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「美味しさ」を「価格」で割ったら、そりゃダメだよなあ

わが家は4人家族。

妻と長女(1歳)は食べることが大好きだ。
美味しいものに対する執着も強く、格別な食べ物に出会うと、この上ない喜び、といった表情を横に並べる。
逆に、美味しくない(らしい。私には分からない)食べ物に対しては、心底テンションが下がっているのが見て取れる。

対して私と長男(4歳)は食に対するこだわりが薄い。
長男はいつも「団子より花」で、食事はそこそこに遊びに向かってしまう。

私はといえば、妻の作る料理はすべて「うまい!」と言って完食するし、そうでない食品もミラノ風ドリアから浜名湖の活うなぎに至るまで全て「うっ、うまい!!」である

調べたところ、何でも美味しく感じるのは「貧乏舌」というらしい。


そんな一家であるから、食事に対しては意見が割れることが多い。

特に妻が激推しの逸品を、私が食べて「うまい!!」といったとき、彼女はどことなく不満気である。
きっとその「うまい」が、いつも私が言っている「うまい」と変わらないように感じられるのだろう。


なぜ私はそんなことになっているのか。自省してみると、
どうやら自分が無意識下に「美味しさ」を「価格」で割っているのではないかと気が付いた。


名古屋のうなぎ屋で、「たむろ極み ひつまぶし」を食べる。
これは、うまい!!!!!!
価格は3,880円だ。
つまり、「うまい!!

近所のラーメン屋で、「白湯つけ麺」を食べる。
いやー、うまい!!!
価格は1,250円。
じゃあ、「うまい!!

サイゼリヤのペペロンチーノ。
うまい。
299円だ。
そういうことならば、「うまい!!


自分でも言ってて意味が分からないが、何かこんな感じになっている。
食品の値段が、美味さの感嘆符を増やしたり減らしたりしてしまう。
いわば「平等主義の貧乏舌」だ。

心の何処かに、「いやまあ、高いものが美味いのは当たり前じゃない?」と助言してくる迷惑な悪魔が巣食っている。


「美味しい」のような定性的な感覚を相対化してしまうことは、幸せから遠ざかる行為であるとも思う。

一方で、「今日は失敗しちゃったかも」と落ち込む妻の料理を、「いや、今日もめっちゃ美味しいよ!」と本心で言えることは長所であると自負できる。


自分の味覚や感じ方を変えるのは難しい。
これからもずっと、休日には妻の食べたいものを一緒に食べ、ビックリマークの数で満足度を表現する日々が続くだろう。

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