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小さな偶然
耳障りな音がした。
電話である。
男は一歩前に進めようとしていた足を止め、音が鳴り響く自分のポケットを見た。電話が鳴っている。ただそれだけのことに、男は驚いていた。
男は、ちょうど電車に飛び込むところであった。真冬のことである。ホームは雪に覆われ一面が白く輝いていた。ここに自分の真っ赤な血が広がったらきっと綺麗だろう。男はそんなことを考えていた。
なぜ男は死のうと思ったのだろうか。さぞかし劇的な事件があったのか。心をえぐられるような別れがあったのか。いや、そんなことは何もなかった。むしろ何もなかったからこそ、男は死のうと思ったのである。もし明確な理由があったのなら、まだよかったのかもしれない。自分の人生はもうこれから先、何も変わらない。何も希望などない。ただ苦しい日々が続いていくだけだ。こんな生きる甲斐のない人生は終わりにして楽になりたい。だから男はホームに立ったのだ。つまるところ、男は人生の舵を他人に預けたまま、それを取り返す努力をしない消極的な性質であった。
そんな男だ。誰かに積極的に連絡をとることなど久しくなかった。結果、今となっては彼と連絡をとる人間はほぼいない。まして、電話をかけてくる人間など親か選挙の意識調査ぐらいのものだった。
しかし、男の携帯は久方ぶりの着信を告げていた。聞きなれないその音に彼は最初それが自分の携帯の着信音だと気づかずにいたほどである。しかし音とともに響く振動が彼の体にその事実を聴覚よりも早く伝えていた。
男はホームから離れ、携帯をポケットから出した。画面には非通知と出ている。いかにも怪しい電話だ。時間はちょうど0時。こんな時間にかけてくるなどまともな相手ではない。いつもの男ならそのまま無視するところである。そして往々にしてそのような慎重さが男をこの平凡な人生に導いているということを男は自覚していない。しかし今日の男は違った。ホームに立ち、一歩踏み出すという劇的な行動に打って出ようとした男である。つまり、男はある種の興奮状態にあり、冷静さを失っていた。
男は通話ボタンを押し、携帯を耳に当てる。
「もしもし!」
男は驚いた。子供の声である。
「どうして」
とは男は言わなかった。
聞き覚えのある声だったからである。
「すごい、つながった!もしもし、未来の僕。聞こえてますか?...聞こえてたら返事をお願いします!」
たどたどしくも興奮している言葉を聞きながら、男は思い出していた。昔誰かが言ったおとぎ話。0時ちょうどに0を4回押すと、未来の自分に電話がかかる。確か男が小学生の頃に流行った話だ。
「...。」
男は何も言えずにいた。
「へんだなぁ...つながってるはずなんだけど...。なんか音は聞こえるし...。」
電話の先の男がいぶかし気に言う。
子供のころの自分の声。
それは幼く、無知で、純粋で。今の自分にはないものをそれは持っているように思えた。
「ま、いっか。それより!質問があります。
「もう車は空を飛んでいますか?
「どこでもドアはありますか?
「あ、あとゲームはどうなってますか?もしかしてもうゲーム機とかなかったりしますか?マリオ、って言ってわかるかな、マリオはまだ続いてますか?」
質問は矢継ぎ早で、男には答える暇がなかった。
それと、と少年は続けた。
「今、僕は幸せですか?」
その声は期待に満ちていた。まるで、将来の不安などないかのようだった。
「奥さんはいますか?もしかして、みっちゃん...いや、それはやっぱり答えなくていいや。」
みっちゃんは昔好きだった女の子の名前だ。聞くまで忘れていた。今頃彼女はどうしているだろう。幸せに暮らしているだろうか。そうならいい、と男は思った。
「...やっぱりつなってないのかな...。」
その声の後ろから、いつまで電話使ってるの、とたしなめる母の声が聞こえた。
母の声は元気だった。男は胸が少し苦しくなるのを感じた。
「じゃあ、もう切ります。」
何か言わなければ。男はそう思った。
「あ、あの」
思わず敬語が出る。男は電話が苦手だった。
「うわっ!...は、はいっ。」
向こうから緊張した声が聞こえる。
しかし。男は思う。
過去の自分に何を言うべきだろうか。今の自分が、彼に一体何を言えるだろうか。
今日、自分は人生に絶望して電車に飛び込もうとしてました、なんて。
とてもじゃないが言えるはずもない。
でも、いったい何を今言えば。
今日。…今日。
そういえば、今日は。
「...た。」
「た?」
「...誕生日おめでとう、ございます。」
「.......どうも。」
それじゃ、といって男は電話を切った。
ホームは白く覆われている。
降り積もる雪が街を白く飾っていく。
男は滑らないように気を付けながらホームを出た。
コンビニで、ケーキでも買って帰ろう。
時刻は0時過ぎ。
男は、今日で30になった。
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