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コロナウイルス連作短編その191「不純男として」

 田山比呂は友人であるファビアン犀潟とカフェで寛いでいる。スマートフォンを眺めていると、Twitterの呟きの群れが視界に入る。
「なあ、ファビアン」
 液晶を見据え続けながら、比呂は言う。
「トランス界隈でシスジェンダーのこと、“純男”とか“純女”とか言うのか?」
 そう言って初めてファビアンの方を見る。彼はコーヒーを掻き混ぜている。こちらは一切見ない。
「は? 知らねえよ」
「じゃあ、お前みたいな若い世代は使わないってことか?」
「知らん。全然聞いたことない」
「上の世代が使ってんのも聞いたことないの? つーか読み方“じゅんおとこ”と“じゅんおんな”で合ってる?」
「だから知らねえよ」
 彼はさらに勢いよくコーヒーを掻き混ぜる。スプーンがカップの底と擦れあい、耳障りな音を立てる。
「なに、機嫌悪いのかよ?」
「そうだよ、機嫌悪いんだよ」
「何で?」
 わざと苛つかせる意図で、何の気兼ねなしにそう尋ねる。
「……今日何か、ドイツでトランス男性がヘイターに殴られて死んだらしいんだよ。でも日本じゃ、TERFのバカが“身体女性”とか“フェミサイド”とか言ってんだよ。生きてるうちに数えきれないほど間違われた挙げ句、死んだ後もこうやって言われるとかマジ地獄だろ。死んだら言い返しもできねえし」
「ふうん」
 比呂はそれ以外何も言わない。何となく右の親指で人差し指の爪を撫でていると鋭い痛みが走る。鮫の歯さながら、爪の側面から微かにささくれが突き出ている。ちっぽけだ、だが痛みは驚くほど鮮烈だ。
「おい、小説のネタ思いついたぞ」
 そう言うと、初めてファビアンが比呂を見た。
 その白目とささくれの色が同じだ。
「その殴り殺されたトランス男性が幽霊になってさ、Twitterとかで起こるそういうミスジェンダリングやらアイデンティティ・ポリティクスを眺めてツッコミ入れてくんだよ。で、最後には炎上大戦争みたいになって、でも幽霊だから彼は何もできず無力って感じのやつ。TERFもそうだが、TRA側も皮肉る全方位に対して不謹慎なブラックコメディにすんだよ。よくない?」
「ふうん」
 ファビアンはそうとしか言わない。
「このネタ、お前にやるよ。お前が一番いいの書けるだろ、当事者だし」
「は? 何でだよ、そんなの要らねえよ。何でお前が書かないの?」
「いや、だってシスの俺が書いたら“当事者じゃないやつが書くな!”ってポリコレ棒で殴られるだろ。香川照之みたいにキャンセルされる」
「それと香川は全然ちげえよ、馬鹿か?」
 唾でも吐き捨てるようにファビアンが言った。
「は、何だよおら、デッドネーミングすっぞ」
 今度はプッと吹き出す。
「おい、じゃあやってみろよ。言っとくがポケットに録音機仕込んでるから、言ったら証拠残って訴訟だよ、訴訟。テメエから慰謝料せびって、それでホルモン代とか税金とか堂々と支払ってやるよ」
 そしてファビアンは爆笑する。比呂も勢いで爆笑する。
 ウゼェんだよ、この不純男。心のなかではそう吐き捨てる。
「お待たせ、田山さん」
 そんな声がするので、振り向く。
「遠藤さん、こ、こんにちは」
 比呂は急いで立ちあがり、その遠藤窓という男性に頭を下げる。彼は最近、デビュー長編を出版したばかりの小説家だ。比呂は作品を読み魅了されたが、インタビューに目を通した際、自分と同じ大学出身で、かつ今自分が所属する文芸サークルにかつて在籍していたと知り、驚いたのだ。そして様々なつてを頼った末、今日彼に会うことができたというわけだった。
「お、俺、田山比呂です。作品買って読みました、めっちゃ良かったです、本当すごいよかった……」
 友人には幾らでも読んだ本の感想や批評を披露できるのに、いざ作者本人を目前にすると何も言葉が出てこない。
「いやいや、緊張しないでよ。ぼく、そんな巨匠じゃないよ」
 窓は顔をクシャと歪ませ、苦笑している。
 憧れの人を困惑させるばかりで、自分が無様に思えた。
「それで、君が……」
「あっ、はい、ファビアン犀潟っす」
 そこで初めて彼は立ちあがり、軽く会釈する。
「不純男です、宜しくおねがいしまぁす」
 比呂は全く耳を疑う。思わず比呂は窓の方を見るが、困惑の表情がさらに深まっている。
「ど、どういうこと?」
「いや、トランス界隈にシス男性を“純男”って言うスラングがあるらしいんすよ。で、俺はトランス男性だから“不純男”みたいな。あっ、ついでに親父がウルグアイ人なので“不純ジャパ”でもありまぁす」
 ファビアンの軽薄な態度に、体の震えが抑えられない。
 だが同時に自分の心を見透かしたような言葉遣いにゾッとする。何もかもが分からない。
 彼の言っていることは本当なのか?
 ということは自分が彼に尋ねたことは事実だったのか?
 それとも事実か嘘か知らないまま、ただ自分の言ったことを真似ただけか?
 何にしろ己の肉の内側で、大腸が加速度的に腐っていっている。
「君、面白いね」
 比呂はまた耳を疑った。
「軽薄と言われるかもしれないけど、そういう言葉を核として、個人的な価値観や経験を“私の物語”として描く。これが出来れば、きっといい作品が書ける」
 比呂はそんな言葉がファビアンに向けられるのを聞きたくない。
「いやあ、俺の場合……主人公がトランス男性とかアセクシャルとか、そういうクィアなやつってもう超あるあるじゃないですか。そういうキャラを主人公にして、しかもそれを表向きにせず“どのカテゴリーからもはみ出まぁす”みたいにしちゃえば、それで新人賞獲得、みたいな。むしろ俺としては、そっから遠ざかったもの描きたいっすよねえ」
 比呂は俯くしかない。
 ファビアンは自分を辱しめるために来たと、今そう確信する。
 口から腐乱した大腸がブチ撒けられてもおかしくなかった。
「ああ……そうか、そうかもしれないね、いや、確かに」
 比呂は窓が何を言ったのか、よく理解できない。
「ちょっと、ぼくの方が浅かったかもね」
 そう言って、ハハと窓は笑う。
 こいつ、比呂の心で言葉が荒れ狂う、何でヘラヘラしてるだけのこいつが窓さんに感心されてんだよ、何なんだよ、しかもこいつマジで生きてるだけで小説のネタの宝庫の癖に、自分からネタ捨ててヘラヘラヘラヘラしやがって、そんなネタならお前が書けばいいんじゃねえの?って、クソ、クソ、余裕ぶりやがって、ヘラヘラヘラヘラヘラヘラヘラヘラ……
 ふと、視線の先の赤茶色の地面を、1匹の蟻が歩くのが見えた。人間の目から見ると、その歩みはとても健気だ。比呂は左の足で蟻を潰す。
 お前もそのまま不純男として死ね。

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。