『日米諒解案』は日本大使館の作成だった、という話

 1941年春頃から太平洋戦争勃発までにかけて、日米交渉は行われた。
 そしてそれは、1941年4月、アメリカ政府とも日本本国とも無関係に日本大使館が『日米諒解案』を作成してしまい、しかも日本本国はそれをアメリカ側提案と誤解してしまうという、とんでもなく歪んだ形からのスタートとなる。
 どうしてそんなことになったのか?というと、これがまた七面倒くさい話で、だからそれを誤解している人は今でも少なくない。なので、ここで筆者が概要をまとめてみよう、というのが今回の記事。

1・神父工作

 日米交渉もものすごく複雑なのだが、その理由のひとつが神父工作だ。
 1940年11月、米国人の神父ふたり(ジェームス・E・ウォルシュ、ジェームス・M・ドラウト。正しくは司教と教父)が来日し、近衛文麿ら日本の要人たちと面会し、とどのつまりは世間話だけしてアメリカに帰っていく、というのがその発端。

 ところがそのふたりは、そこで日本側から、日米交渉妥結のための依頼を受けたものと、思い違いしてしまった。そしてふたりはアメリカに帰国した後、今度はアメリカ政府の要人に対し、日米交渉妥結の働きかけを始める。そして日本から井川忠雄が彼らを追って渡米し、それに加わる。
 しかしアメリカ政府にしてみれば、それは怪しげな民間人の持ち込んだ怪しげな与太話でしかない。だから日本がそうしたのと同様、丁重に話を聞くふりだけして丁重に追い返しておしまいだった。

 ところがここに日本陸軍の岩畔豪雄が加わり、伝言ゲーム的な錯誤が生じていく。


2・駐米大使・野村吉三郎

 説明を続ける前に、駐米大使・野村吉三郎についても触れておく必要がある。
 日米交渉(当時の日本側の呼称は『N工作』)は、1941年春頃から始まる。それを担当することになる駐米大使・野村吉三郎がワシントンの日本大使館に赴任したのは、1941年2月11日。

 ところがその野村吉三郎、もともとは海軍軍人だった。国際法には通じた人物で阿部内閣で外相を短期間務めたことはあるものの、外交官としては素人同然。にも関わらず何故起用されたのかというと、かつて駐米武官を努めた経験があり、アメリカ大統領のルーズベルトとも親交があったからだった。その程度の理由で素人を要職に就けること自体が間違いだった。

 そしてさらなる大問題は、野村吉三郎に対して、日本本国の意図が示されていなかった、ということだった。外相・松岡洋右は、野村吉三郎の赴任前に、自身の意図を記したメモ1枚を渡していた。が、それだけではきちんと伝わっておらず、ここも大きな間違いだった。

 そして野村吉三郎自身が行動力のあるお人好しだったことも大問題だった。それそのものは、あるいは美徳かもしれない。が、上記の二つと重なった結果、それは大きな害をもたらすことになった。


3・当初の日本本国の思惑

 これは以前説明したが、1940年7月頃、日本は大東亜共栄圏建設の野望を抱く。
 それは、ドイツがイギリスを打倒すると思い込み、その好機を捉えてイギリス・オランダと戦争し、東南アジアを日本の支配下にしようという目論見。
 およびそれは、ドイツとの同盟により、アメリカを日独の前に屈服させようという目論見でもあった。 

 だから日本本国は、前記の1940年11月時点、1941年2月時点では、日米交渉を重視していなかった。
 その頃の日本が考えていたのは、ドイツのイギリス本土侵攻に呼応して南方作戦を行おうという目論見だった。(が、その断行を決意していたわけでは無く、ここにも右往左往があったこと、以前説明した通り)。


4・岩畔豪雄

 しかし野村吉三郎はそうではなく、日米交渉妥結に粉骨砕身するつもりだった。そして野村吉三郎は、そのために日中戦争の実情に詳しい人物の派遣を求めた。それに応じて派遣されたのが、日独伊三国同盟とも関係の深い、岩畔豪雄だった。

 ところがその岩畔豪雄、アメリカ到着後、ワシントンの日本大使館に赴任する前に、ニューヨークで神父工作の面々と接触する。そして岩畔豪雄は、彼らが作成していた草案に自身の修正を加え、ワシントン到着後、それを野村吉三郎に提示する。これが『日米諒解案』の原型となる。


5・伝言ゲーム的錯誤

 そしてここで伝言ゲーム的錯誤が生じてしまう。
 つまり、その草案はアメリカ政府の意思とは無関係に作成されたものだった。にも関わらず野村吉三郎は、岩畔豪雄の話から、アメリカもその案で妥協する意思があるものと思い違いしてしまう。

 さらに野村吉三郎の素人性が災いする。それが本職の外交官ならば、何はともあれ本国に報告し、請訓しているはずだった。そうしていれば、その後の誤りは事前に防げたはずだった。
 しかし野村吉三郎は、そうしなかった。野村吉三郎は、日米交渉を妥結させたい善意からではあるのだが、ここで大使館独自で『日米諒解案』を作成するという、大きな過ちを犯す。それは、神父工作で作られていた案に岩畔豪雄が修正を加えたものを、さらに一部修正したものだった。

 そしてそれが、まず神父経由で非公式にアメリカ側に伝達される。
 アメリカ側にしてみれば、やはりそれは怪しげな民間人の持ち込んだ怪しげな与太話であり、だからそういう対応をした。つまりは、それまでと同様、丁重に話を聞くふりだけして丁重に追い返した。にも関わらず神父たちは、日本大使館には、アメリカにはそれで交渉に応じる意思があると伝えてしまう。

 そのような誤解が重ねられた中、1941年4月16日に野村吉三郎はコーデル・ハルと面談する。


6・1941年4月16日の面談

 その日のそれについては、コーデル・ハルと野村吉三郎の両方が、それぞれの著作に記している↓

(中公文庫『ハル回顧録』P170~171より)
(前略)
 ジェームズ・ウォルシュ、ドロート、ウォーカー郵政長官が、野村大使も含めた日本側の代表との間にすすめていた非公式の話し合いは四月九日にまとまった。私はその日みんなの意見がまとまった提案の草案(註。『日米諒解案』)を受け取った。私はそれから三日間、国務省の極東問題の専門家と一緒にこれを綿密に検討したが、研究をすすめるにつれてわれわれは非常に失望した。それはわれわれが考えていたよりもはるかにくみしにくいもので、提案の大部分は血気の日本帝国主義者が望むようなものばかりであった。
 郵政長官を通じて届けられたこの提案を極東専門家と一緒に検討した結果、私は一部には全然承諾出来ない点もあるけれども、そのまま受けいれることの出来る点もあり、また修正を加えて同意出来る点もあるという結論を下した。私は日本との間に幅の広い交渉を開始するいとぐちになるような機会を見逃してはならないと思った。そこで私は最近移ったウォードマン・パークホテルの部屋に野村の来訪を求めた。 私は野村に、日米間の問題解決のための非公式の提案を受取ったことを伝え、「大使自身もこの提案に参与しているときいているが」と述べた。野村はすぐに「あの提案のことは全部自分も知っている。本国政府にはまだ送っていないが、政府もこれには賛成すると思う」といった。それから二日たって私は、私の部屋で、日米協定の基礎になるべき四つの基本原則を述べたステートメントを手渡した。この四原則とは次のようなものであった。
 一 すべての国の領土と主権を尊重すること
 二 他国の内政に干渉しないという原則を守ること
 三 通商の平等をふくめて平等の原則を守ること
 四 平和的手段によって変更される場合をのぞき、太平洋の現状を維持すること
 私は野村に対して、この四原則を受けいれた上で、さきに日米間でつくった非公式の提案を日本政府に送り、日本政府がこれを承認してわれわれに提案すれば、われわれの交渉開始の基礎が出来ることになろうと述べた。野村は四月九日の非公式提案、私が提案した四原則、その他の事項を東京に報告した。われわれは日本からの回答を待った。
(後略)
(響林社文庫、野村吉三郎著『米国に使して―日米交渉の回顧―第1巻』p50より)
 四月十六日、前回同様の所に於て國務長官と會談した。
 その時長官から、日本人及び日本の友人たる米人の作成した所謂「日米諒解案」に依つて交渉を進めて可なりといふ日本政府の訓令を得られたき旨申し出で、なほ、長官は「此の話が進んだ後に東京よりこはされた (turn down) ならば、米国政府の立場は困難になる」と言つた。
 その「日米諒解案」なるものについては豫てから内面工作をやり、米國側の真意を探つて居つた次第であるが、長官に於ても大體異存がないやうに確め得たので、余は右に關し更に大使館の幹部、陸海軍武官及び岩畔大佐等と會議を催し、入念に検討を重ねた上種々折衝せしめた結果、漸く成案を得たものである。
 大體余としては出馬の際の訓令の精神に依り此の諒解案が成立した場合に於ても、三國同盟の御詔勅に悖る所はないであらうし、之は太平洋平和維持の第一歩をなすものであり、更に他日日米協力して歐洲平和再建の礎石となると信じて、直ちに共の旨發電回訓を仰いだのである。

 とにかく上記二つから、『日米諒解案』が日本本国ともアメリカ政府とも無関係に作成されたことは分かる。そして、あるいはそれも先入観にとらわれたためか、直接会って話したにもかかわらず、野村吉三郎がコーデル・ハルの意思を誤解していたことも。
 その後に『日米諒解案』は日本本国に打電されるわけだが、その際に野村吉三郎は、自身も誤解していたとはいえ、その詳細な経緯およびハル四原則を日本に報告しないという大きな過ちも犯した。


7・昭和16年4月18日の連絡懇談会

 そして『日米諒解案』を受け取った後の、昭和16年4月18日の連絡懇談会での近衛文麿の説明(『杉山メモ』より)↓

三 近衛総理野村大使電ヲ説明ス
問    突如本電ニ接シタルハ如何ナル経緯ニ基クヤ
近衛総理 本件ハ昨年暮米宣教師二名来朝シ自分モ会ヒ其他ノ要人モ会ヒ日本国内ノ空気ヲ知リ帰国ス
 本宣教師ハ「ルーズベルト」モ能ク之ヲ知ツテ居ル
 大蔵省出身井川カ米国ニテ右宣教師ト触接シ岩畔大佐桑港到着ノ際同地ニ来リ一案ヲ竜田丸ニテ自分ニ送付シ来リ二、三日前之ヲ受領セリ其直後本電報ニ接シタル次第ナリ
 右手紙ト電報トハ若干相違アルモ大体ノ筋合同様ナリ

 そして近衛文麿自身の手記『最後の御前会議』によると、近衛文麿はこのように認識していた↓

 まず四月八日、米国側から第一次試案の提示があり、これに日本側が検討を加えて第二次試案を作ったところ、四月十四日、十六日の両度にわたって、ハル長官は野村大使を招き、最初の会談を行った。ハル長官は従来民間の会議を大使長官間の非公式会談に移し、前記第二次試案を基礎として交渉を進めてよろしい旨を言明し、ついてはまず日本政府の訓令を得られたいと申し出たのである。

 つまり、それまでの経緯およびアメリカの意図を、日本本国は完全に誤解していた。そしてそれが、その後の日米交渉を歪ませる一因となった。

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