ブラック・クランズマン
また一つ映画を見た。
あらかじめ、これは史実に基づいた作品であることは知っていた。
思想、主義、差別。あらゆるフックから、KKKのことを聞いたことがあった。
映画には相性がある。
最近気がついたのは、自分はサスペンスとの相性が悪いということだ。
相性が悪い、と断言できるほど世の中のサスペンス映画を見たのか?
そんなことはどうでもよくて、いくつかのサスペンス映画を見て、そう思った。
明確に、相性が悪い。
自分は映画を見て、作品のキャラクターから心情を感じ取ったり、自分の人生と照らし合わせてみたり、そういう楽しみ方をする。
物語の内容の面白さより、人の心の動き、そこを気にする。
まだ短い人生の中で見てきたサスペンスには、これがなかった。
こちらが何かを汲み取る前に、ハラハラ、ドキドキを押し付けてくる。
まるでジェットコースターだ。自分は、イッツ・ア・スモールワールドの方が好きだ。
史実に基づいた作品は、そこがいい。
作中のキャラクターは実際に存在して、どういう考えでもって行動していたか、なぜそう至ったのか。
作品の構成も大きく関わるが、思慮の余地がある。
中でも特に、シンドラーのリストは大好きだ。
こちらが感じ取れる心理的描写、思慮の間、全てが優れていた。
一般にドラマ、コメディ、クライムに属されるブラック・クランズマンから今回、何を得たか。
残念ながら、思想、主義、差別といったもの以上のものは得られなかった。
以前から思っていたことが、やはり、という感じで凝り固まってくる。
やはり、集団はよろしくない。
赤信号、みんなで渡れば怖くない。
差別のおよそは、このシステムによって作られている。
何かに触れ、思う。
これは個人に許された、一つの自由である。
一貫した主張を身に付ける。
アイデンティティの獲得も、個人を確立させるために欠かせない。
しかし差別は、個人からは生まれないと考える。
集団と、環境である。
心理学用語で、黒い羊効果というものがある。
憎む対象を、明確な敵ではなく、自己の集団の中に見出してしまうというものだ。
こちらに、白い羊が4匹と、黒い羊が1匹いる。敵の集団も同じ構成だ。
この際、こちらの白い羊たちはどれを敵と認識するか。
答えは、こちら側の黒い羊である。これが黒い羊効果だ。
差別と、それが解決しない理由には、黒い羊効果があると思っている。
集団には、団結が必要だ。
その団結を見出す奴は、許せないわけだ。
満場一致のパラドックスというものがある。
シンプルで、はっきりとした問いではないにもかかわらず、集団が一つの答えを選択する状況を指す。全会一致の幻想ともいう。
幻想という言葉のとおり、本来そんなことは起きようはずもなく、導き出された答えもまた不確かである。
人は、完全なる個人にはなれない。
生まれながらに集団に属することになる。
地域、国、その環境。そして人種。これらが複雑に絡み合う。
ブラックパワー、ホワイトパワー。
お互いはお互いに、自分たちの集団の中に黒い羊が生まれないようにする。
そうしないと、集団の力が発揮できないからだ。
平然と自分たちの仲間を抑圧し、排除する。
それがおかしいとも思わない。バイアスがかかって、ハイになるからだ。
集団の中に完全なる個が生まれないのは、こうしたことがあるからだと考える。
黒い羊たちは、反乱分子、危険分子と呼ばれることがある。
そんなことを言う前に、少し落ち着けと思う。
なぜ反乱分子が生まれるのか、もしかしたら、自分たちの思想が間違っているんじゃないのか。そうは思わないのか。
不可能である。
必死に気付き上げてきた集団。敵は外。皆んなでやつらを倒す。そのためには団結が必要。さぁ、一丸となって、というときに、黒い羊は現れる。
こんなもの、排除するしかない。
以上が、ブラック・クランズマンという作品から感じた、やるせなさだ。
皆んなを守るための集団は、皆んなの中の誰かを確実に傷つける。
人は、正しいとされる方に引っ張られるからだ。
反対意見を言うことは、集団の中では許されない。
反対意見を持つ者は排除される。
排除された者は、自分の意見に賛同する者を集める。新しい集団の出来上がりだ。
そしてこの集団の中にもまた、新たな黒い羊が生まれ、排除されるだろう。
そもそも、100%あなたの意見に賛成です、という前提は、あってはならない。
それは生きてない。あなた個人ではない。
集団の長が、一人増えるだけだ。
これは長からしたら嬉しいことだが、自分が属する集団においては極めてよくない。
100%賛成の人間だらけになってしまうと、集団はどうなるか。
満場一致が不自然だということにも気づかず、暴走を始める。
新たな暴力、差別の始まりだ。
残念ながら、そうしたやるせなさを感じた。
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