『白い世界が続く限り』 第十六話【欲求が溢れてくる】

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第十六話

 リフトを乗り継いだ先のコースは、ちょっと今までにない雰囲気だった。眺めが良かった初心者コースと違って林の中を切り開いて作ったような、ちょっと狭いけど明らかに初心者向けじゃないコースだ。
 う〜ん、狭くてちょっと怖い。だけど先週滑ったコースと変わらないらしい。
「まあ、まずはゆっくり滑ってみなよ」
 みつまるさんが斜面の先を促す。自分よりもずっと小さな子供とかが滑っているので多分大丈夫とは思うけど、ここは意を決するしかないっぽい。
 あ〜。なんかこういう雰囲気って、劣勢な時のバレーのサーブに似てるなぁ。どこ打っても簡単に取られそうだけど、打たないとダメなやつ。
 そだ、こういう時って……
 私はそういう時、ギリギリ前が見えるくらいに目を閉じてうすらぼんやりと前を見る。そうして動き出すと、いつも通り動ける気がしてる。なんでそうしていたかはきっかけが思い出せないけど、そうすると感覚で出来る気がしていた。ピンチの時やチャンスの時、気持ちが昂ったり怖気付いたとき、視界をぼやかしていると気持ちが落ち着く気がするのだ。
「よし。」
 頬に風を感じる。そして足元は、何の不安もなく動いていた。滑り出してすぐに怖さは快感に塗り変わり、先週の佐久穂の最後の方で感じていた感覚を思い出していた。
 意のまま。多分それを感じている。曲がる――青い板、イノセントでは感じられなかった安定感がバイクのアクセルを開かせるような、もっと行けるような感覚を感じさせる。スピードは怖さじゃなく気持ちよさ、むしろもっと!と心も加速させてくる。
「……あはっ」
 笑うってことがあまり得意でない自分が笑ってる。客観的な自分がそのことを伝え、うすら閉じていた私の目はすっかり大きく見開いていた。
 景色がどんどん迫ってくる。佐久穂で感じたあの感覚よりもっと上質な、世界と自分がリンクしているような感覚。視線の動きにそのまま板がついてくる。さっき教わったばかりの足をそろえた滑りも、より足にしっかりとしたものを感じて、曲がるとそれがスッと解放されて回っていく!
 意のままに滑れるスキーボード、それを知って世界が変わった先週。そしてその世界が自分と溶け込んでいる気がした今。白い世界に一体感を感じる!
 平らな世界、傾く世界、白い世界。冷たい空気は自分の熱を冷ますためのもの、肺に導かれる冷たい空気は、熱くなった自分の熱を呼気として吐き出していた。
 ……あっという間の出来事。程なく緩斜面になったところで私は止まると、無意識に振り返り滑ったコースを見上げた。
「はあ、はぁ……」
 呼吸が荒くなってた。気が付かなかった……。
 荒れた呼吸のまま足元を見る。クレーシャの名前は、この板の長さ、108cmから来ているとリフトでみつまるさんに教えてもらった。108は煩悩の数で、その英単語からクレーシャという名前になったそうだ。この不思議なデザインも、煩悩とか欲望とか、そういうものを想起させるような意味をもつデザインなんだとか。
 もっと滑りたい。その欲が大いに芽生えてしまった。
「やるねぇ。どう?」
 振り返っていた私に追いついてきたみつまるさんが話しかけてきた。
「――これにします。これ買います。決めました。」
「そう。良かったじゃん。」
 言葉少ないみつまるさんの返事だけど、なんかしっくりと来た。
 そうして、私のスキーボードの目標はクレーシャになった。
 クレーシャさんがニヤッと笑った。

 子どもたちにせがまれて里帰り前にスキーをしにきて、レンタルだのスクールの受付だのと手続きをして、センターハウスを出ると時間になっていたのでそのまま二人ともスクールに預けて暇になってしまった。俺はスキーはまあ人並みに滑れるが、一人でそんなに熱くなって滑りたいと思うほどでもない。
 妻は運動が苦手だから初めてスクールに預けた下の息子の姿を見ようと、キッズゲレンデの下に用意されている観覧席の方に行っている。俺も行こうかとも思ったがせっかくリフト券を買ったので滑ってこいと言われてしまった。
 安くないしな、リフト券は。親子で買ったら安くなる話があったので得するような気がして買ったが、冷静に考えて上の子の分だけでも良かったように思う。
 賑わうセンターハウス前。このスキー場は子供のレッスンで評判が良いと聞いて上の子と初めて来たのが2年前。その時と同じ風景で、班ごとに分かれてとてもたくさんのゼッケンをつけた子どもがいる。
 上の娘はだいぶスキーが好きなようだ。俺の少し向こうで音楽に合わせて準備運動を行うインストラクターたちと、元気に踊るように体を動かしている。……もう三年生だし、そろそろ自分の板を買ってやるか。誕生日も近いしな。
 準備運動が終わり娘が同じくらいの子供たちに混ざって板を担ぎ、リフトの方に歩いて行くのを見届けると、少し暇に感じた。
 ふとセンターハウス前で景色を見回していると、ちょうど子供たちのサイズに良さそうな板が並んでいる。スキーボード?無料試乗会?まあいい、冷やかしに覗いてみるか。
「これって、子供用なんですか?」
 スタッフと書かれたベストを着ている人に声をかけてみた。
「いや、大人でもいけますよ。むしろ大人用です。」
「へぇ、こんなに短いのにね。滑れるの?」
「ガンガン滑れますよ!スキーより楽だっていう人も多いですね。」
「まあ短いもんな。」
 正直、ある程度滑れるようになってスキーに魅力を感じなくなっている。どこに行っても上から下まで滑るだけ。級とかそういうのは興味ないから、滑れればあとは感想がいつも変わらない。子供にスキーをやらせようと思ったのは妻の方だったし、運動が苦手な妻は子供達をスポーツ万能にしたいようだ。俺の場合たまたまゼミの教授がスキーが好きな人で、ゼミ研修の名目で毎冬にスキーに行ったのが滑るようになったきっかけで、今も教授と交流があるからスキーは誘われる。教授曰く俺はセンスがあるらしいが、昔からスポーツは無難にこなせるほうで、何かのスポーツをハマってやった記憶はない。
 教授の話で、スキーは短いほうが簡単だという話を覚えている。だからこの短いスキーも簡単なんだろう。
「今日、無料の試乗会なんで、よかったら体験してみます?」
 スタッフの人が勧めてくる。……正直昼までの時間が潰せればそれでいいから、少し遊んでみるか。
「じゃあ、やってみるか。」
 書類を書いて免許を見せるだけの受付を済ませて話を聞くと、受付の小さな白い札をもらった。そうして板の前に案内されるとカラフルな板がずらっと立てかけられていた。正直違いがわからないが、同じに見えていろいろと種類があるらしい。
「スキーはどんな感じで滑ります?」
「まあ、そうですね。人並みですかね?このスキー場ならだいたい滑れるくらいです。」
「でしたら、こちらがおすすめですね。128cmで長いスキーボードで長板感覚でも使えます。スキボ未経験でも楽しめるモデルですよ。」
 俺は短いのは未体験だからと、この中で一番長い板を勧めらた。
 へぇ、かっこいいじゃん。狼か?スタッフの話だとストックがあってもなくてもという話だ。なんでもスキーボードというものはストックを使わない人も多いらしい。確かに意識すると、短い板でストックなしで滑っている人は憶えにある。
 俺は自分の板の所のストックを取りに行くのが面倒だったから、そのままストックなしで滑る事にした。20分ぐらい、リフト2、3本は滑っていいとのことなので、とりあえず山頂へ行くリフトへ向かう。
 リフト乗り場へ滑って向かう。ここの山頂へのリフトはセンターハウスより少し下にあるので、移動の手間が無くてそれは気に入っている。滑り始めるとまず、お、軽いと思ったが意外と滑れるな。思ったよりしっかりしている。リフトに乗れば足に明らかに軽さを感じるが、意外と印象が悪くない。
 もうじき山頂に到着する。その頃にリフトの上から振り返って見ればいい眺めだ。山頂からの風景は好きで、このスキー場は山頂の景色がとても良いのでそれは気に入っている。教授のよく行く斑尾のゲレンデは雪は多いが天気が良くないことが多いので、あそこに行くといつも通りだとしか感じないが、この清里の眺めはだいたい良いのでそれだけでも満足感がある。
 少し広い山頂。ストックがないので移動が面倒かと思いきや、軽いのでそんなに面倒でもない。スケートも滑れる俺には問題にならない。
 さて、滑るか。今シーズンの一本目だがさて……。
 お、割と滑れるな。ターンも出来るじゃないか。スタッフに言われるがままにブーツも緩めて履いていたが、慣れればそのゆるさも悪くない。
 むしろ、感覚的に滑れるのがいいな。不安定さもコントロールできればかなり面白みがある。自分の長い板では多分……こんな風に滑るは難しいか。小回りも大回りも難なくこなすこの試乗の板だが、自分の板でも同じように乗りこなせるかと言われれば出来なくはないが、結構面倒な気がする。
 ……一息で滑り降りてきてしまった。思ったよりも良いんじゃないか?
 そう思いながら再びリフトに乗って再びメインコースを滑る。確か20度くらいの斜度の、滑りごたえのあるゲレンデだが、全く怖さがない。速度は俺の板と多分変わらない。もう何度も滑っているコースなので今日も滑るのを億劫に感じていたが、どういうわけかこの短い板の滑りは面白さを感じた。
 20分ぐらい乗って良いと言われたが興味が出てその足で借りたテントに戻って、もっと短い板を借りる。今度は紫色の板で、このスキーボードというものの中でも滑り嗜好の本格的なモデルだそうだ。
 先ほどと比べて圧倒的に短く感じるが……大丈夫なんだろうか?先ほどの狼の板は違和感が少なかったが、女性のような絵がなんとも不思議な印象を覚える。
 しかしその不安はすぐに打ち消された。短いのに短くない。意味がわからない。
 短さ故に暴れはするが、しかしそれが楽しく感じる。あるべきところに板が有るから、曲がっても止まっても妙な楽しさがある。少し荒れた部分に入っていってもむしろそれが楽しめ、立ち止まって板を見れば板の女性が笑っている。
 ……スキーボードか。悪くないな。子供用?とか言って冷やかしたが前言撤回だ、これは大人の特別な遊び道具だ。
 板を返しに行くとその板はすぐにオレンジのウェアの人に貸し出されていた。良いぞ、それ。きっと楽しめるぞ。
 さて、次は何を借りるか。もっと短いのも楽しそうだ――

 ――うっかり子供の迎えの時間を忘れて滑ってしまった。時間を確認するために見たスマホは、着信にメッセージにずらりと通知が並んでいた。妻達に怒られるな。まぁ、たまには良いじゃないか。
 俺は白い札とカタログをもらって家族の元に向かった。

 

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