『英雄たちの選択 昭和の選択スペシャル「1941 日本はなぜ開戦したのか」』を批判してみる

 歴史、少なくとも先の大戦頃の日本史は、ものすごく複雑で難解だ。だから、どんな人のどんな著作にも、あるいはTV番組にも、多かれ少なかれ誤りがある。それは人智では仕方が無い。
 そして今回の記事の『英雄たちの選択 昭和の選択スペシャル「1941 日本はなぜ開戦したのか」』(NHK・BS1 2021年12月8日放送)だが、もちろん全てが駄目では無いのだが、重要なところを幾つも間違えているので、ここで批判してみる。

 なお、書いた当人が言うのも何だが、長いし全く面白くないし難しい話なので、読むのはお勧めしない。悪いこと言わないから止めておきましょう。


1・本当の問題は日中戦争ではない。日独伊三国同盟だ。

 早速本題だが、とにかくその番組は間違いが多い。例えば、事実として日中戦争で中華民国を支援したのは、アメリカ・イギリス・ソ連の三カ国。なのだがその番組は、アメリカとイギリスだけが支援していたかのように、事実と相違する放送をしている。

 そして重大なのは、当時の状況を全く理解していない、という点だ。

 これらは以前説明しているので簡単に済ませるが、それは要するにこういうことだ。
(1)日本は、1940年5月~7月頃、南進(すなわち東南アジア方面への侵攻)の野望を抱く。第二次世界大戦の緒戦、ドイツがフランスを打倒したのを見て、次にドイツがイギリスを打倒する物と早のみこみし、それが東南アジアを支配する絶好の好機になると思ってしまったため。
(2)しかし日本は、そうした場合、それがアメリカとの戦争につながると考えた。だから日本は、アメリカ参戦を予防するために、ドイツと同盟する。日独と同時に戦争しなければならないとなれば、アメリカはそれを嫌って参戦は思いとどまるだろう、という皮算用。
(3)しかしアメリカは、アメリカ世論はまだ参戦反対だったがアメリカ政府は、アメリカ自身の安全保障上の理由から、既にドイツとの戦争を決意していた。何が起ころうと必ずドイツを打倒する、という、いわゆるポイントオブノーリターン。
(4)しかしその後に日本はドイツと同盟する。これでアメリカは、ドイツ打倒のためにはついでに日本も打倒しなければならなくなる。そしてアメリカは、早々とその決意を固める。
(5)とはいえ、アメリカにとって日本との戦争は無駄手間。だからアメリカは、その見込みは皆無に近いと当初から思いながらも、一応、日米交渉を行い、日米戦争回避を試みた。日米交渉において、アメリカは日本に対し、日独伊三国同盟の死文化を求める。それは、そのような思惑からだった。
(6)しかし日本は、そのようなアメリカの真意を読み誤り、後々まで、アメリカとの戦争は回避した上で大東亜共栄圏建設を成し遂げられるものと、思い込み続ける。それが、その頃の日本の右往左往の大きな原因のひとつとなる。

 ところがその番組は、以上のことを全く理解していない。それはつまり、日本がどうしてアメリカと戦争するに至ったのか、それ自体を誤解している、ということだ。これは、いけない。


2・『日米諒解案』を作製したのは日本大使館だった

 その番組の間違いは、まだまだ多い。その大きな間違いのひとつが、『日米諒解案』をアメリカ側提案と誤解している点。正しくはこれ、以前説明した通り、伝言ゲーム的錯誤が重なって、アメリカとは無関係に、日本大使館が作製したものだった。

 そしてアメリカ側は、その『日米諒解案』で交渉妥結する意思は皆無。それは単なる交渉の出発点に過ぎず、その後に『日米諒解案』は、アメリカが受諾可能な物に修正されなければならないと、考えていた。
 ところが日本大使館側は、アメリカもその『日米諒解案』を受け入れるつもりなのだと勘違いしていた。そして日本大使館は、『日米諒解案』作成の経緯をきちんと日本本国に報告することも怠った。だから日本本国も、そのように勘違いしてしまう。および、後々まで誤解し続けてしまう。(後に外相・松岡洋右だけは、それが日本大使館制作であることを見抜くが、その判断は共有されない)。

その勘違いは重大な齟齬に繋がっていく。

つまり、前記のような理由から、アメリカは日本に対し、日独伊三国同盟の死文化を求める意思だった。
 ところが『日米諒解案』は、そこが玉虫色になっている。
 だから日本は、日独伊三国同盟を堅持したまま日米交渉を妥結しうるものと、後々まで誤解してしまった。本当は、日米戦争を回避するためには、三国同盟の破棄または死文化が必要だったのに。そしてそれが、その後の日本が右往左往していく原因のひとつになっていく。

 以上は重要な点なのだが、その番組はそれを誤解している。


3・どうして日本は『日米諒解案』で日米交渉を進めなかったのか?の誤解

 その番組は重要なところを何カ所も間違っているのだが、日本が『日米諒解案』を拒むことになった経緯も、やはり間違っている。

 とにかく日本は、1940年7月以降、好機を捉えて東南アジア方面に侵攻するつもりでいた。日中戦争はやり遂げ、アメリカとの戦争は回避し、ドイツのイギリス本土上陸に呼応して、イギリス・オランダと戦争し、当時は米領のフィリピンを除く東南アジア一帯を支配下にしようという野望。そのような思惑から、日本はドイツと同盟もする。
 ところがその後、日本海軍は実際に南方作戦(東南アジアへの侵攻作戦)の研究をしてみる。結果は、戦力不足のため実行困難。および、イギリス敗北後であっても、アメリカとの戦争は回避しがたい、というもの。
 なので、1941年春頃、海軍は及び腰になる。それに陸軍も同意し、1941年春頃、陸海軍統帥部の合意で、南進は仏印までと決まる。東南アジアへの侵攻は行わない、ということ。
 しかしその決定は政府側には伝えられず、だから国家としての決定はまだ「好機を捉えて東南アジアへ侵攻する」のままだった。および、陸海軍それぞれに主戦論者(その時点では、アメリカとの戦争は回避してイギリス・オランダと戦争しようというもの)もいた。

 という訳で、『日米諒解案』が日本本国に到着するのは1941年(昭和16年)4月18日だが、その頃の日本は(それ以降もだが)まさしく船頭多くして船山に上るの右往左往。いったいにして、東南アジアへ侵攻するのか、しないのか、それすら定かで無い、という状態だった。
 それだから日本は、『日米諒解案』でふらついてしまった訳だ。「日中戦争だけは日本の勝利で終わらせる。日本はそれ以上の侵攻はしない。日独伊三国同盟は堅持する」という線で暫定的にアメリカと妥協しよう、という方向に。
 しかし、それに松岡洋右が強硬に反対。そして結局、これもまた全員一致によって、日本は、その国家としての決定は、当初の方針に引き戻される。というか、当初の方針から変更されない、という経緯。

 ところが、以上の事柄を、その『英雄たちの選択 昭和の選択スペシャル「1941 日本はなぜ開戦したのか」』は、理解していない。これは大きな間違いだ。

 ただし、その番組の全てが間違い、という訳では無い。松岡洋右が『日米諒解案』に反対したのは、その番組でも放送したとおり、松岡洋右自身の思惑がないがしろにされ、松岡洋右自身を無視して事が進められた事に対する、個人的な怒りからでもあると考えられる。なのだが、それは事実の一部分でしか無く、他の部分を見落としていては、歴史を誤解することになる。

 そしてきちんと把握しておかなければならないのは、日本の、船頭多くして船山に上るで右往左往の迷走だ。
 以上のように『日米諒解案』の後、日本は、国家としては「好機を捉えて東南アジアへ侵攻する」という方針のまま変わらない。先述の通り、日中戦争はやり遂げ、日独伊三国同盟を堅持することによってアメリカとの戦争は回避し、ドイツのイギリス本土侵攻に呼応して東南アジアへ侵攻する、という方針。
 しかし、統帥部としては、主戦論者(アメリカとの戦争は回避してイギリス・オランダと戦争する)もいたものの、「南進は東南アジアまでとし、それ以上の侵攻はしない」と決めている。
 だから結局、東南アジアへ侵攻するのか、しないのか、それすら訳が分からない。まさしく船頭多くして船山に上る状態だった。
 ところがその番組は、これも理解していない。


4・独ソ戦勃発後の誤解

『英雄たちの選択 昭和の選択スペシャル「1941 日本はなぜ開戦したのか」』の誤りは、まだまだ多い。それは独ソ戦勃発後についても間違っている。

 その番組は「独ソ戦勃発後に、松岡洋右は北進論を主張、それに陸軍参謀本部も同調。一方、陸軍大臣東条英機は南進を主張」としているが、それは間違い。正しくは「南進と北進の両方の準備を進め、状況を見てどちらかを実行する」が陸軍側の主張だ。証拠は『杉山メモ』。
 これに対して松岡洋右の主張は、即座のソ連攻撃だった。および、それが不可能でも、ソ連と戦争することだけは早急に決定し、それをドイツに通告しよう、という主張。

 またその番組は、北進論の本質を誤解してもいる。つまり当時主張された北進論は、「まずソ連を始末して北方の安全を確保した後に南進しよう」という、順番違いの南進論に当たる。つまり、南進すること自体は全員一致で、対立したのはその順番だった。


5・昭和16年7月2日の御前会議の誤解

 その『英雄たちの選択 昭和の選択スペシャル「1941 日本はなぜ開戦したのか」』は、説明が不適切あるいは不足なところも多い。
 そのひとつが、昭和16年7月2日御前会議決定の『情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策遂行要領』。

 要するにこれ、「さしあたり南進と北進の両方の準備だけ進める。実行は状況を見て行う」という決定だ。
 そしてそこには、確かに「対英米戦を辞せず」とはある。が、それはその覚悟で南印進駐を行うということで、それとは別にアメリカの参戦防止に努めることも決められている。ただしその文言は、「米国ノ参戦ハ既定方針ニ従ヒ外交手段其他有ユル方法ニ依リ極力之ヲ防止スヘキモ万一米国カ参戦シタル場合ニハ帝国ハ三国ニ条約基キ行動ス但シ武力行使ノ時機及方法ハ自主的ニ之ヲ定ム」。
 そしてその番組は、このあたりの説明が不適切。

 そして問題の本質は、当時の日本が船頭多くして船山に上るの右往左往状態に陥ってしまっていたということで、それを各論併記したのが『情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策遂行要領』だったということだった。つまりは決定そのものが出来ない状態だったということだ。

 さらなる問題は、そこに深慮遠謀も無ければ覚悟も無かった、という点だ。
 つまり、その1941年7月2日時点では、日本はアメリカとの戦争は回避して大東亜共栄圏建設を遂行する目論見だった。しかし、その後にその目論見は破綻。日本は、大東亜共栄圏建設のためには、アメリカとも戦争して勝利しなければならなくなる。
 そして陸軍は、ソ連攻撃の好機が来そうも無かったこともあり、早々とそれを決意する(1941年8月9日)。『情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策遂行要領』は「帝国ハ世界情勢変転ノ如何ニ拘ラズ大東亜共栄圏ヲ建設シ」で「如何ナル障害ヲモ之ヲ排除ス」なので、それが当然だった。
 ところが首相近衛文麿や海軍にはそうではなく、その後に右往左往していくことになる。


6・松岡洋右は日米交渉打ち切りを主張したために更迭された、という誤解

 その番組は、「昭和16年7月2日の御前会議後に、松岡洋右は日米交渉の打ち切りを主張した。だから更迭された」と説明しているが、これも正しくない。

 松岡洋右は、1941年(昭和16年)7月12日の連絡懇談会で、確かに日米交渉打ち切りを主張した。『6月21日米国案』からアメリカの真意を読み、もはや日米交渉妥結の可能性は無いと判断してのこと。ただし反対を受け、直ぐにそれを撤回。そして『7月15日日本案』を作製している。

 つまり、ただし成功の見込みはほとんど皆無と思いながらも、松岡洋右も日米交渉継続の意思ではあった。だから、松岡洋右が更迭された理由はそれではない。

 では、どうして松岡洋右が事実上の更迭となったのか?というと、その後の日米交渉の進め方でもめたからだ。

 ここがまた複雑で簡単な説明は難しいのだが、要するにアメリカは、『6月21日米国案』のオーラルステートメントで、外相・松岡洋右の更迭を求めていた。松岡洋右はこれに激怒し、そのオーラルステートメントの撤回を、まずアメリカに要求しなければならないと主張した。

 もめたのは、その撤回要求と、『7月15日日本案』とを、アメリカに送る順番。
 つまり松岡洋右は、まずアメリカに撤回を求め、その後に『7月15日日本案』を送ろうと主張した。
 しかし近衛文麿は、その二つを同時に提示しようと主張した。
 そして結局、松岡洋右は、近衛文麿の同意を得ないまま、独断で日本大使館に訓電を送ってしまう。

 そのような幼児的とも思える対立が、松岡洋右が更迭された理由だった。(ただし、その他に松岡洋右の過度の親独や、松岡構想の破綻も理由だったと考えられる)。
 ところが、そのその番組は、ここも間違えている。


7・日米首脳会談案の誤解(ただし、おそらくは)。

 事実としては、日本は昭和16年7月2日の御前会議決定に従い、北進と南進の両方の準備を進める。北進の準備が関特演で、南進の準備が南印進駐。
 ところがその南印進駐への対抗措置として、日本は資産凍結および石油禁輸される。アメリカもイギリスもオランダも、日本の攻撃をぼけっと待つような間抜けでは無かった、ということだった。

 その後、首相の近衛文麿は、日米首脳会談による打開を考える。そしてその『英雄たちの選択』は、それを「国内の対米強硬派を遠ざけ、アメリカが求める中国からの撤兵や三国同盟問題について、妥協案に調印して、即座に天皇の裁可を取り付けようという目論見だった」と説明している。

 しかし、筆者はその説明には同意できない。
 その時の近衛文麿の意図は、『日米諒解案』の時点と同様、「日中戦争だけは日本の勝利で終わらせる。日本はそれ以上の侵攻はしない。日独伊三国同盟は堅持する」という線での妥結を目指すものだった。そしてそれは、『日米諒解案』をアメリカ側提案と思い込んでいたために生じた考え違いだった。というのが筆者の解釈。
 根拠は『木戸幸一日記』(昭和16年8月5日)。および、その後の流れ全体を達観しての総合判断。

 ただし近衛文麿自身は、第三次近衛内閣末期の言動からして明らかに、アメリカとの戦争を回避するためには、駐兵問題で譲歩する考えだった。および、その頃の日米交渉のやりとりからして、ただしここはおそらくはだが、日独伊三国同盟の破棄または死文化にも応じるつもりだった。当初からそうだったとは考えにくいものの。

 だから、もしここで日米首脳会談が実現していたら、おそらく全てはアメリカの思惑通りとなっていた。つまりアメリカは、ただしおそらくはだが、そうとはまったく気がつかないまま、ここで大失敗していたのだ。
(ちなみにだが、その頃、駐日大使ジョセフ・グルーは「日米首脳会談に応じるべきだ」とアメリカ本国に意見具申していた。ジョセフ・グルー著『滞日十年』より)。

 では、何故アメリカは日米首脳会談に応じなかったのか?というと、単純にアメリカの戦争準備が遅れていたからだった。そういう状況で日米首脳会談に応じた場合、あるいはミュンヘン会談と同様、アメリカは日本に譲歩しなければならなくなるかもしれない。アメリカは、その可能性を嫌った。


8・細かいところだが駐兵問題について、それから交渉期限について

 そして日本は、昭和16年9月6日の御前会議で重大な決定をする。
「十月上旬頃に至るも尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては直ちに対米(英蘭)開戦を決意す」というもの。

 では、その「要求」とは何か?というと、「米英は帝国の支那事変処理に容喙し又は之を妨害せざること」「英米は極東に於て帝国の国防を脅威するが如き行為に出でざること」「米英は帝国の所要物資獲得に協力すること」が、その最小限度だった。(それはつまり、筆者が説明したような「日中戦争だけは日本の勝利で終わらせる。日本はそれ以上の侵攻はしない。日独伊三国同盟は堅持する」の線だった)。
 また、支那事変に関連して「日支間新取極に依る帝国軍隊の駐屯に関しては之を固守するものとす」とも決められていた。

 そして以上は政府・陸軍・海軍の三者の全員一致による決定だった。つまり、その9月6日時点では、日本は駐兵問題の譲歩が必要とは考えていなかった。近衛文麿が駐兵問題の譲歩を提案し、東条英機と激しく対立するのは、10月になってからだった。

 それから、上記の「十月上旬」という期限は、主に石油の備蓄量から決められた。平時でも石油はどんどん消費していく(「杉山メモ」の10月23日の永野修身の言葉では「一時間に四百屯の油を減耗しつつあり」)、それが戦争になると一気に大量消費してしまう(『杉山メモ』の数字だと毎年500万キロリットル前後。これに対して貯油は1941年10月末時点で840万キロリットル)。そして日本が石油を獲得するためには、アメリカに屈服しないのであれば、あとは武力で蘭印の油田を奪取するしか無い。
 それでは、それまでの作戦にどれだけの石油を消費するのか?および、蘭印の油田を占領した後、どれだけの産出量を期待できるのか?などを計算した場合、その時点ではその「十月上旬」が期限だった、ということ。そしてそれは、一応戦争は出来るがギリギリの綱渡り、という状況でもあった。

以上、その番組では説明不足な気がしたので書き加えてみた。


9・「日本はアメリカに勝てる」という主張の見落とし

 よく知られたことだが、第三次近衛内閣末期、昭和16年10月上旬頃、首相の近衛文麿は、日米交渉妥結を目指し、駐兵問題の譲歩を提案する。
 しかし陸相の東条英機は、「駐兵問題は心臓だ」などとして、それを断固として拒否。そして「アメリカにも欠点がある」として、9月6日の決定に従い、アメリカとの開戦決意に進むよう、近衛文麿に圧力をかけた。

 それはつまり、東条英機は「確実では無いが、日本はアメリカと戦争して勝てる」と考えていた、ということだった。東条英機のみならず、陸軍は。
 そして、それには一応、根拠があった。海上輸送能力の不足、天然ゴムなど重要資源の不足、政治体制の弱点。および、アメリカ人は贅沢に慣れた弱虫だから苦しい戦争には耐えられない、という思い込み。(根拠は『杉山メモ』)。

 以上、ここも『英雄たちの選択 昭和の選択スペシャル「1941 日本はなぜ開戦したのか」』では見落としているので、記してみた。


10・「重臣を御前会議に出席させて開戦を否決させよう」というのは、おそらく作り話だ

 その番組は、その終わり頃、このようなストーリーを語っている。

 11月半ば、アメリカとの外交交渉が難航する中、国内で密かに戦争回避に向けての動きがあった。その中心にいたのは、元駐英大使で戦後に首相を務める吉田茂。吉田は元外相幣原喜重郎の指示で、あるアイデアを実現しようと画策していた。それは、元首相ら重臣たちを御前会議に出席させ、その場で開戦を否決させるというものだった。

『英雄たちの選択 昭和の選択スペシャル「1941 日本はなぜ開戦したのか」』(NHK・BS1 2021年12月8日放送)

 しかし、これは制度からして有り得ないので、おそらく作り話だと思う。

 つまり当時の御前会議とは、大本営政府連絡会議の決定(ただし制度上は閣議での決定。しかし当時、内閣は必ず大本営政府連絡会議の通り決定しており、だから事実上そうなっていた)を、会議形式で現人神である天皇の前で披露する儀式であり、それだから昭和天皇はその場では沈黙しているのが常だった。全ての決定は事前に定められており、御前会議の場でそれが覆ることはなく、新たな決定が下されることも無かった。

 ただし御前会議の場でも、一応質疑は行われた。枢密院議長による質疑だけは。
 そこからして、『重臣(総理大臣経験者)を御前会議に加わらせて質疑させよう』という発想は、分からないでも無い。しかし決定は御前会議の前に定められており、それで決定が変更されることは有り得ない。

 付け加えて説明だが、当時の日本の制度の上からは、開戦の決定は内閣が行う。実態としては、当時は軍部の発言力が強くなっており、政府が何を決めるにも統帥部の同意が必要となっていたが、制度としては。
 そして内閣の決定は、当時の総理大臣には閣僚を更迭できないので、何を決めるにも全閣僚の全員一致が必要。それが得られない場合、閣内不一致により内閣総辞職となる。
 だから、もし開戦を否決させたいのなら、閣僚のうち誰か一人を説得すれば良い。それだけで開戦は決定できず、内閣総辞職となる。ただし、当時の状況からして、それでもそれは僅か数日~数週間の先送りにしかならない。なのだが、それでももしかしたら、それで戦争は回避できるかもしれない。制度上、重臣をどうこうしたところで無意味だが、こちらは有効に働く手段だ。

 以上、もし筆者の間違いだったら申し訳ないが、そういう話。


11・改めて思う歴史の難しさ

 歴史といっても筆者に分かるのは先の大戦頃の僅かな一部分だけだが、それはものすごく難しい。だから、現在の日本でそれを正しく、もしくは妥当に理解している人物は、ほとんど皆無。

 一般の方々のみならず、NHKもそうだし、ご立派な肩書きをお持ちの方々ですら、そして本職の学者先生ですら、重要なところを誤解していたりする。こう言う筆者自身も、僅かな一部分が分かるだけ。

 とにかく歴史とは難しい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?