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やってそうでやってない、脳直日記(からっぽ男の憂鬱・2024/02/14~15)

今、23:09
noteのテキスト作成エディタに向って、直接この文章を書き始めた。
普段、俺はこの「からっぽ男の憂鬱」と名付けている日記シリーズは、Wordに叩きつけるように書いた文章を、推敲して、コピペしてから、更に手直しして成形してアップしている。

今日は1回それを止めて、頭と指に任せて勢いだけでひと文章でっち上げてみる。

実験とも思うけど、日記ってそういうもんじゃないの?とも思う。
言うは易く行うは難しだ、やってみる。

とは言え、だ。
最近、困っている。
時間が無い。
正確には「俺には時間を正確に使う才能が無い」だ。
時間は今、ありがたいことにたくさん使うことが出来る環境にいる。
ありがたくないことに、持病の悪化と、それに伴う「我が輩は『社会不適応者』である」という刷り込みが体内を乗っ取っている。

この状態に、2018年くらいから去年の7月くらいまでズブズブいた。
当時は、2022年5月まで、ネット上で毎日3時間通話する、というコミュニケーション手段で連絡を取っていたアラサーの精神障害持ちの女性と時間を過ごしていた。
今思えば、「不毛」だ、彼女には悪いが。
だが、その彼女と後味はものすごく悪いが、ぷっつり縁が切れた。
おかげで俺の中の回転が速くなったのは事実だ。
(願わくば彼女がこの文章を目にしないことを祈る)

それとは別に。
俺は完全な夜型だ。
だが、それも、最近終わりを迎えようとしている。
0時前後に頭の回転がストップする。考えられなくなるしものを見たり読んだり出来ない。だから寝る。朝スッキリ起きられる。
ただ、今はまだ「寝たくない」という想いが取れないまま時間を過ごす。これは完全に持病だし、これに何年も取り憑かれてきた。
でも、もう違う。
このままでいいわけがないと、やっと思えるようになってきた。

「時間が無い」のだ。
今度は世間一般で言うところの、「No Time To Loose」だ。

俺はアルバイトを辞めて、現在フリーだ。
(それが「我が輩は『社会不適応者』である」になるのだが、その話は今は関係ないのでしない)

フリーなので肩書きがない。
じゃあ、もう何年も名乗っている俺の肩書きを、埃と蜘蛛の巣を取り払ってピカピカに磨いて、名乗り直してやろうじゃねぇか、と思い至った。
要するに「作家」をやる。

なんの作家かは決めていない。
小説なのか戯曲なのかシナリオなのか詩なのか構成なのか……。
文章屋であることは間違いないだろう。
音楽と美術の才能は俺には無いのでね。

要約すると。
「とりあえず小説を書こうとしてます」
「〆切りは3月31日です】
「俺には知識も学もありません」
「でも、頑張ります」
「今年で43歳なので、時間が無いのです」
以上。

今、そう言うことだ。

で。

ここに、ちょっとだけ何を書きたいか、書いてみる。
(「アイデア出し」に近いが)

最初は戯曲で考えていたのだけど、小説でやってみることにしたことだ。

俺は劇作家で音楽家のケラリーノ・サンドロヴィッチ氏のファンというか、影響を受けている。
長い作品を多作して、しかし遅筆で有名な人だが、あんなに精緻な戯曲はそうそうかけない。たまに長すぎると思う作品もあるけど、その長さは必要な長さだから仕方ない。筆が遅いのはマネしない方がいいけどね。
で。
そのKERAさんの作品群の中でも思い入れが強い作品がある。
『祈りと怪物 ~ウィルヴィルの三姉妹~』だ。
上演されたのはもう12年前の12月。当時まだ現役だった蜷川幸雄氏との演出対決、という興業の元、書かれた戯曲だ。
戯曲本の帯にはこうある。

いつの時代も、世界中の至るところで「祈り」」が捧げられている。その前にはあたかも試練であるかのように、何か大きな力が立ち塞がる――。
「もしもガルシア=マルケスが『カラマーゾフの兄弟』のような物語を、姉妹に置き換えて書いたら?」というのが、発想のきっかけだった。

俺の中で雷鳴が落ちた文章だった。
「作家は何を書いても良い」ということ。
ノーベル文学賞受賞作家とドストエフスキーとチェーホフの題材とを持ってきて混ぜて書こうとする。
出来不出来は別として、要するに「何やっても構わない」ということだ。
(実際、『祈りと怪物』がどれくらい発想に肉薄しているかは、感想の分かれるところだ)

じゃ、俺もやる。

ただ真似しただけじゃ拡大再生産にしからならんので、発想は借りたいけど作るものは俺の思うものにしたい。

俺の中のテーマとしてずっとある「切ないペンギン村」という言葉がある。
ペンギン村は、あのペンギン村だ。

♪ペンギン村からおはこんばんちは
右向いて左向いてばいちゃばいちゃ
……のペンギン村だ。

コミカルな人物たちがポップな街並みで起こすドタバタコメディが起きる町。
そこをセピア色で描いてみたい、というのが、ずっとある。
2017年に書いた『もみの木は見ている』という作品で試したアイデアだけど、まだまだ書きたいことはいっぱいある。もっと推し進めたい。
そこに出てくるのがガルシア=マルケスとドストエフスキーだ。
不可思議な出来事が枝分かれして大きな世界を作っていくマジック=リアリズムの大家と、「物語」を書かせたら世界一かもしれないキリスト教徒のおじさん。
それに更に、空を飛んでくるモンティ・パイソン氏を迎えたい。
どこかでマルクス「4」兄弟も笑っているだろう。
筒井さんだって別役さんだって出てくるだろう。

「切ないペンギン村」を書く。
書き上げる。
書き上げて読んでもらう。

そのためには考える。

そう「考える」のだ。
俺の人生にはこれが足りなすぎた。

中学2年生の夏に「勉強」することをやめた。
その頃、真面目に勉強しておけば、もう少しまともな学校に進めたかもしれないが、「勉強」してまで「普通」になりたくなかった。
今思えば「もっと勉強して上を目指す」ことも出来たのだろうけど、もう30年前の夏は帰って来ない。それにこの30年間、そうしなきゃ出来ない道を歩いてきた。

「学ぶこと」は好きだ。
ただ、「勉強」が嫌いだった。
今、俺は「勉強」しようと思っている。
山のような参考資料が俺を待っている。
「時間が無い」が山のように時間はある。

やりきってやる。

おい、元気出せよ。
これ知ってるかい?
人生にゃ悪い時もあるよ、
それこそホント頭きちゃう。
何やっても悪くなるばっかりだ。
人生の苦さを噛みしめる時、
グチなんてやめてさ、
口笛なんてピッと吹いちゃおう。
それが気分の切り替えには一番だよ。
そう……
Always Look On The Bright Side Of Life!

現在、0:33
1時間半、キーボード叩いて約2700字。
まあ、そんなもんだろう。

脳の思うままに書いたけど、久し振りに日記を書いた、という気持ち。
安心して眠れそうだ。

そいじゃ、ひとまず。

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