2022/02/01(火)

主人公の「私」はおそらく遠藤周作自身の姿であるだろうと思ったので、主人公が見失ったイエスへの信仰がどのような結末を迎えるのかと思いながら読み、結論は「同伴者としてのイエス」。
解説にて「父性原理としてのキリスト教」、「母性原理としてのキリスト教」といったことが書いてあったけれど、たまたま録画していた遠藤周作関連のETV特集にて、遠藤周作が幼くして両親が離婚したため母とは離れて暮らしていたと言うエピソードを知り、なるほど、それで「同伴者としてのイエス」観に繋がったのか?というのは安易すぎる気もするけれど。

解説の「西洋は父としてのキリスト教」、日本は「母としてのキリスト教」といった記述をみて、面白いなぁと思った。以前、長崎の隠れキリシタンの本を読んだ時に、長崎へキリスト教が伝わってから、そこでは長崎独自のキリスト、イエス観が育ち、もはやローマのカトリック教会の信仰とは別物のようになっていたというのを読んだけれど、同じ宗教であっても信仰される土地によって独自に変化していくというのは面白いと思ったし、西洋・日本以外の場所(例えば東南アジアなど)ではキリスト教はどのように捉えられているのか、というのも知ってみたいと思った。

あと、小説の中ではユダヤ教の人たちが嫌な奴っぽく書かれてたけど、その辺はどうなんだろ…そういう観点から宗教を見直してみるのも面白そう。


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