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一枚の自分史:もう一度学生時代の続きをしてみる

1972年22歳の春、卒業式の日
関西大学法文学舎で
恩師の清水先生と一緒に記念撮影。

先生がニコニコと笑っている。とても厳しい教授だった。
おそらく大正生まれ。いつも着流しの着物姿、長羽織、手には文献の入った風呂敷包。それが普段からのスタイルだった。大正浪漫を地でいっておられた。

この写真には、隣に立っているはずの人がいない。

「先生、一緒に写真撮ってください」
「いいよ。今日はお仲間が一人いなくて残念やったね。さみしいでしょう」

F 君がいない。彼とは部活でも学科のクラスでも一緒だった。
特別に付き合っていたとかいうわけではなかった。
けれど、四年間をいつも一緒に過ごした。家族や女ともだちの誰よりも長く。この写真には一緒に収まっているはずだった。

ほんと、あほやなあ。出版社に就職も決まっていたのに・・・。
卒業単位の計算を間違えて、卒業できなかったのだ。

彼はその後、働きながら、教育大の二部に通い先生になった。
最後は校長先生までなった。あのまま順調に卒業していたら、どんな人生だったんだろう。あれからは会えていない。

他人事ではなかった。
私だって危なかった。よく卒業できたものだった。

70年安保闘争の ただ中での学生生活だった。
キャンパスはロックアウトされて、 講義は次々と休講になった。キャンパスに通えないところだけは今のコロナ禍下の学生と同じだった。
今のようにオンラインはないから勉強はできていない。

ロックアウト破りして、部室のある棟に侵入した事があった。
部室に続く階段にはぽつぽつと血糊の跡があった。
その頃、 内ゲバと称して学生同士が鉄パイプで傷つけあっていた。
全学集会では石の礫を受けたこともあった。
機動隊に追われた後輩を救えずに立ち尽くしたこともあった。

それでも課題だけは出されて、レポート試験で単位は取れた。
最も勉強せずに卒業した世代だろうと思う。

さて、清水先生とのことは書くことには困らない。
一年生の国文学演習では新古今和歌集の歌を1首ずつ順番に発表していった。
アから始まって、私の発表は秋も深まる頃だった。
準備も怠らず自信をもって発表した級友たちが散々に撃沈する姿を見てきていた。
解釈を廻って不明なことがあった。どう調べても納得がいかずに焦った。
しかたがないので、発表の時は居直って、ここがこういう訳で解けないことを伝えた。

すると、意外なことが起こった。
「春からこの方、ここにきてやっと大学生らしい発表を聴いたわ!」
褒められたのだ!
「待て!喜ぶほどではない。焼き鳥屋の前を通って匂いを嗅いだ程度やから。まだ店にも入ってないし、味わえてもいない」
天にも昇る心地だった。
いつか、絶対に美味しいと言わせるとその時に思ったような気がするが、もう憶えていない。あれから、焼き鳥の匂いには郷愁を禁じ得ない体質になった。

本当に、恩師とはこれほど有難いものかと思うことがよくある。
そんなエピソードにも事欠かない。

そのころ、講義の前に教室に入ると、必ずアジっている左翼学生がいた。
洗脳が目的の論戦が繰り広げられた。捕まると論破するまで解放されない。
逃げ遅れて、洗脳が始まっていた。論破なんて絶対にできない。実際、危なかった。多くの学生が教室から消えていった。
先生が入ってきて
「ここは、私の講座の場である。関係のない者は即刻に退室しなさい」
当然、例のごとく暴力的なアジテーションを張ってくるが、有無を言わさない。
その姿が今も目に浮かぶ。クラスの学生は私が守るという決意があってのことだと聞いた。
また、地方からの下宿生の相談をまるで親代わりのように聴いておられた。

他の教授方もそうだった。
あの頃は苦学生がたくさんいたが、アルバイトがいくらもあるわけではなかった。学食で、普段は80円定食だが、たまに100円定食を食べていると、プチブルと揶揄された。
神堀先生の「君ら、ちゃんと飯食ってるか?」と問いかける声を今も憶えている。

10年もして、母校に採用の仕事で就職部を訪ねた。
合同研究室にも昼時に顔を出した時、先生の第一声は
「もう、飯食ったか?腹減ってへんか?食いに行くか?」
 だった。

先生、私、もう学生ちゃうし、母親やし、子どもにもちゃんと食べさしてるし、そんな~、腹減ってないか?ってそこ聞く~?

有難いなと思った。
先生にとっては、いつまでもお腹を減らしていた学生のままだったことが嬉しかった。

卒業30周年をやらないと、もう、一生、同窓会をする機会はなくなるからと、30周年を飛鳥のセミナーハウスでやった。そのお世話をしてくださったのが浦西先生だった。卒業してからの方がお世話になった。
40周年を内輪でやってしまってお呼びできなかった。早逝されて、もうお会いできないことを後悔した。
相変わらず、私は失敗ばかりを繰り返してる。

我師の恩を感じるのは、卒業してからのようである。
どの恩師も鬼籍の人になられて初めて淋しいと思う。
50周年は来年廻ってくる。コロナ禍は過ぎているはずだから、むろん、お世話をする気である。
F君は来るかな?口頭試問のあとで、居酒屋で話したことは忘れてるだろうけれど。

さて、清水先生とは、もう一つ大切なことが残っている。
 
国文学科は、単位は揃っても卒論を落とすと卒業できない。学内唯一の学科だった。
忘れもしない口頭試問の日。テーマは【源実朝「金槐和歌集」の作歌における検証】だった。
一部のキャンパスは学費値上げ闘争のためロックアウトされていて、二部の天六学舎で行われた。

まず、一人目は、優しい印象を持っていた文献学の教授の諮問だった。
いけるだろうと高を括っていた。ところが、
「文献学的には何も新しい発見もないし、取るに足らない論文」
 と切り捨てられてはじめて焦ることになる。

二人目は学生を叱っても褒めるところを見たことがない
厳しい指導で有名な清水教授だった。
もう、だめだ。落とした!留年しなきゃならない。
恩師は案の定、
「こんなもんでは合格にはでけへんわ・・・」
 どうしよう、動悸も激しくなり、緊張は最高潮になった。
他に参考文献は?と聞かれて、その頃の売れ筋の吉本隆明氏の「源実朝」を読みかけたけれど、読めば絶対に影響を受けると思い、早々に止めたことを話すと、先生は上機嫌だった。助かったかもしれないと思った。
「目の着け所が面白いから、今後も研究を続けて行くなら単位はあげるけれど・・・」
最後まで聞かずに、もちろん!すかさず「続けます!」 と答えていた。

その後、クラスメイト達は天六の居酒屋で祝杯を挙げたらしいが、私はどうやって帰ったのかさえも覚えていない。

卒業しても、子供が生まれてからも、時々、卒論の提出日に数行しか書けていない原稿用紙を前にしている苦しい夢を見て、ぐっしょりと汗をかいて目覚めることがあった。
さすがにその夢はいつしか見なくなくなったが・・・。

書いていて、忘れていたチクッと痛む感覚がある。
その後、約束通りにその歌集を紐解くことはなかった。

源実朝「金槐和歌集」の相聞歌がそれ以外の歌に比べて、エネルギー値が低いことが気になって、他の歌集とも比較した。
主観から始まって、主観で比較していた。
主観性の高い論文で、そりゃあ、あかんわな。
もう、一度やりなおしてみようか、今なら見えることが多くあるはずだ。
もう少しましな論文が書けるような気がする。

清水先生との約束はいずれは果たしたい。
他にも多くの人と出逢って、忘れている約束があるのではないだろうか。
セカンドライフで人生のタイムラインを歩き直している今、もう一度学生時代の続きをしてみるのもいいなと思う。
人生の途上で忘れていた約束を果たしたい、そんな気持ちがふつふつと湧いている。

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