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文章は逃げ

さて、ご存知のように、5月8日の新型コロナウイルス感染症の5類感染症移行に伴い、東京都による基本的感染対策の要請が終了となりました。

感染対策中の宣伝活動として行ってきた、この「note」の投稿もひとまず終了・・・、になるはずだったのですが、なんだかんだと続けてしまっている。

お店を含め、どうも「潔さ」というものが欠落している自分に嫌気がさすのだが、

まあ、未練がましさと継続力は紙一重という僕なりの哲学もあるので(笑、

本分ではないのを承知の上で、出来る限り続けてみたいと思う。

「そんな大げさな事言わず、文章くらい軽い気持ちで書けばいいじゃない??」

なんて仰る方もおられるが、

ここでひとつ、僕なりの「文章」についての考え方を述べたいと思う。
(同じ感覚を持っている方も多いと思うので)


小生、以前にも書いたが、学生の頃は理工学部建築学科というところに所属していて、主に建物の設計やら施工技術やら構造などを学んでいた(はずです)。

この学科を専攻した者ならば分かると思うが、単位の中に「設計製図」というものがあって、毎回与えられた課題(敷地条件やら、建物用途やら、収容人数やら)をもとに、2ヶ月くらいかけて各々建物のデザインを決めていくという、作業量的にも心理的にも、この学科のなかでは非常に高いウエイトを占めている科目がある。

そしてこの「設計製図」そのもののほかに、学生の頭を悩ますのが、


「設計主旨」というものだ。


カッコいい言葉で言うと、いわゆる「コンセプト」というやつで、自分の設計した建物が、いったいどういう考えのもとに、どういう過程を経て、そのような形になったのかを説明する「文章」を書け、というものなのだ。

ここで、ほとんどの学生が、つまずく(笑。

建築学科を選ぶくらいであるから、建物の形云々については、興味もあるし、自分のやりたいこともあるだろうから、それぞれ思考を巡らせて、青臭いながらもそれなりの形(そもそも学生のすること。構造的に成り立つかどうかは、ひとまず置いておいて)に仕上げてくるのだが、

それに先立って、どうしてそのような形になったのかを、「文章」で説明せよというのだ。

こういう場合、誰しも感じることなのかもしれないが、

自分のしていることを、「文章」にするって、

はっきり言って、

「恥ずかしい」(笑。

そもそも、言葉にならないものを形にするのが「作品」なわけで、それを文章で説明できるくらいなら、はなからそうしてるわい!!などと、小生意気に喚いてはみるものの、それがないとどうにも単位をもらえないので、皆、渋々拙い文章で書いてくる。

稀に、そういうのが得意な奴もいて、美辞聡明な文句を、流暢に綴ったはいいが、出てきた設計はお粗末なんて場合が、一番馬鹿にされる(笑。

まあ、そんな体験のせいかどうかはわからないが、こういった「自分のやっていることを文章にする」という行為を、「恥ずかしい」、あるいは、出来の悪いのを補うために「逃げ」ている、と考える輩は、ものづくりに携わる人であれば、一定数いるのではなかろうか。

でも、

学生時代から、随分と時間が経って、


それなりに、先人達の様々な作品に触れてみると、


やはり優れたものには、ちゃんと優れた「主旨」が備わっているものだ。


建築でも、料理でも、音楽でも、


それに携わった人の言葉というのは、やはりそれなりに納得させられものが多い。


必ずしも、優れた文章を書く人が、優れた作品を産むとは限らないが、

少なくとも、優れた作品を産む人は、言葉の選択も適切なことが多い。


決して、「逃げ」ているものばかりとは限らない。

そして何より、

やはり、きちんとした作品を世に送り出した場合、

それを「文章」として残しておくことは、

その後の「再現性」を高めるためにも、有効な手段になりうるとも、

あらめて、思う。



さて、なかなか中身を伴わない、我が店ではあるが、


そのうち中身が成熟した折には、きちんとした主旨を「文章」にできるよう、


今からその練習のつもりで続けるのも、悪くないかと考えている。


どのみち、「逃げ」てきた人生なので(笑。


神保町へお越しの際は、是非お立ち寄りください。

とうとう梅雨入り。蒸し暑い季節を「西瓜のソルティ・ドッグ」で納めませんか?

お待ちしております。

Rain / Universal Funk
April Records
2001

(本文の最後に、お店でよくかける音楽を紹介しています。お家でお酒を飲まれる際に是非どうぞ。今度お店に聴きに来てくださいね。)

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