改めて南進論と北進論について

 先の大戦頃の日本は、南進論と北進論を構想した。ところが、これがまた七面倒くさい話になる。なので、ここで改めてまとめてみよう、というのが今回の記事。


1・「陸軍は北進論、海軍は南進論」は誤った俗説

 筆者がこれまで説明してきた通り、日本は昭和15年(1940年)夏頃、南進論を構想する。それは、アメリカとの戦争は回避した上で、日中戦争は完遂し、好機を捉えてイギリス・オランダとは戦争して東南アジア~南洋を支配下にしようという思惑だった。そしてそれは、政府・陸軍・海軍の全員一致の決定だった。

 ところが、これも既述の通り、日本の当初の思惑は独ソ戦勃発(1941年6月22日)で破綻する。そして日本は、北進論と南進論に割れる。
 その時最も強硬に北進論を主張し、即時のソ連攻撃を唱えたのが、外相の松岡洋右だった。
 これに対して陸軍は、北進と南進の両方の準備だけ進め、状況を見て実行しようという主張。(ソ連攻撃に関しては、その準備が全く出来ておらず、40日~50日の時間が必要という状況。および、ソ連極東軍は関東軍より遙かに強大なので、そのままでは手が出せず、ドイツがソ連を崩壊させるほどの大勝をするか、ソ連極東軍が西方に引き抜かれて弱体化した場合に攻撃しようという決定)。
 海軍は、北進には反対で南進を主張。
 そしてここでの北進論とは、最初にソ連を始末して北方の安全を確保してから南進しようという、順番違いの南進論に相当する。


2・改めて南進論とは?

 これは筆者が以前記した通り、先の大戦頃に日本が構想した南進論は、1940年夏頃が発端だった。その頃ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発しており、ドイツがフランスを打倒していた。そして日本は、ドイツは次にイギリスも打倒してしまうに違いないと、うっかり思い込んでしまった。そしてそれが、東南アジア方面に侵攻する絶好のチャンスだと。

 そしてそれが、当時の日本が考えた唯一の南進論だった。それ以前の海南島占領時に海軍が南進論を唱えたことはあるが、その前後の言動からしてそれを本気で遂行する意思があったとは考えられない。


3・改めて北進論とは?

 そもそも日本陸軍は、一貫してソ連(ロシア革命の前は帝政ロシア)を仮想敵国としていた。ただしそれは、ソ連(帝政ロシア)を打倒しようとする物では無く、それからの防衛しか考えていなかった。ソ連(帝政ロシア)は日本を遙かに上回る大国で、国力に劣る日本がそれを打倒することなど不可能だったからだ。

 なのだが、それでも日本は、日本防衛を果たすために、ソ連(帝政ロシア)攻撃を考えてはいた。
 これについては、航空機攻撃を想定した上で、地球儀を見て貰うのが手っ取り早いと思う。要するに、ウラジオストクは日本本土の空襲には絶好の位置だった、ということ。そしてそれは片道約1000kmなので、一式陸攻クラスの双発爆撃機で遂行できる。
 では、それから日本本土を防衛するにはどうすれば良いか?というと、これは自明の理、最善なのは日本陸軍がウラジオストクを占領してしまうことだ。だから日本陸軍は、日本近辺のソ連領およりソ連軍を攻撃することを構想していた。(なお、航空機が未発達の時代はそれとは違うが類似する)。

 そして日本陸軍が歴史上唯一、防衛では無くその打倒を目的としたソ連攻撃を構想するのが、独ソ戦勃発後だった。
 しかし、日本はそこではソ連攻撃を行わなかった。理由は幾つもある。独ソ戦勃発を想定していなかったためソ連と戦争する準備が全く出来ていなかったこと(そのためには40日~50日の時間が必要だった)。ソ連極東軍は関東軍を遙かに上回る強大さで、だからドイツが決定的な勝利を収めるまでは、日本はうかつにソ連攻撃は出来なかったこと。しかしソ連軍の実力からして、ドイツが優勢に戦争を進められるとしても、短期間のうちにそのような決定的な勝利を収めるとは期待できなかったこと。そして事実、1941年7月時点でドイツ軍の進撃は期待したほど速くなく、長期戦の様相が既に見えていたこと。

 大戦末期、ソ連は日ソ中立条約を破って侵攻してくるが、それを遵守する気が無かったのは日本も同じ。ここに関しては同じ穴の狢だった。

 そして結局、その後に石油を禁輸され、日本は南進しなければならなくなる。それでも日本は、南方作戦終了後に好機が来た場合にはソ連を攻撃するつもりだった。しかしそのような好機は、結局、来なかった。


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