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生きているだけ無駄な者

 彼女は不器用だった。
 何事に対しても一歩引いてしまい、出遅れる。かと思えば、気を回しすぎて空回る。
 タイミングが悪すぎて、何をやっても上手くいかないのだ。記憶が曖昧な頃からそうだった。
 
 ハイハイをし始めると皿をひっくり返し、歩き始めたと思えば水桶を倒す。ようやく手伝いが出来る頃合いには、火の番をさせれば食べ物をこがし、水汲みをやらせると途中でこぼす。洗濯物を任せれば風に飛ばされる、と言った具合に。

 今日食べるのが精一杯の大家族。十二人兄弟の三女として生まれた彼女は、生まれ落ちた時には祝福され、美しい名前を与えられた。
 しかし、今はその名で呼ばれることは無い。両親は、彼女が七歳の時にその名を取り上げ、その日生まれた最後の妹に与え直した。
 その日以来、彼女は家族から「生きているだけ無駄」と呼ばれた。
 最初は不憫に思った村人たちも、彼女が何かと失敗するにつけ、面白がってそう呼ぶようになっていった。
 いつしか彼女は自分の本当の名を忘れ、何を言われても口答えせず、ただただ罵られるのを良しとした。
「全く、お前は何をやらせても使えないね!一丁前に飯だけ食って、本当に生きているだけ無駄だよ!」
 その罵声が聞こえない日は無かった。
 
 何も出来ないとは言え、手伝いをせぬば食事がもらえない。畑に出れば指を切り、羊を追えば足を滑らせ、洗濯に行けば川に流される。いつしか彼女の顔も衣服も泥にまみれ、強張っていった。
 誰にも相手にされない彼女は、毎日焚き木拾いに森に出かけた。家族のためだけでなく、村の誰かにそれを渡し、いくばくかの小銭や古いパンなどと交換してもらうのだ。
 家に戻るとそれすらも取り上げられ、水で薄めたスープや硬い部分だけのパンのカケラを渡され、土間の隅に追いやられた。どれだけ焚き木を拾おうと、その暖かさに触れることも、温めた食事にありつくことも、滅多になかった。
 秋も深まったある日。そろそろ焚き木も集めにくくなってきた。やがて冬が来れば雪が積もる。強張った体で必死に雪かきをする毎日が来るのだ。
 更に辛い日々を思うと、彼女の目にうっすらと涙が浮かんだ。このまま誰にも会わずにすむ、焚き木拾いを続けられれば良い、と思わずにはいられなかった。
 彼女はうずくまり、両腕で顔を覆って声もなく泣いた。
 
「ちょいとお嬢さん、少し焚き木を分けておくれでないかい?」
 弾むような明るい声が響く。
 慌てて顔を上げた彼女を見た声の主は、両のまなこから溢れる涙を、マントの端でそっと拭った。
「あぁ、これだけ集めるのは大変だろうね。焚き木を分けてもらうお礼をしよう。さぁ、おいで」
 そう言って手を差し出しす声の主は、旅人の装いをした青年だった。深緑のフードの下から赤い髪が踊り出で、枯葉色の明るい瞳はきらきらと光を宿していた。
 彼女は青年に導かれるまま、森の中へと踏み込んだ。
 樹々が分かれ空き地になった場所に、天幕が張られていた。
 石で組まれた即席の釜戸に焚き木をくべると、青年は手際よく食事の支度をする。小さな鍋に残ったスープを火にかけ、二人の間に美しい模様の布を広げた。近くの樹からつやつやとした果実をもぐと、ナイフで皮を剥き、樹の皮で作った皿に盛った。
 やがてスープがグツグツと煮え始める。青年は乾いたパンを投げ入れて、それが柔らかくなったところで器によそい、それぞれの前に置いた。
「さぁ、簡単なものしかないけれど、食べておくれ。君の焚き木が無かったら、僕は冷えたスープを啜らなきゃならなかったんだ」
 温かく美味そうな匂いが鼻をくすぐると、彼女の腹が大きく鳴った。恥ずかしく思う間もなく、彼女は皿に齧り付いた。熱いスープに慣れない喉は何度かむせたが、ゆっくりと腹から指先へと温かさが伝わってゆく。果実の甘さは口の中でとろけ、ひび割れていた唇も潤っていった。何年ぶりだろう。腹一杯、美味いと思うものを食べたのは。
「おい……し」
 カサカサに乾いた小さな声が、彼女の口からこぼれた。
「そうかい!美味しかったかい!嬉しいよ!」
 青年はにこやかに笑い、香ばしいお茶を淹れて寄越した。
「長いこと一人で旅をしているから、こうして誰かと一緒にご飯を食べることなんて無かったんだ」
 出されたお茶を啜りながら、彼女は首を傾げた。わざわざ野宿せずとも、村に行けば泊まることも出来る。そんな思いを読んだかのように、青年は明るく笑った。
「僕はねぇ、森のほうが心地良いんだよ。ここはまだ、実りも残っているし、落ち葉が暖かいんだ」
 少し奥まっただけだが、この辺りはまだ秋の盛りのようである。
「ねぇ、君は明日も焚き木集めに来る?また一緒にご飯を食べよう?」
 青年の言葉に、彼女はコクコクと、何度も頷いた。

 その夜、彼女が今までになく満ち足りた気持ちで眠ったのは言うまでもない。

 翌日も、その翌日も、彼女は青年と会い、食事をした。問われるがまま答えるうちに、ぽつりぽつりと言葉を取り戻していった。
「そう言えば、まだお互い名前を知らなかったね。僕はアキっていうんだ。君は?」
 彼女の顔がすっと強張り、俯き加減になると、ボソボソと口の中で何やら答える。
「えっと、ごめん、よく聞こえなかった」
「……生きて、いるだ、け、無駄」
 二人の間にほんのわずか、沈黙が漂う。いたたまれず、慌てて立ち去ろうとした彼女を、力強い手が引き留めた。
「それが君の、本当の名前なの?」
「ずっ、と、そ、よば、れてる」
「ずっと?生まれた時から?」
 彼女は俯く。頭の底に何か鈍く響く声があったが、はっきりとは聞き取れなかった。
「た、ぶん。よ、く、わか……ない。ちが、う、あっ……かも。で、も、ず、っと、そう、よ、ばれ、て」
 柔らかい感覚に包まれて、彼女は目を見張った。気がつくと、アキと名乗った青年に優しく抱き留められ、すっぽりとそのマントの中にいた。
「ずっと、辛いとさえ思えずにいたんだね。なのに、君はこうして……」
 そっと腕を緩めると、アキは彼女の目を見つめた。
「僕と一緒に旅に出ようよ。君の名前を探しに行こう?もうそろそろ、ここを立たなきゃいけなかったんだ。だから、君もここから出て行こう?」
 優しい声音に頷こうとした彼女の頭に、冷たい言葉が鳴り響く。
『何をやらせても使えないね!生きているだけ無駄だよ!』
「だめ!い……け、な」
 叫ぶように言うと、アキの手を払い、彼女は駆け出した。生きているだけ無駄なのだ、なぜ、今まで生きてきたのだろう、そう、気がつきたく無かったのに。
 涙が溢れ流れるのもそのままに、彼女は村まで走り続けた。

 気がつくと、転んだせいで泥だらけ、焚き木も忘れていた。のろのろと家の裏口に近づいた彼女は、頭から水をかけられてはっとした。
 目の前には捨て水の桶を抱え、今にも殴りかかってきそうな母親と、嘲るような笑いを浮かべた兄弟姉妹がいる。
「ここしばらくおかしいと思ってたんだ。帰りは遅いし焚き木は少ないし!」
「こいつ、どっかで盗み食いしてんだよ、食い物の匂いがしてた」
「なんだかニヤニヤしてたしね」
 ずいっ、と一歩、母親が踏み出す。
「本当なのかい?人様のものを掠め取って、一人で食ってたってのかい?」
 彼女は背筋が冷たくなるのを感じた。
「ち、がう……」
 答えを待たずに桶が振り下ろされる。
「使えないだけじゃあきたらず、アタシらに恥をかかせようってのかい?本当に、本当にお前は!生きているだけ無駄だよ!」
 何度も何度も振り下ろされる桶は、腕に、額に、傷をつけていった。
 額から流れる赤いものが目に入った時、彼女の前にぱっと明るい光が広がった。

『あぁ、やっと生まれたよ!ウチのだ!なんて可愛いんだろうね!』
『本当に可愛いね、名前は――』

「――!」
 彼女はその名を叫んだ。生まれた時に与えられた、美しい名を。今は、彼女のものではなくなった名を。
 その叫び声の大きさにか、あるいはその言葉にか、誰もが怯んだ。
 いつの間にか、大きな雨粒が落ちてきていた。雨の中佇む彼女の目は、怒りを宿し、暗く燃え上がっている。
 彼女はゆっくりと皆を見渡すと、踵を返し、森へ向かって行った。

「――、それが君の名前なんだね」
 ずぶ濡れの彼女を、アキが迎える。
「も、その、な……ちがう」
「そっか」
 アキがゆっくりとマントを振るごとに、彼女の服が乾いてゆく。
「じゃあ、一緒に旅に出よう?今度こそ、本当の名前を見つけよう?」
「いっ、しょ、い……の?」
「あぁ、もちろんだよ。ただ、僕と一緒だと困る事があるんだけどねぇ」
 アキはそう言うと、いたずらっぽく笑った。
「次の街はまだ秋の真っ最中だ。そうして、その次の村も、ね」

 春も夏も冬もない、そんな世界で彼女は旅をしている。
 ただ一人、彼女を新しい名で呼ぶ者と共に。


 2024年6月27日 脱稿
 

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