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Mission 14:その扉を閉じると、次の扉が開きます

年末年始、皆さんはどのように過ごされましたか?
海外に行かれた方。国内で日本のお正月を満喫された方。
スキーや買い物をメインに楽しまれた方もいらっしゃるでしょう。
そして、なんとなく実家に帰りました、という方も。こたつにみかんに、紅白とおせち。。。みたいな感じのアレですね。

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日本には、盆暮れという言葉があります。
子供の幼稚園の宿題で、家族で冬休みにどのようなことを体験したか、写真やイラストをつけて紹介しましょう、というのがありました。
そう言われると私は、そうか、盆暮れに家族と別行動したり、実家に帰らないなんてとんでもないことだ、と反射的に考えてしまいます。
と、いう話を先日、新年1回目のカウンセリングに行った際、カウンセラーの先生にお話ししました。すると、
「なんで?たかが幼稚園の宿題でしょ?」
と笑われてしまいました。
そう言われると、ハッとするのですね。

こんな記事を見つけました。


私が結婚した日に、親は離婚した。LiLiCoがいま明かす「家族」

LiLiCoさんの波乱万丈な半生を綴った記事なのですが、その中に、スウェーデンでは日本よりももっと離婚が当たり前だというお話が書かれています。
普段はお母さんと暮らし、週末になるとお父さんのいる別宅に行く学校の友だちがむしろ羨ましかったという話などは、日本の学校で片親と暮らす子供がどんな感じでいるのか考えると、軽くカルチャーショックを覚えます。
記事にもありますが、日本ではどこか、一度結婚したら紆余曲折あっても生涯添い遂げることが美徳、というような考えがあります。
三行半、という言葉がありますが、江戸時代には日本でも相手に不満があれば離婚するのは当たり前、今よりずっと自由に家族の形を変えていました。
そうなると、私が感じているこの、家族で一致して行動しなきゃいけない、お父さんとお母さんと子供、みんながそろってなきゃいけない、あるいは盆暮れには親のいる実家に行かなきゃいけない、というような堅苦しい家族のあり方に対する観念は一体、どこから来ているのだろう、と考えてしまいます。

たとえば私の友人で、どうしても他に好きな男性ができてしまい、離婚して、3歳の息子を置いて家を出た女性がいます。
どうしても相手の方と結婚したいけれど、相手の態度が微妙で、子供がいたら絶対に再婚という話にならなそうだった、というのです。
これ、皆さんはどう感じますか?
子供を作っておいて無責任だ!子供がかわいそうだ!と、激しい怒りを覚える人もいると思います。
しかしそれなら、子供を産んだ女性は、生涯その人生の軌道修正をすることは許されないのでしょうか。
あるいは、子供が何歳になれば、自分の幸せを求めることが許されるのでしょうか。
子供のために、一度結婚してしまった夫のために、奴隷のように幸せになれない人生に身を捧げることこそが正しいこと。
それって、真実でしょうか。
彼女だって、子供に会いたくて泣いているのです。
それでも自分の幸せを優先すると選択した。
私は、彼女のその勇気を、今はどこかで尊敬しています。

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世界には私たちのそれとは違う価値観があり、またほんの数百年前にはここ日本でも、社会は今とは違う価値観が共有されていた。
それなのに今私たちの足元にある観念や価値観は、いとも簡単に私たちを身動き取れないほど頑丈に縛り付けてしまいます。
死んでも死守すべき法律でもなければ、憲法でもないのです。それでも私たちは、自らもその観念に率先してはまり込み、そこから抜けようとする人を見ると批判したくなります。
しかし、それが変更可能なただの観念だと気がついてしまえば、次第に自分の目の前にかかっていた靄は晴れていくのです。


私の場合、冒頭のような家族のあり方をもつ根底には、母の影響を感じます。
母は、家族が全員が揃って食事をする、全員揃ってどこかにいく、ということにいつもこだわっていました。
家族には、いつも家族の用事を優先し、常に全員がテーブルについていることを強要するようなところがありました。
ではその母は同じような家族環境で生まれ育ったのか、といえばそうではありません。
母が頑なにそのような家族のあり方にこだわるのは、そうやって縛り付けておかないと家族がバラバラになってしまう、という恐怖があるからです。
そしてその恐怖の奥には、もっとこんな家族であって欲しかったという希望が叶えられなかった、深い悲しみがあります。
しかし、その悲しみを晴らすためにこのような家族を作り上げてきた母のやり方を、娘である私までもが踏襲する必要があるでしょうか。
そう考えると、やさしく魔法はとけはじめます。

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前回のnote で私は、前世療法を受けて、自分の前世を見ていた体験をシェアさせていただきました。

Mission 13 : 前世。それはちょっとした海外旅行?深い癒し? ヒプノセラピー体験、報告。

前世療法を受けてみて、一つ大きな変化がありました。
それは、今この時を、人生80年の中の一瞬ではなく、もっと長い、悠久の時の中の今、というような感覚で捉えることができるようになったことです。
目の前のテストをクリアして、人から羨まれるような約束された将来像に向かって、振り落とされぬよう一歩一歩登っていく。そんな風に間違いない人生を積み上げていくことよりも、今回の人生で何を経験しに来たか、ということの方がずっと重要だという思いです。
私たちは、何のために生まれてきて、何のために死んでいくのでしょうか。
私は前世の自分から、あることを託されました。
それは、「幸せになりたかった」ということです。
本当は幸せになりたかった。でもできなかった。だからその無念を晴らしてほしいというのです。
それは、大好きな祖母の遺言とか、亡き母の遺言、というのとは全く違います。
例えば私の祖母は私に「どうか処女のまま嫁に行ってくれ」と遺言しました。
なんか、そういう大変な時代に生きていたんだなー、と生温かい笑顔を浮かべるしかできないのですが、この遺言、何が何でも守る必要、あるでしょうか。
きっと祖母も今頃こんな昔話を引っ張り出されて、赤面した顔を両手で覆っていることでしょう。
自分から託されたメッセージというのは、そういった遺言とは違うのです。
それを果たさず人生を終えた無念は、私の心の記憶にもしっかりと刻まれています。
そして彼女は死んでおらず、今も私の中にいるのです。


幸せになるとは、一つ一つ、自分の中にある不要な観念のドアを、そっと閉じていくような作業なのかも知れません。


というところでMission14はおしまいです。
今回もお読みいただき、ありがとうございました。
今年もよろしくお願いします。

grenleeed


Close some doors. Not because of pride, incapacity or arrogance, but simply because they no longer lead somewhere.
- Paulo Coelho

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