「日本が先に侵略戦争を決意した。アメリカが石油禁輸したのはその後だ」が、アメリカ側の認識だったと考えられる

 太平洋戦争(1941~1945)に関しては、日本では『アメリカが石油禁輸で日本を追い詰めた。日本はやむなく戦争したのだ』と主張する人が少なくない。

 本当はそうでは無いこと、そんな単純なものでは無いこと、以前説明した通り。日本は石油禁輸前に『日中戦争は完遂すること、世界情勢がどうあろうとイギリス・オランダとは戦争すること、好機が来たらソ連も打倒すること』などを決定している。日本が石油禁輸後に決意していくのは『それらに加えてのアメリカとの戦争』だ。

 それはそうとして、これについてアメリカ側はどう認識していたのだろうか?というのが今回の記事。『ハル回顧録』からそれを見てみる。


 改めてだが、日本は1941年(昭和16年)7月2日、御前会議で『情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱』を決定する。

 その大まかな内容は次の通り。
 ○日中戦争はやり遂げる。
 ○世界情勢がどうあろうとも、イギリス・オランダとは戦争して、大東亜共栄圏を建設する(南進論)。
 ○好機が来た場合、ソ連を攻撃する(北進論)。
 ○ただし南進も北進も直ちには行わず、当面は両方の準備だけ進め、状況を見て実行する。
 ○アメリカの参戦防止に努力する。
 ○しかし文言の上では、大東亜共栄圏建設のためには「如何ナル障害ヲモ之ヲ排除ス」。

 そして、北進の準備が関特演で、南進の準備が南印進駐だった。


 ところが、以上の決定は、ゾルゲの諜報活動により、ソ連には筒抜けになっていた。
 および、外交暗号の解読により、アメリカもその内容の一部はつかんでいた。中公文庫『ハル回顧録』の記述するところでは↓

表面的には七月二日に東京で御前会議が開かれ、それに続いて驚くべき軍事的な措置が行われ始めた。 百万から二百万の兵隊が召集され、日本の商船は突然大西洋からよび返された。日本国内では旅行制限と、郵便、電報の厳重な検問が行われていた。大戦争の準備の兆候と思われる各種の措置がとられていた。裏面では日本政府の通信の傍受によって、これに劣らず驚くべき情報が入っていた。東京からベルリンにあてた七月二日の通信にはつぎのような不吉な一節があった。
 一 日本帝国は、世界情勢がどんなに変ろうとも、大東亜共栄圏の樹立によって世界平和に貢献する政策を遂行する。
 一 日本政府は支那事変処理の努力をつづけ、自存自衛の基礎を固めるために南進の方針で措置を講ずる。
 同じ日に松岡(註。第二次近衛内閣の外相・松岡洋右)から野村(註。駐米大使・野村吉三郎)にあてた通信はつぎのように述べていた。
「南進の準備を補強し、仏印、シャムに関する既定方針を遂行する。独ソ戦に関しては、三国枢軸の精神を堅持するが、当面のあらゆる準備を整え、独自の方法で対処する。この間外交交渉は細心の注意を払って継続する。米国の参戦を防ぐためにはあらゆる手段に訴えるけれども、必要な場合には日本は三国同盟にしたがって行動し、いつ如何に力を行使するかを決定する。」

 日本軍が現実に南印進駐するのは、↑の後。
 それに対するハルの意見↓(同じく中公文庫『ハル回顧録』より)

「日本の南部仏印侵略は、南西太平洋に全面的な攻撃を行う前の最後の布告だと思われる。日米交渉の最中にこういうことをしたのだから、交渉も継続する基礎はなくなったと思う。」

 日本に対する石油の禁輸は、さらにその後。ただし、ハル自身はそのとき療養中で、それには関与していない。中公文庫『ハル回顧録』にも、その記述は無い。


 なのだがとにかく、以上のところからしてハルの認識は、「日本が侵略戦争を決意する」→「アメリカが石油禁輸を行う」という順番だったと考えられる。





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