システムに生きる

アリストテレス的な何かで触れたことがある。
火を起こすということは誰でもできるが、火をどう使うかは誰にでもできることではないという趣旨の話。

マッチを使えば、ライターを使えば、誰でも火を起こすことができる。
ただどう使うかというのは適切な使用方法であって、世の中の人間が必ずしもこれに適うかと言えばそうではない。

落ち葉がびっしりな場所でランプを点ける人や、ジャングルジムアートの件はまさに火の適切な使用方法からかけ離れている。
便利が先行し、どう使うかが熟考されていない。

別の話だが、アマゾンの先住民であるピダハン族には細かな数の概念がないそうだ。
彼らは数を多いか少ないかで判断するため、別の人間が並べたペンと同じ数のペンを並べろと言っても難しいということになるらしい。

昨今では、いくつ必要か、何日かかるのか、金額がいくらかと、あらゆる場面で数に遭遇するのにだ。

また別の話だが、子供は無邪気とされる。
他人に優しく声をかける時もあれば、ひどく暴力的な時もある。
花や虫を愛でる時もあれば、これらを踏み潰して満足そうにする時もある。
何人かの別々の子供ではなく、一人の子供がである。

システムに生きるとは、火の使い方を誤れば事故になり逮捕され、数の使い方を知らなければ買い物もできず、大人にならなければ信用を失い社会への居場所を失うことである。

システムとは規律である。管理しやすいようになされている。
倫理や常識、一貫性というものを大事にしている。

ここで思うのは、倫理や常識、一貫性を持つから人類なのか、それとも、持たない状態が本来の人類なのか?
人類は、倫理や常識、一貫性を取り扱えるほど成長しているのか?

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