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大衆の反逆 オルテガ(100分で名著)

「大衆」とは誰か?

日本語における大衆という言葉は「たくさんの人」という以上の意味を持たないことが多い。「大衆の声に耳を傾けよ」とか「大衆食堂」などという言葉を不自然に感じる人は多くはないだろう。しかし英語のmass manの訳語としての大衆とは、民衆とも庶民とも異なる存在であると考えてもらいたい。その大衆がいかなるものかということについて90年前に書かれた本がホセ・オルテガ・イ・ガセットによる「大衆の反逆」という本である。端的に言ってオルテガがこの本において定義するところの大衆とは、自分が寄るべき物理的精神的トポス(場所)を失い漂う根無し草のような人間を指しており、そのような大衆が大量に社会の前面に躍り出ることを大衆の反逆とオルテガは呼んだ。

大衆の誕生

19世紀のヨーロッパにおいて基本的な生活の質の向上と工業化の発達が相まって、人口の爆発的な増加と増えた人口が都市へ流入するという現象が起きる。都市に大量に流入した人間には二つの特徴があった。一つは先述したように農村というトポスを失った人たちであったということ。それに加えて工場労働者として最適化されれた(あるいは自身を工場労働者として最適化する)ために個性を失い、みんなと同じであることを喜ぶ「平均人」であったということだ。

そんな大衆としての彼らの行動様式として書かれていることを100分で名著のなかから抜き出してみよう。

 今日の平均人は、世界で起こること、起こるに違いないことについ関してずっと断定的な《思想》を持っている。このことから、聞くという習慣を失ってしまった。
 大衆とは、みずからを、特別な理由によって-良いとも悪いとも-評価しようとせず、自分が《みんなと同じ》だと感ずることに、いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると感じてかえっていい気持ちになる、そのような人々全部である。
 現時の特徴は、凡庸な精神が、自己の凡庸であることを承知の上で、大胆にも凡庸なるものの権利を確認し、これをあらゆる場所に押し付けようとする点にある。

私という人間の精神を構成するうちの幾分かは大衆的であることを免れず、自分もまた大衆化の波に飲み込まれそうになることがたびたびある以上、こうした大衆批判は私自身に向けられた警句でもある。したがって、私も最初に読んだときは全く腑に落ちなかった。それは大衆批判は多数派への批判であり、一見すると傲慢な物言いに聞こえるという理由もあるだろう。しかしながら、大衆の反逆を読めばそれはこの本が書かれた90年前以上に今現在においてこそこの本に書かれていることが顕在化しているということがわかるはずだ。

大衆の反逆そのものよりも100分で名著から

私がオルテガの大衆の反逆を読んだのは20年ほど前のことではないかと思う。西部邁の「大衆への反逆」を読み、彼の言わんとするところが理解できず、「大衆への反逆」においてたびたび触れられていた「大衆の反逆」を読むにいたった。最初は理解不能で完全に返り討ちにあったものの、以前にも述べたように私自身の宮大工見習いとしての日常がその理解を助けてくれて、少しずつ理解できるようになった。

正直なところ、あのときこの100分で名著があればもっとスムーズにオルテガが書き表したかったこと、西部邁が伝えたかったことが理解できたのではないかと思う。その意味で原著よりもまずは「100分で名著」のほうをお勧めしたい。

大衆の反逆を理解するためには、オルテガがいかなる人物なのかについても知っておく必要があるし、オルテガ以前のエドモンド・バークやアレクシス・ド・トクヴィル、ギルバート・キース・チェスタトンについてや、オルテガの影響を強く受けた西部邁についての理解もあったほうがいい。あくまでもこうした保守の源流ともいうべき一連の流れの中に位置づけてこそ「大衆の反逆」は大きな意味を持つと考えられるからだ。

100分で名著はこうしたことを一通り網羅して、大衆の反逆のエッセンスを見事に伝えてくれる。これはこの本が中島岳志氏の手によるものであることが大きい。彼もまた能動的保守思想家であろうと表現を磨いている学者の一人だ。

かつては専門家が、現代においては政治家が大衆の見本である

オルテガが面白いのは大衆の原型をいわゆる庶民ではなく「専門家」に見出しているところである。本来世の中や人間というものは大変複雑で、理屈や論理だけでは説明し得ないことがたくさんあるにもかかわらず、専門家という人たちは細切にされた科学を用いて物事を単純化して論ずる傾向があるとオルテガは指摘している。つまり専門家とはある特定のことについてよく知っている人のことであると同時に、ある特定のこと以外のことについてほとんど知らない人たちのことだといえる。そんな専門家が自分の不完全性を踏まえて論ずるという謙虚な姿勢を失えば、それを根拠とする統治は必ず破綻することになるというわけだ。

大衆の見本というべき専門家による統治を「みんな」で受け入れ。そのうえ自分たちと意見が異なる人間の声には耳を貸さない。

それは新型コロナによって分断や破壊が進む日本社会そのものであるとは言えないだろうか。

新型コロナの対策においては専門家委員会の声とやらが常にその正当性の根拠とされてきた。しかしながら、40万人の死者が出る気配は今のところないし、二週間後には感染爆発が起きると専門家が言う二週間後はいまだ来ない。PCR検査による”感染者”数増加が懸念されているものの、「感染者」と「陽性者」と「陽性判定濃厚者」と「曝露している人」と「患者」を冷静に区別して議論し、効果的な対処を打ち出すことができる状況にはもはやない。専門家の声を神の声のように奉った結果として失うものはまだまだ大きくなるだろう。

批判を恐れずに言えば、新型コロナがインフルエンザと比較して決定的に恐ろしい病気ではないこと(少なくともその可能性)に政府は気が付き始めていると私は見ている。大衆からの人気を得るためにオリンピックをどうしてもやりたいという下心から初手を誤り、大衆の見本ともいうべき専門家の意見の通りに対策を講じたために失策が続き、その大衆からの信認を失いつつある段階にきて冷静にデータを眺めたとき、日本における新型コロナの影響は当初より限定的だったことに気が付いた政府関係者は少なくないはずだ。あたりまえだ、もしも都民の旅行や帰省で日本中に新型コロナがばらまかれて惨事が起きるならば、その前に通勤電車に乗っていた東京都民はとっくに感染爆発で死体の山を築くという憂き目にあっているはずだが、そんなことは起きていないのだから。

しかし時すでに遅い。90年前には専門家が大衆の見本だったのと同様に、現代日本では政治家もまた大衆の見本となりつつある。私はその代表こそ東京都知事であると考えている。彼女は新型コロナにおびえる都民を救っている(つもり)の自分に悦に浸っている。緊急事態宣言を再び出して経済活動が停滞すれば、そのツケがどのような形で現れるかなどということには関心がない。どうすれば自身のメディア露出が増えるかということが最大の関心事であり、そのような意味で彼女は人気取りの専門家としての大衆の見本といえる。

本来であれば政府の最も重要な役割は「正しく恐れ、冷静に対処する」ための処方箋を打ち出すことであったが、先述したような理由や判断ミスによって混乱に拍車をかけた。私だって「マスクは不要だ」とか「今まで通りやればいいじゃん」などとは言わないし言えない。しかし、「テレビではなくもっとデータを見て冷静になろう」とは言える。しかしそんな小さい声はどこにも届かない。
もう「安全宣言」を出すことができる勇者的なリーダーは現れないし、そのことによって私たちはさらに多くのものを失ってしまうだろう。

これにて大衆の反逆は大衆そのものの破壊という結末を迎える

その可能性について思いを巡らせ、諦観をもってこれを見守るために、「100分で名著・大衆への反逆」を読むことをお勧めする。576円は破格に安いと思う。

原著もお勧めです

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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