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入澤美時『考えるひとびと』より ー吉本隆明・サンドイッチと大衆の原像

サービス残業帰り。夜中に、コンビニでサンドイッチとビールを買い、家に帰る。音楽を聴きながらそれをながしこみ、風呂の支度をする。だいたい私の日常です。私を構成するものはサンドイッチとビールだけだといっても過言ではないでしょう。食欲を満たすという行為が本質的に自分に果たされるのは、深夜のサンドイッチ・ビールだけのような気がするのです。そして夢想します。もしサンドイッチとビールがなかったら、と。もし、疫病下の中でも24時間開いているコンビニエンスストアが存在していなかったら、と。こんな世界線に私は慄然とします。

『自動販売機』が、温かいうどんや、出来上がったカップラーメンや、カンのついた清酒や、ホット・コーヒーを取出口に出しはじめたとき、わが国の現実上の『アジア』(意識としての『アジア』ではない)は消滅してしまった。(中略)地方農村から大都市へ流れてきた下層の労働者や、季節ごとの出稼ぎ農民や遊学の学生にとって、こういう即席の食料が、自動販売機の取出口から貨幣と引き換えに出てくるようになったことが、かれらの孤独な生活と余分の労力をどれだけ救抜し、改革しているか」(吉本隆明『重層的な非決定へ』、大和書房、1985)

非高級で、簡便で、ジャンクなものであっても、大衆の原像レベルにまで思考を深めてみると、実は極めて有益な効果をもたしていることを、吉本隆明は具体的に見抜くのです。ここのところずっと読んできた対談集『考える人びと』、最後の話者は吉本隆明でした。


ごく一般の普通の国民というものを、つねに自分のなかにもっていることが、思想的に重要だと思っているわけです。僕は、ほかの進歩的な知識人の考え方には動かされないですけど、ごく普通の人が何を考えているか、また反動的なことも考えているかそうでないか、絶えず気にかけて割りによく分析していると思います。僕の思想を成り立たせる基盤はそれなんです。

正直なところ、吉本隆明が彼がいうところの「一般の普通の国民」(大衆の原像)に全ての言説において立てているかというのは疑問をもっています。しかしながら、中期ー晩年、とくにこの言葉を意識し、発言していた、模索していたというのは私も事実だと思いますし、そこにとてもシンパシーを持ちます。SNSの大規模な展開などの動きを考えても、今は大衆の原像が一つの極として動き、他の勢力と共闘しながら情勢を動かすようになってきたこと、私はこのような現状が吉本がどのように整理し、発言するのかすごく知りたいと思っていました。大衆の原像がもはや原像ではなくなり、自覚的に大衆を名乗り、一つの階層めいたものとして躍動しているのですから。

国は、開いてなくなるということも、欧州共同体を見ると、通貨ぐらいは国がなくなったと同じようになっている。ナショナリズム、国家主義とか国家本位も、少なからずなくなるでしょうってことも、確率としていっていいのではないかと思います。ただ前途遼遠といえば、前途遼遠。いつまでと期日を限定し出したり、体制的に資本主義のつぎは社会主義、みたいな段階を決めてしまうと、そんなことはありうるかどうかわからない。

この本が出版されてから10年、国が開いてきた実感も、EUが強固さを増してきた様子も、みられません。それどころか、かつて見えなくなっていた差別や分断がどんどんと息を吹き返し、自分も蝕まれ、人間そのもに対する不信感すら感じることもあります。

しかし、吉本はこれに対しても、一種の考え方の方法を教えてくれているような気がします。ひとつは対局的にみる、長い目でみるということ。一時の結論や敗北にとらわれず、受け流しつつゆるやかに次の準備を仕込んでいく。後悔も含みながら考えるということ。文中でも、若い頃の思考、今だったらこんな風に思うんだ、というところがたくさんありました。そしてもう一つはやはり生活のレベルで考えるといううことではないかとおもいます。生活は極度に政治の動きや運動とは切り離されるから、政治のことを考えないのではなく、カップラーメンやサンドイッチやコカコーラの後ろ側にある政治(企業、食品産業、そこからもたらされる利権、なぜ私はコーラを飲むのか)へ敏感になることの必要性をいっているようにおもいます。

隠れていた差別、それに伴う分断が可視化されてきた昨今、我々がこれまでどのような歴史(個人の歴史、身体の歴史)を培ってきたのかを自覚し、磨き上げ、これに対峙していかないといけないのではないかと思います。

私も大衆なんです。きっとあなたも大衆なのであり、天皇も総理大臣も大衆に分解するところから思考していくことが必要なのではないかと、そういう風に思いました。



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