りを区別できなかったならば、どうやって区別することができたのだろうか?
 また、真の文化や真の知識の恩恵を受けずに、どうやって真と偽を見分けることができるだろうか?
---従って、これらの答えを探すことが急務となっていた。

 そして、その探究の代償は高く付いた--酷い嫌がらせや逮捕・通常の権利と特権の剥奪・社会の片隅に追いやられる生活などである。
 何かをするのに高い倫理的な代償を払う羽目になるとき、献身的な人たちだけがそれを追求するものだ。

 したがって、私は地下セミナーで、ユニークな学生たちを見つけた--彼らは、私が理解しているように、知識に専念していて、また、知識を単なる意見に置き換えることの容易さとその危険性を認識していた。
 さらに、彼らは哲学や歴史・芸術・文学など、科学的な方法ではなく批判的な理解が唯一の指針となる、最も知識を必要としながら、しかし最もそれを見つけにくい場所で、知識を探していたのであった。
 
 そして、私が最も興味深かったのは、私の新しい(プラハの)学生達が、彼らに受け継がれてきたものを継承したいという切実な願望を持っていることであった。
 彼らは、与党への服従以外のあらゆる形態の帰属が、犯罪として疎外されたり、非難されたりする世界で育ってきたが、彼らは、文化的遺産が、彼らの本当の姿と彼らの心理的共同体への通過儀礼を提供するがために貴重であることを、本能的に理解していたのだった。

8.『アレクサンドリア図書館を放火した人が、人類の文化と学問に多大な貢献をした理由』



 地下セミナーのもう一つの魅力的な特徴は、彼らの知的資源が非常にまばらであったことである。
 欧米の学者は、キャリアを積むためには論文や本を出版する義務があり、このことが、第二次世界大戦後の長年に渡って、知性の点では常に二流とはいえないまでも、学術的なメリットがほとんどない文献――退屈で、とっ散らかった注釈が付き、上手い比喩や言い回しで伝えることもなく、寿命の短い内容ではあるが(アカデミックキャリアのためには)無視することもできないような文献――の増殖につながっていた。

 この似非文献の重さが人文科学の講師や学生を圧迫しているので、その下に埋もれている古典を発掘することは今では不可能になっている。

 私は、アレクサンドリアの図書館に火を放った人物が、我々の文化への最大の貢献をしたのではないかと思うことがある。
 放火犯は、その行動によって、教育を受けた人が自分で複製本を持とうと思うほど貴重であると考えていた著作以外の、大量にあった(無駄な)文献が、確実に後世に何も残らないようにしたのである。

 共産主義者は、チェコスロバキアの知的生活においても、人々が手間のかかる地下出版を作る準備をしていたほどに貴重とみなしていた著作以外の本の出版を阻止することで、同様の知的奉仕をしていた。
 これらの本は、人の手から手へと直接渡され、(大学内での)キャリアアップよりも知識が目的の読者たちによって、熱心に、そして興味を持って読まれていたのだ。

 学術雑誌や脚注に囲まれた生活の後では、これは何と爽快なことだろうか!

 もちろん、地下セミナーの状況は異常であり、誰も再現しようとは思わないだろう。
 それにもかかわらず、私は他の人たちと協力して、これらの個人的な読書会を組織化された(秘密ではあるが)大学に変えようとした10年間の間に、私は二つの非常に重要な真理を学んだ。

 一つ目は、文化的遺産とは本当に知識の集合体であり、意見の集合体ではない――それは人間の心の知識であり、人間の共同体の長期的なビジョンの知識である――ということである。
 第二に、この知識は教えることができ、そのためには莫大な資金を必要としない(間違いなく、アイビーリーグの大学が要求しているような、学生一人当たり年間 5 万ドルは必要ない)ということである。
 
 それには、時の試練に耐えてきた、本当に勉強している全ての人たちから大切にされているような、一握りの本が必要であり、また、知識を持った教師と、それを身につけようとする熱心な学生が必要だ。
 そして、学んだことをエッセイや評論家との対面で表現し続けなければならない。
それ以外の全てのもの--(大学の)運営、IT設備、講義室、図書館、課外活動のリソースなど--は、それに比べれば、取るに足らない贅沢なものである。

9.『人文学を堕落した大学の支配から自由にするためには?』


 かつて大学が共産主義の下で堕落したように、現代の大学機関がどうしようもなく堕落してしまったときは、例えそのコストがソ連占領下の欧州と同じくらい高かったとしても、私たちはもう一度同じことを始めなければならない。

 だが、私たちにとっては、そのコストはそれほど高くはないだろう。

 我々の文明の最も貴重な贈り物であり、20世紀の間に最も脅威にさらされていたものは、他者と繋がるの自由である。
 この自由が未だに存在し、アメリカ以上に自由な国はどこにもないのならば、大学に上位文化(high culture)を託すことができなくなったという事実は、それほど重要な問題ではない。
 
 ハーバードやイェールの運命は、一般的にはどうしても気になるところだろうが--ここでは、アナポリスのセント・ジョーンズ・カレッジやミシガン州のヒルズデール・カレッジのように、古いカリキュラムを信じている人たちが教える準備をしている大学があることを話しておこう。
 また、民間の読書会、オンライン講座、学者協会、シンクタンク、公開講座シリーズなどまあるし、政治的正しさに打ちのめされた学生のための救済サービスを提供しているインターカレッジ・スタディーズ・インスティテュート(Intercollegiate Studies Institute)のような機関もある。

 そのような機関が発行している学会誌があり、結局のところ、かつての人文研究・教育が行われるためには大学を必要としないのではないか?という議論の焦点となっている。

 私たちは、図書館があり、研究室があり、学識のある教授がいて、充実した基金があるから、大学もまた、知識の不可欠な貯蔵庫であると思い込んでしまっているように思われる。
 確かに、科学の分野ではその通りだ。しかし、人文科学ではもはやそうではない。

 しかし、旧来のカリキュラムを擁護する人たちが望んでいるほど、今後の道筋は明確なわけではない。
 グレート・ブック・プログラム、文化遺産の調査、西洋の芸術、音楽、建築の比較研究など、これらはすべて明らかな選択肢である。
 しかし、それは何故だろうか?
ポップ音楽や漫画、ジェンダー研究などの、簡単に取って変えられそうなコースとの違いは何なのだろうか?
 

 「伝統的なカリキュラムには、その場しのぎの気晴らしとは対照的に、真の知識が含まれていた」と主張するのは論点先取である。
私たちは、知識が実際にどのようなもので構成されているかを知らないからだ。

 もちろん、私のチェコの生徒たちが感じたように、私たちもそれを感じている。
 私たちは自分たちの文化の呼びかけを感じているし、この呼びかけに応えることで、私たちは意見の世界を離れ、知識の世界に入っていくのだと言いたい。しかし、それは何故か?

 これまでの答えは、―― マシュー・アーノルドが『教養と無秩序(Culture and Anarchy)』の中で、上位文化は「考えられ、言われてきた最高のもの」から成り立っていると述べているように――些細なものであるか、あるいは、文化的知識は特殊なものから普遍的なものへと超越し、私たちの窮屈な忠誠心や想像上の共同体を宇宙的な理想に置き換えるという、啓蒙主義的な見解の一部のバージョンであるかのどちらかであろう。
 そしてそれは、この啓蒙主義の立場から、本当の文化的継承の特徴的なものがすべて取り除かれたからこそ、人間の普遍性を支持する多文化的で平等主義的なカリキュラムへの小さな一歩となるのである。

 この2つのアプローチよりも優れたものが出てくるまでは、(人文学は)大学の支配から逃れることはできないだろうし、それらがなければ自信を持って再出発することもできないだろう。


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