日本は何故アメリカと戦争したのか?(7)日独伊三国同盟は、アメリカとの戦争を避けて、大東亜共栄圏を建設するためだった

 前回は、1940年7月頃、日本は大東亜共栄圏建設の野望を抱いた。そして日本は、それによりアメリカと戦争になる可能性があると考え、アメリカに対する戦争準備を始めた。しかし日本は、それでもアメリカとの戦争は回避したいと考えていた、という話だった。

 今回は、だから日本はアメリカの参戦防止のためドイツと同盟した、という話。ただし目的はそれだけでは無く、ここがまた面倒な話になる。
 とにかくそれは要するに、日本がドイツと同盟すれば、アメリカは両国と同時に戦争することを嫌って、参戦は思いとどまるだろう、という皮算用だった。日本にはドイツと同盟する必然性は無かったのだが、その頃それを強く主張し、主導したのが、外務大臣の松岡洋右だった。

 なのだが、その頃の米独は敵対関係で、だから日本がドイツと同盟した場合、それこそが日米戦争の原因になる可能性があった。だから日本海軍は、ドイツと同盟することを渋った。なのだが結局、事は本当に日本の目論見に進むのか、本当にアメリカとの戦争は回避できるのか、それらをろくに検討されないまま、1940年9月27日、日独伊三国同盟が締結されてしまう。(事実としては、日本の思惑に反し、その後にアメリカは、日本もろともドイツを打倒する方針となる)。

 また、日本にとってその日独伊三国同盟は、ドイツがイギリスを打倒することと、独ソの蜜月関係がその後も継続することを前提としていた。問題はこれについて何の調査も検討も行われなかったこと。勝つのはドイツでは無くイギリスの方だという意見、その後の日米関係悪化を恐れる意見、またその後の独ソ関係を危ぶむ意見もあったのだが、無視された。あらゆる可能性を検討する用心深さは、その頃の日本には無かった。
(事実としては、ドイツはその時すでにイギリス本土侵攻作戦を断念していた。しかしドイツはそれを日本に通告しない。そしてドイツは、1940年12月、来春開戦の予定で、ソ連との戦争を決定する。しかしドイツは、それも日本に通告しない。当時のドイツは背信行為の常習犯で、自国のため日本を利用しようとしか考えておらず、同盟国同士足並みを揃えようとは全く思っていなかった)。

 とにかく近衛文麿は、その手記『三国同盟について』で、ドイツと同盟した思惑を説明している↓

三国同盟条約締結には具体目標が二つあるのである。第一はアメリカの参戦を防止し戦禍の拡大を防ぐことである。 第二は対ソ親善関係の確立である。(中略)
元来予は熱心なる日米国交調整論者であった。(中略)しかしながら事志と違い、その後日米の国交はただただ悪化の一路を辿り、ことに支那事変以来は両国の国交は極度の行き詰まりを呈するに至った。(中略)
しかしながらこれらの努力も何らの効なく、もはや米国相手の話し合いの途をもってしては、目的を達すること絶望視されるに至ったのである。しかも日本が世界に孤立する危険は刻々に迫っていた。ここにおいて唯一の打開策はむしろ米国の反対陣営たる独伊と結び、さらにソ連と結ぶことによりて米国を反省せしむるほかはない。独伊だけでは足りない。これにソ連が加わることによりて初めて英米に対する勢力の均衡が成り立ち、この勢力均衡の上に初めて日米の了解も可能となるであろう。すなわち日独ソの連携も最後の狙いは対米国交調整であり、その調整の結果としての支那事変処理であったのである。

  ただし近衛文麿は巧妙な事実歪曲も行おうとしている。前回記したように、この時点での日本の目論見は、アメリカとの戦争は回避した上で東南アジア方面へも侵攻し、大東亜共栄圏建設を成し遂げることだった。「対米国交調整」で「支那事変処理」だけしようというものでは無い。しかし近衛文麿は、おそらくは自身の責任逃れのため、それを正直に語っていない。

 そして日本は、ドイツとの同盟に大きな危険があることも分かっていた↓(これも『三国同盟について』より)

締結直前の御前会議においても「米国は従来日本が独伊側に走るを阻止するため、日本に対する圧迫を手控えておったが、日本がいよいよ独伊側に立つという事になれば、自負心強き彼国民の事ゆえにこれにより反省するどころか、かえって大いに硬化すべく、日米国交の調整はいっそう困難となり、ついには日米戦争不可避の形勢となるべし」との説も出た。しかしながら松岡外相は「日米の国交は今日までの経験によれば、もはや礼譲または親善希求等の態度をもってしては改善の余地なく、かえって彼の侮蔑を招きて悪化さすだけである。もしこれを改善しこの上の悪化を防ぐ手段ありとすればスターマーの言のごとく毅然たる態度を採るという事しか残っていない。その毅然たる態度を強めるために一国でも多くの国と提携し、かつその事実を一日もすみやかに中外に宣明することによりて米国に対抗することが外交上喫緊事である。しかし本大臣はかかる措置の反響ないし効果を注視しつつ、なお米との国交を転換する機会はこれを見逃さないつもりである。ただそれにしても一応は非常に堅い決心をもって毅然対抗の態度を明確に示さねばならぬ」と論じたのである。(後略)

 要するに日本は、大東亜共栄圏建設のため、敢えてアメリカと戦争になる危険を冒したということだった。そしてそれは、それでもそれは回避しようというねじ曲がった戦略でもあった。(次回に続く)。

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