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他力本願へリープ!!5次元世界をドリフトする。

先日、カウンセリングで面白い体験をした。

昨年だったか。
東大の学生が、東京大学を相手取って訴訟を起こした。
コロナにかかり、病気の療養と待機期間など変則的な決まりに振り回されるうち、取れるはずの単位を取りこぼし、留年が決まった。
大学に事情を説明し、考慮して欲しいと訴えたが却下されたのだという。
コロナのこの時期に、新しく中学や高校、大学、就職という節目を迎え通過してきた子供たちは、一体どんな気持ちでそれを見てきたんだろう。


大学には来るな、リモートで、マスクしろ、サークル活動するな、大学内で職域摂取を実施し、ようやく再開した対面授業に出るためにはワクチンを摂取しろ。
大学も、このコロナが始まって以来、せっかく大学に受かった学生たちに対してさまざまな要求を押し通してきた。
自分たちはここ数年、例外的な要求を学生に対して強いて来たのに、どうしてたった一人の学生に柔軟な対応をしてあげられなかったのか。
たとえその学生が留年したのが何か本人の決定的なミスによるものであったとして、その場で教育的な指導をして解決するのではなく、
なぜ裁判になんかなるまで話をこじらせたのか。
賛否はあれど、少年法だってどんな酷い犯罪に手を染めた子供であっても、その更生を願って社会は子供を守るものだ。
それを、自分の大学に苦労して入ってきてくれた犯罪者でもないたかだか一学生を、自分たちに反目した途端裁判に転じ、最高学府の法学部を使って叩きのめす。
その学生の将来を、台無しにしてしまいかねない暴挙だと私は思う。
一体これが、教育機関のやることなんだろうか。
そういう人間の冷たさが、社会全体のあり方が、私はどうしても許せない。
と、肩をワナワナ震わせて、涙ながらにカウンセラーに訴えた。

私はどうやらHSPの気がある。
だからといってそれで開き直るつもりはないが、昔から物事を過敏に捉えすぎるところがある。
昔、ボランティア活動に参加した。
両親かそのいずれかが外国人であるために、学校の勉強についていけなくなってしまった子供たちに日本語を教えるというボランティアだったのだが、
集まってきた子供たちにとってそこが一つの居場所になっているというメリットがあると同時に、そこでは、
言語の壁なんて生易しいものだけではない、問題が山積した彼らの家庭内の窮状を突きつけられることになった。
だからといって、語学のサポートを謳ったボランティアが、家庭内の問題までどこまでも手取り足取り助けることは出来ない。
どこかでは、手を離さなければいけない。
助けてあげるふりをしながら、頼れる理解者であるふりをしながら、
彼らが本当に助けを求めている決定的などこかでは、
「それは自分でやりなよ」って胸をドンと突き飛ばして放り出さなければいけない。
その瞬間のショックを受けた子供たちの顔から、何度も何度も背中を向けて逃げ出さなければいけない。
たとえば臨床の医師だってなんだって、実際に現場にいる人というのはきっとみんなそうなのだろう。
この人は助けられると思う人のことは全力で助けても、この人はもう助けられないと分かっていて素知らぬ顔でコミュニケーションをとり続ける。命を優先にすれば後回しにしなければいけない命もきっとあって、心の優しい人はそこで日々、悶絶している。
前線で活動するとはそういうことだ。綺麗事は通用しない。
だけど私の中には綺麗事が詰まっていて、どうしようもないのだ。
仕方ないんだ自己責任だからと突き放せば、私の中身が引き裂かれる。自分が自分で無くなる。
私にはこのボランティアは辛すぎると思った。
続ければ、この矛盾の狭間でいずれ自分が病んで壊れてしまう。

HSPは傷つく時も人一倍傷つくが、代わりに、ポジティブな感情も数倍になる。
一枚の葉の美しさに受ける感激も、とある映画のワンシーンも、車のフロントガラスに向かって舞い落ちてくる雪の美しさも、
とある漫画の1コマも、心にしまった大切な本も、
一枚の絵画も音楽も、誰かの言葉も、
そこに感銘を受けた時の衝撃は、きっと私のような感受性を持ち合わせなかった人にはもう、一生味わうことの出来ないほどの感動がある。
そしてそれゆえに、研ぎ澄ました直感で、嘘つきや偽善者を見抜くという利点も持っている。

でも、それらを誰かに説明しても、通じない。
はあ、すごいね、考えすぎじゃない?陰謀論でしょ?で終わりだ。
私には周囲の人間が、まるでぶっといクレヨンで私の見ている世界をラフに描写した、微細さも繊細さもない作り物の世界を生きているように見える。
世界はこんなに緻密で神秘にあふれているのに、それを感知しない。
素通りしていく。
この美しさにも、繊細さにも、恐ろしさにも、噓にも、欺瞞にも、悲しさにも、楽しさにも、不思議さにも気がつかない。
いつもいつも、そうだった。

とにかく、私にとって自分に共感してくれる人を見つけるのは本当に難しい。
だからつい、言葉が冗長になる。
言葉さえ尽くせば、相手には感知できない私にしか受け取れていない何かを、
補完して、噛み砕いて、分析を加えれば、相手にも少しは分かってもらえるのではないか、という思いがほとばしってしまう。
どんなふうにすごいのか、それがどれほど酷いのか、私の渾身の解説書付きで読んでもらえば、その臨場感は何倍にも増し増しになること間違いない。
そのオタクみたいな空をかすめていくだけの力説を、しないまま立ち去ることがどうしても出来なくなってしまう。

本当は言葉を使って何かを伝えるということは、冗漫に言葉を書き尽くせばいいというものではないと分かっている。
もちろんプルーストとか夏目漱石とか尾田栄一郎とか、ゴリゴリゴリゴリ隙間なく全てを書き尽くしてしまうような作家が、私はもはや崇拝するレベルで好きだ。
それでも、それらの完璧に書き込まれた作品にもどうしても、行間というものが存在する。
そして読者一人一人と作品の間に生まれた隙間こそが、無数の読者によって世界を繰り広げていく楽しさ、素晴らしさにつながっていることを分かっている。
もっと読者を信頼して、その余白に何かを託す。
ついつい間合いを埋め尽くしたくなる自分のこの重たさを、私はずっと持て余している。
「相手の庭に勝手に入り込まない。何を選択するのも相手の自由」
カウンセラーの先生にいつも言われる言葉が、頭の中でリピートする。
深呼吸する。
今までは本当に、手を離して信頼して、この世界にドリフトしてしまうことが苦手だった。自分の頭で考えつくことなんて、その向こうに広がっている荘厳な世界に比べたら、かき集めたってシミにも結露にも至らない。
常に肩を緊張させて、To doリストや取説や時刻表がいつも手放せないのは、自分のことも信頼していないからだ。
自分が緊張していると、相手にもそれは同じ緊張を強いる不快感となって伝わっていく。上手くできなくて、また自分を責める声が止まらなくなってループする。

私はこの、自分の中の余分なものをそぎ落としてみたい。
自分にとって、本当は一番心地いい生き方とはどこなのか。
少しずつ少しずつ。今はまだ、手探りだ。

カウンセラーは私の、臨場感たっぷりの熱い答弁には反応せず、冷静に可哀想な東大生の話に頷いている。そして俄かにペンを取る。
つまり、「理不尽な要求に従った」「相手の都合で叩きのめされる」
というところですね。
食べごろのイチゴでも収穫するように、カウンセラーは私の言葉をさらさらとノートに書き留める。
いやいやいや、違うの。拾ってもらいたいのは、そこじゃないのよ。
そのシュールさに、思わずテーブルに身を投げ出して笑ってしまう。
しかしカウンセラーは畳み掛けるように続ける。
「それは学生さんと大学の問題であって、あなたには関係ないですよね。
普通はですね、学生さんコロナになっちゃって可哀想だったね、とかは思っても、
【叩きのめされた】とか、【苦労して東大に入ったのに】とか、そこまで思わないんですよ、だって
その学生さんが本当に東大に苦労して入ったのかどうか、知り合いでもないんだからわからないじゃないですか」

確かに。
何の苦労もなくなんとなく東大に入ってしまう人なんて、毎年一定数いるものだ。
私は何を、自分で勝手にストーリーをくっつけて、赤の他人のことで熱くなってるんだろう。
カチンコがなって監督の「お疲れさまでした~」という声がかかる。
寸劇が終わった瞬間、突然、自分がシリアスな顔してやっていることの滑稽さが、演技性が、ストンと中心に落ちてくる。
恥ずかしさに赤面して、笑い転げる。
そして、カウンセラーがノートに書き留めた言葉が、
カウンセリングでこれまで述べてきた自分の気持ち、今まで両親に、知り合いに、
こんな目に遭わされた、あんな出来事があった、と訴えたその幼少期から今までの出来事をそのままなぞっていることに気がつく。
「あなたの場合、現実に起こったことより陰謀論を話している時の方が、感情がノッてくるんですよね」
カウンセラーが付け加えた収穫したイチゴの検品作業でもするような分析を聞いて、私は完全にノックアウトされて机の上に気絶する。
頭の靄が、すーっと晴れていく。
いつもそうだ。出来事からむんずと自分を引き剥がして、それを形骸化してパターンを引き出してみたとき、
目の前にあるニュースに、今起きている出来事に、いつもぴたりと自分の幼少期の傷完全一致してしまうことを突きつけられる。

入り込んで怒っているときは、そのことこそが重要だと、
目の前にあるその出来事こそが、
変わったり、反省したり、逮捕されたり、断罪されたり、相手が間違いを認めたり、一緒に怒ってくれたり、何か外側の変更があって初めて、自分の心のこのイガイガは解消されるのだと思っている。
というより、それ以外に解決はないと思ってしゃべっている。
声に力がこもる。頭が熱くなって文章が長くなる。涙なんか出そうになる。
しかしそこからひとたび離れてみると、
自分とまるで同化しているかのように思えていたその悩みは、本当は自分と一体のものでも何でもなく、自分から分離させ、ゴミ袋に入れてどこかに処分してしまえる類のものなのだと理解できてしまう。
わかると同時にホッとして、そして実はそれを、
「イヤダイヤダ苦しい苦しい」と言いながら頑なに握りしめていたのは、他ならぬ自分自身だということに気づくのだ。


この、「理不尽」「叩きのめされる」という言葉にものすごく怒りを感じますが、どうですか?
カウンセラーに言われて、私は改めて自分の心の中を精査する。
確かにさっきまで涙ながらに訴えていたほどの怒りが、不快に揺れ動いている。
父や母や兄や、幼少期の自分の記憶がちらつくが、上手く捕まえられない。
思い出せない。
さっきまで旺盛だった感情は、一通りイタズラを終えた猫のように、今は涼しい顔で寝たふりをしている。
見つかったら、消化されてしまうのを分かっている。
出て行ってたまるかと、なんでもない感情のふりをして、私に感知されないように別の感情の後ろに隠れて誤魔化している。
いつもそうだ。
感情はいつも、気まぐれな風のようだ。
だから私たちは、自分が本当は何をどう感じているのか、いつも迷子になってしまう。

ワクチンが始まったとき、
どうして自分が殺されそうになっているのに皆んなそれがわからないのか、
こんなに明確な証拠が揃っているのに、大勢の人が徒党を組んでなぜ摂取会場に向かうのか、
そしてそれを止めようとする私が、どうしてアタオカってことになるのか、
批判されたり、迫害されたりする対象になるのか、
こんなに必死に繋がろうとするのに、何で指からこぼれ落ちるように分断されてしまうのか、
そのジレンマから抜け出すのに何ヶ月もかかった。

あの時もそうだった。
夫が義理の両親から酷い扱いを受けている。
なのに、本人は気づかない。
私がそれを指摘して親子の関係を軌道修正しようとすると、
自分の両親を侮辱するなと怒鳴り始める。
あなたを侮辱しているのは私じゃない、お前の親だよ、なんでわからない?

私には、数年に一度やってくる恐怖がある。
ちょっと強めでエキセントリックな女性に出会い、その人にいたく気に入られる。
その人は私にこだわるが故に、私を自分の支配下に置くことに執着し始める。
初めは私もそれをなんとかうまくやりこなそうと努力するのだが、次第にそれがエスカレートして、
私から他の友達を排除し、さらに独占欲を満たそうと画策し始める。
私が恐怖と我慢の限界を超えてとうとう逃げ出そうとすると、溜め込んでいた不安が爆発して被害妄想が始まる。
今まで私の周囲の人間関係に向けていた攻撃が、カラカラと音を立てて全弾、私の方に向きなおる。そうやって私を含む周囲の人間関係全てを破壊してしまうのだ。
彼女たちは今から思えば皆、アダルトチルドレンであり、境界線パーソナリティ障害を抱えていた。
被害妄想で歪んでしまった関係は、どうやって修正しようとしても修正できない。
でも、私が傷ついたのは本当は、彼女たちにされた恐怖の体験そのものに対してではない。
自分たちだってその煙害に遭いながらそれでも、
とにかくその場の事態を丸く収めること、現状を維持することに必死になる、かつては友人だったその他大勢の周囲の人たちの反応に対してだ。

どうして私の話を聞いてくれない?
どうして私の話の方を信用してくれない?
どうして私と一緒に怒ってくれない?
どうして私の手をとって、一緒にここを抜け出そうとしない?
今までの長い年月培ったはずの信頼や友情は、取り出された恐怖を前に、電気ショックを浴びたように一瞬にして消えてしまう。

きっと私は、どこかで自分を裏切ったのだ。
以来ずっと、このストーリーをなぞっている。
今はまだ明確に思い出せないけれど、きっとこれが、私の幼少期のとある重大な出来事トラウマの一つにつながっている。

一つ、心の傷を癒せば、その現象はくるりと世の中から消える。
それがこの世のカラクリだ。
だから私は、息を吸っては何度も何度も、自分の中に潜るのだ。
いつまでもこの世にのさばってるビルゲイツを倒すには、皆んなで武器を取って戦って、団結して逮捕して、歴史に残る残酷な絞首刑に処せばいいのではない。
私の中のビルゲイツ的なるものに対する怒りを、分割して切り離して、昇華する。
すると、ビルゲイツ本人だけじゃなくてビルゲイツ的なものはこの世から、私の前から消えるのだ。
ビルゲイツによって畏怖し、団結して武器を取らなければ生きていけないようなコチコチの私たちが消えてしまえば、ビルゲイツなんて闇はもう、この世に存在する意味がなくなってしまうからだ。

だから、深く深く、もっと深く。
その深淵は、前世から幼少期から歴史から世界から未来から、思いもよらない糸と糸で結ばって、そこに立ち至ったものにしか見えない荘厳な織物を見せる。
訪ねたものは、長い旅路の疲れを忘れて、その美しさと不可思議さに息を飲む。
私はその織物の一端を、見たことがある。
そしてそれが、本当はもっと大きくて、まだ見ぬ美しい綾がずっと遠くまで広がっているであろうことを知っている。
それを見に行く。
それが私の戦い方だし、どうせそれしか出来ないし、それこそがまずは自分のやりたかった第一フェーズなんだと、今はもうはっきりと分かっている。

先日、ある人が、
「座右の銘は、他力本願」
とおっしゃるのを聞いた。
なんと深いんだろう。
人を信頼し、自分を深くまで信頼できる境地に達したからこそ、手を放せる。
あるいは、つい肩に力が入りそうになる場面でその方も、この座右の銘を思い浮かべ、リセットしているのだろうか。

反枠の人たちはどこかで、ワクチンを接種した人間によって、つまり自分たち以外の人口の8割によって、自分たちが攻撃されているような恐怖心を抱いてきた。
でも今に至って落ち着いて眺めてみれば実際は、反枠の対極に踏んばって、血眼になってさらに6回も7回もワクチン打ちたくてたまらない、あるいは、でなきゃ筋通らんよね、というところに追い詰められた元推進派のインフルエンサーたち
なんていうのは極一部であって、ほとんどの人は自分の日々の生活にいっぱいいっぱい、反枠のことなんか気にしていない。
あんまり何も、ワクチンのことなんか考えていない。
去年の暮れ辺りからか。
陰謀論者がずっと求めていた「真実」が、急速にあちこちで暴露され始めた。
しかしそれが「社会の真実」としてなかなか浸透していかないことに、
「いつか、陰謀論者が言っていたことが正しくて、そのほかの人たちが間違っていた、と明らかになる」
と祈るようにその瞬間を待っていた人たちは、やきもきしながらハンカチを噛み締めている。

敏感な人間は気がついている。鈍感な人はいまだに気がつかない。
その敏感さと鈍感さの境界とは何なのかといえば、他人事を我がことのように感じとることができる、感受性があったかどうかだ。
ああ、これがいずれ自分の目の間にやって来る。そのリアルな感覚を、持てたか否か。
気がつかない人は、実際に自分の目の前にもそれがやってきて、もう逃げられない、本当に実際に自分の首を閉められて限界を悟るまで気がつかない。
騙されたと、認められない。
そこそこ満足した生活を送れている、それは自分の努力の賜物だと思っていた自分こそが実は、最下層の奴隷であり、お金だけじゃなく命までも搾取され辱められ、今まさに尊厳を踏みにじられているのだ、ということを受け入れない。
どこにいくら募金した立派な人であろうとも、弱者のために反戦を叫ぼうとも、穏健なリベラルを気取ろうとも、勇ましい愛国を語ろうとも、LGBTや弱者を擁護しようとも、高齢者や社会のためにとマスクをしていようとも、
善人に見えるその根底にあるのは、世間的にキレイな看板を掲げ、かつてパパやママに、いい子だと思われたかった、使える子だ、自慢の子だと言ってもらいたかったという思いだけ。
深くに横たわっているのはそんな幼稚でスカスカな哲学、惨めで健気な承認要求だ。
そして、陰謀論が真実であったことを証明して、自分が正しかったと溜飲を下ろすことに執着してしまう陰謀論者たちのその心理もまた、同じパパやママに認められたかっただけの承認要求だ。
それを突き詰めていくのは、恐怖だ。
どうして私たちは、いい子でいなければいけなかったのだろう。
いい子でなければ、どうなってしまっていたのだろう。
自分が自分を一番愛してくれたはずの両親から本当は何をされてきたのか、突きつけられることになる。
だからこれは、あくまでも個人的な問題、完全個人戦なのだ。
個々のメンタルの問題であり、そこと本気で向き合う、覚悟の問題。



今日は、久しぶりに大好きな公園に来た。
ちょうど梅の花が見頃を迎える頃だろうと読んだのだが、引き締まるような寒さの中、予想を上回る珍しい種類のさまざまな梅が、晴天の下、見事な競演を魅せていた。


少し前まで美しい紅葉を見せていた公園には、次は桜が咲き始め、わんさと人が押し寄せるだろう。そして新緑が始まり、水辺の藤棚には淡い紫色の藤の花が枝垂れ咲き始める。

社会的な共通認識としての、教科書に載るような「真実」なんてものは、もうこの先、私たちは持つことは出来ないのではないだろうか。
むしろ、そんな風にまとめあげられて、何が正しくて何が優しくてお利口で、誰が悪人でどんな行いが善人なのか、
誰かが決めた通りに頭の中を整理されて、一定の価値観にみんなが従ってきた今までの方が、実はよっぽど不自然な状態だったんじゃないのか。
今は、そんな風に思える。

皆んな個々の傷を抱えて生きている。
そして、そことどう向き合うのか。
いつそれに取り掛かるのかも、どの深度まで踏み込むのかも、
その人が決めてきた人生という旅のしおりだ。
真実は、その人の数だけある。
私はまた握りしめていた何かを一つ手放して、目の前の石を飛び越える。





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