ウクライナの戦争(4)「分かっちゃいるけど止められねえ♪」こそこの世の真理、なのかもしれない。

 お若い方でも、知っている人は知っているかもしれない。
 その昔、クレイジーキャッツというバンドがいて、そのヒット曲のひとつが『スーダラ節』で、その一節が「分かっちゃいるけど止められねえ♪」だった。

 そして、この「分かっちゃいるけど止められねえ♪」こそ、あるいはこの世の真理なのかもしれないと、筆者的にはつらつら思う。

 ただし、これまた素人考えだけどね。以下に記すことも。


 それでだが、ウクライナで現在(この記事を書いているのは2022年4月)起きている戦争は、要するに、昔ながらの縄張り争いがこじれたものだと考えられる。
 もともとウクライナはロシアの縄張りだった。ところが、そのウクライナがロシア陣営から離れ欧米陣営に行こうとした。だからロシアはそれを武力で阻止した。
 最も根本的にはそういう図式であり、そもそも国家なんて『合法的な暴力団』に等しいわけだが、その出入りなのだと。


 そしてそれは、しくじりの結果でもある。
 当たり前の話だが、ウクライナがベラルーシのように親ロシアだったなら、戦争にはなっていない。では、ウクライナにそう出来ない必然性が何かあったのか?
 ロシアも、もっと上手く対ウクライナ政策を進めるべきでは無かったのか?
 アメリカも、うかつにロシアの縄張りを荒らすことはせず、もっとロシアの顔を立てる配慮が必要だったのではないか?


 つまりそれは、本来なら不要な争いが、しかし間違いが重なったために起きてしまったものであり、どの国にとっても無駄だった。

 そしてそれは、まやかしの大義を掲げてはいても、実態は『合法的な暴力団』同士の縄張り争いでしかない。


で、疑問にぶち当たるわけだ。

 どうしてそんなもののために戦争しなければならないのか?
 どうしてそんなもののために、多くの人命を失い、経済的損失を出さなければならないのか?

という疑問に。

 一応大人にはそのような政府を成立させた責任もあろうが、いくらなんでも子供にはあるまい。たとえ間接的だったとしても、そのような子供の生活を破壊し、死に追いやっても良いのか?


 なんだけれども、プーチン大統領にしろゼレンスキー大統領にしろ、あるいはバイゼン大統領にしろ、その程度のことは分かった上で、覚悟を決めてそれぞれの職務を遂行しているんだろうな、と。

 そして、だからいったん始まった戦争を止めるのは難しい。
 戦争回避のため交渉を重ね、それでもそれが決裂した後に戦争している国を、すなわち分かった上で覚悟を決めて抗争している『合法的な暴力団』を、警察も裁判所も存在しない(あるいは機能しない)国際社会において、どうやって止められるのだろうか?


 で、これまたひとつの「分かっちゃいるけど止められねえ」なんだろうな、なんてことを筆者的にはつらつら思う。

 そもそも戦争は、一般的な解釈としては、道義的には悪である。
 国際法上、自衛戦争や条約上の義務に基づく戦争は正当とされる。だが、法と道義は別の話だ。どんな戦争でも、大体にして非戦闘員が巻き添えになる。また、敵兵といえども人間なのであり、人間を殺して喜ぶのは間違っている。

 なのだが、そういう悪を悪と分かった上で断行しなければならない場合もある。および、場合によっては法的にも不正であるそれを、「やらなければならない正義の戦い」のごとく言いくるめ、強弁した上で。

 それが、スーパーヒーローもいなければ警察も裁判所も存在しない(あるいは機能しない)国際社会における、国家という名称の『合法的な暴力団』の、つらいところなんだろうな、と。


 以上、また素人考えを無責任に書いてみた。特に法律で規制されない限り言論は自由だからね。
「とか~くこの世は無責任♪」(クレイジーキャッツ『無責任一代男』より)で、「馬鹿は死んで~も~直らない♪」(クレイジーキャッツ『馬鹿は死んでも直らない』より)だ。

 そして、だから筆者的には、ロシアの肩を持つ気は無いが、しかし手放しにウクライナを応援する気にもなれない。国際法上はウクライナが正当となるが、しかし実態は『合法的な暴力団』同士の出入りだと筆者的には思っているからだ。

 しかし筆者的にもウクライナで起きている惨状は残念で、「もっと上手くやれなかったのか……」という気持ちで仕方ない。
 いやつまり、世界には、「上手くやる」などとても不可能な、複雑にこじれた状況もあるわけだ。宗教がらみや民族がらみのアフリカや中東など。あるいはクーデター後の現在のミャンマーも。しかし今回のウクライナは、たぶん、そうではなく、本当はもっと上手くやれたはずだった。ロシアもウクライナもアメリカも。


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