昭和天皇の戦争責任と明治憲法と認識
さらに続き。
先の大戦頃の歴史は非常に複雑で、正しく理解している人は、ほとんどいない。それは明治憲法下の天皇制についても同様で、それを誤解している人は数多い。例えばこちら↓
https://lite-ra.com/2019/08/post-4921.html
そしてこれ、一応歴史を勉強してはいるが、それが全く足りない上、その理解も間違っている、という事例でもある。
その記事は全体的に間違っているのだが、例えばこちら(https://lite-ra.com/2019/08/post-4921_3.html)のこの部分。
ところが、これ↑はただの間違い。とはいえ、これはこれまで説明した通りなので、説明は省く。
念のためひとつだけ言っておくと、『天皇の承認なしには開戦も終戦もできなかった』が誤り。天皇の裁可が必要なのはその通りだが、憲法違反などの瑕疵が無い限り、制度上、天皇には政府と軍部の決定を拒否できない。
そして、また例えば、この部分↓
そもそも明治憲法下の体制では、天皇には権威はあっても権力は無い。そして先の大戦頃の日本は、国家としての決定は、事実上、政府・陸軍・海軍の三者の全員一致制となっていた。
それはつまり、戦争を止めるにも、その三者の全員一致が必要、ということだ。
しかるに↑の1945年2月時点、日本陸軍(および海軍の統帥部)は本土決戦で勝利できると本気で考えており、それに突き進もうとしていた。
それはつまり、日本陸軍がその意思を変えない限り、日本が戦争を止めることは、制度上、昭和天皇を含め誰にも不可能だった、ということ。
昭和天皇はそのような状況に直面しており、それが「もう一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しい」という発言になったと考えられる。おそらくはだが、そうならない限り陸軍の意思は変わらないだろう、ということだったのだろうと。(ただし、この時期には昭和天皇も本土決戦に勝利できると考えていたと思われ、しかし対ソ工作の思惑もあったはずであり、微妙な話になる)。
それから、↑の『「無条件やむを得ず」の早期講和論へようやく舵を切ったのは5〜6月頃とみられている』も事実誤認。
日本が講和を目指して対ソ工作を始めるのは、昭和20年6月18日。しかしそれは無条件ではないし、そもそも無条件の講和など有り得ない。また、この後に及んで日本はその講和条件を少しでも有利にしたいと考え、そのためにその行動は遅れ、だから事実として早期ではなかった。
また、対ソ工作開始後も「本土決戦で勝利できる」という判断は変わらず、それはその準備と平行してのことだった。
そして、日本が国体護持を唯一の条件とするポツダム宣言受諾を決定したのが昭和20年8月10日未明で、その時点でのそれは「無条件やむを得ず」ではなく、「国体護持が確実に保証されるならば降伏する、そうされないなら徹底抗戦する」だった。軍部のその意図はその後も変わらず、それがバーンズ回答の時に大問題となる。
つまり、↑の『要するに、どこをどうとっても、天皇の戦争責任は明らかなのだ』は、事実誤認に起因する誤り。
以上のような誤りは、根本的には明治憲法を理解していないことが原因だ。そのLITERAの記事にはこう↓ある。
まず、昭和天皇の激怒は張作霖爆殺事件そのものに対してではない。その対処をいい加減に誤魔化そうとしたことに対してだ。
そして重要なのはここ。昭和天皇は確かに田中義一を叱責し、そのために田中内閣は総辞職した。しかし、昭和天皇のその言動こそが、政治的無責任に抵触する憲法違反だった、ということ。だから最後の元老の西園寺公望は、その後にそれをたしなめた。
そして以後、昭和天皇は明治憲法の遵守に努めた。そしてそれは、ただし天皇の権威による影響力を及ぼそうとはしたが、政府や軍部の決定をそのまま裁可することだった。
つまり、↑のLITERAの記事は、単純に誤解なのだ。
(付け足しだが、もうひとつ重要なのは、結局、昭和天皇の意思は実現されていないという点だ。つまり昭和天皇の意思は、張作霖爆殺事件の真相解明であり処罰だった。田中義一に対する責任追及や更迭では無い。にもかかわらず、これは結局うやむやにされる。そして昭和天皇の意思は、その後もないがしろにされ続ける。それが明治憲法の天皇主権の実態だった)。
ちなみにだが、今回のような話は、法とは何か?正義とは何か?というさらに難しい問題につながっていく。
つまり、昭和天皇は戦争には反対だったのだが、その意思を実現するためには憲法違反しなければならなかった。
しかし、「悪法も法なり」と毒杯を仰いだソクラテスの故事のように、一般に、法は遵守しなければならないことになっている。それが立憲君主の立場ならば、なおさらだ。
それでは、昭和天皇は、戦争回避のため憲法違反をするべきだったのだろうか?
および、そうしなかったことを非難されなければならないのだろうか?
そもそも法とは、正義とは、いったい何なのだろうか?
憲法とは、如何なる場合においても遵守されなければならないのだろうか?
という、「正義の話をしよう」のマイケル・サンデル教授のような、これまた難しい問題。
ここまでいくと、歴史では無く哲学や法学の話になるけど。
そしてLITERAのその記事は、全体的に「昭和天皇は戦争責任を感じていない、反省していない」という批判でもある。これは極めて難しい話になる。
そもそもの話、天皇は政治的無責任なので、その意味において、昭和天皇が戦争責任を感じていないのは当たり前だ。
なのだが、この問題は別の観点からも見る必要がある。
まずひとつは、昭和天皇のみならず社会全体として、戦争に対する認識が、現代人、とりわけ「素晴らしい憲法第九条」な人々とは違っていた、と言うことだ。
事実として一般の国民は、満洲事変や日中戦争を正当な戦争と思い、後押ししていた。太平洋戦争勃発直後、日本軍が連戦連勝していた頃は、「勝った、勝った」と浮かれて提灯行列していた。当時の日本人は、少なくとも正当な戦争や日本軍が勝利する戦争は肯定していたのであり、この点、戦後の人間とは全く違う。
そのような事実を無視し、現代人の感覚で批判するのは不当だ。
さらに厄介な問題がある。昭和天皇は、現実にはどのような情報を得て、事実をどのように認識していたのか?という点だ。
そもそもの話、昭和天皇が直接に事実を知ることは不可能。それは政府や軍部の上奏から、間接的に知ることになる。そして、そこに大問題が生じる。それも人間の行うことなので、そこには必ず意図的な、または意図せざる歪曲が加わる、という点。
話はさらに複雑になる。以前説明した通り、太平洋戦争はものすごく複雑な経緯で勃発している。だから、当事者たちですら、それを正しく認識していなかった可能性がある、という点。
例えば開戦時の外務大臣、東郷茂徳だ。その著作の『時代の一面』からすると、東郷茂徳の認識は誤っていた。では、東郷茂徳がそうなら、東条英機や杉山元や永野修身は正しく認識していたのか?という問題。もしかして、本気で自存自衛の戦争と思い込んでいたのではないか?という大問題。
そして、もし政府も軍部も事実誤認していたのなら、昭和天皇もそうなるのは当然だし、それは政府と軍部の責任となる。
では、いったいにして昭和天皇は、戦争をどのように認識していたのだろうか?
もし本当は日本は正当だったのだ、と思っていたのなら、その点では反省なんかするわけ無い。また、その戦争観は現代人とは違うと考えられるので、少なくとも現代人が期待するようなそれは、するわけが無い。
では、そこはどうだったのか?
なのだが、おそらくこれは解明不可能だ。戦後の昭和天皇の発言は分かってきたが、それにも「当時、本当にそう考えていたのか?」という疑問がつきまとうからであり、ここまで確かめる手段はおそらく無い。
なんにしても、もし歴史を論じたいのなら、まず事実を確認してからにしましょう。
もっとも、「事実とは何なのか?どうすればそれを確認できるのか?」という、これまた難しい問題にぶつかることになるけど。
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