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閑話休題『池袋への道 近世の歴史資料、池袋モンパルナス、森山大道」』図録

コロナ禍の昨冬、重要な展覧会がありました。「池袋への道 近世の歴史資料、池袋モンパルナス、森山大道」展(2021.1.31-2.28)です。タイトルの通り、池袋が歩んだ長い道のりを江戸時代の歴史資料、池袋モンパルナス(大正ー昭和のアトリエ村)関係作品、森山大道のストリートスナップを用いて、池袋になにがおこり現在につながってくるのかを考えた展覧会でした。残念ながら私は、この時期に身動きがとれず見逃してしまったのですが、先日図録を拝見し、あらためてその成果に驚いたところです。

まず大道のハイトーンで乾いたストリートスナップがあり、その次に山下菊二や高山良策といったモンパルナスにゆかりある作家の作品が並び、その後に近世史料、とくに鬼子母神の関係資料が並びます。これら各コーナーは、相互に歴史的な脈絡はありません。現象がゆるやかな時系列に並んでいるだけ。でもここで気に留めておかなければならないのは、各時代が進展でも退化でもなく、平等に一覧されるということだとおもいます。

歴史、とくに学問としての歴史は、論理性を重んじ、一時期はいかに進歩したのかなどが計測されました。しかしこの展覧会は、それらの史観からは解き放たれており、街の中に積層するメタファーを上手に引き出してきているような、そんな展覧会なのです。つまり鬼子母神の関係資料の中にも現代を思わせる諸要素があり、森山の写真にも、極めてプリミティブな歴史的な”記憶”が刻印されていると思われます。

この点、論考として収載された森山大道・倉石信乃の対談「都市の体温 池袋の想像力」という部分に関連する言説がありました。

倉石:(略)そうした歴史資料について、森山さんはどうお考えでしょうか。
森山:僕の場合は、日本でも外国でもその街の歴史を知りたいということではないんです。ただ、ある街をぶらぶらして、スナップして歩くなかで、そういう場所があると必ず入ります。そうすると、地域の古い写真があるので必ず見るようにしているんです。その写真を見て、地域のことや歴史がわかるわけではなくて、それらの光と影のなかに佇む風景のなかから直感するような感じです。調べて見に行くということではなくて、その時、その場で直感した写真の在り方みたいなものですね。

歴史に接近する方法は様々あっていいはずです。学問では、文書なり、絵画なり、写真なり、歴史情報を記載したマテリアルを見出し、それを正当に評価(史料批判)し、過不足なく歴史情報を引き出してくることが重要であると教えられます。しかしその段階は、本当はずっとずっと最終的な手法であっていいのかもしれません。我々はこれまで体感する、直感するといった、”感じる”というフェーズを軽視してきてしまったのではないか。

たとえば、古くからの宿駅や門前町でずっと祝宴的な雰囲気に包まれていた場(新宿とか、渋谷とか、祇園とか)に触れたときの湧き上がる高揚感。たとえばホロコーストの場であったり、差別をこうむったエリアであったり、ネガティブな歴史を引き受けてきたエリアを歩くときの沈痛な思い。これらは心身がそこにある歴史の積層に触れ、反応している側面もあるかと思われます。

心身に宿る歴史的な感覚を養うことを我々はさぼってきてしまったのではないか。それがないと街にある多様な要素を腑分けすることができず、自己の軸を失い、飲まれてしまうことにつながるのではないか。

この展示は歴史学の方法論に関して、立ち止まって考える機会を与えてくれました。行けなかったことが悔やまれます。


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