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コロナウイルス連作短編その156「俺はこいつらとは違う」

 その後、三觜和弘はビデオ会議の途中に腹痛を感じる。いつものことだったが、ビデオ会議中に来ることは意外にも初めてだった。この事態はいつか来ると分かっていながら、実際に到来すると焦る。収まることを願うが、激しさを増す。我慢しても数分後には限界がきて、下痢が炸裂するだろう。だが和弘は自分が平常を装うとしているのに気づく。何も起きていない、何も起きていない。自分は同僚たちの言葉を聞いている、その表情の移り変わりから言葉にされない情動を読み取っていく。大丈夫な気がした、別にトイレに行く必要はないとそう思えた。
「ねえ、三觜さん大丈夫?」
 そう言ったのは上司の軽部朝坂だった。
「何か顔が青いけど、もしかして今、体調悪いんじゃない?」
「いや、あの……」
 和弘は口ごもるが、気の緩みのせいか痛みが増幅する。内臓が腐るような痛みだ。
「大丈夫だよ、辛かったら我慢する必要ないから」
 そんな気遣いの言葉が和弘の鼓膜をなぜる。画面に映る同僚たちは自分を心配げに見ていた。自分の苦しみを液晶越しに観察していた。
「そう、そうですね、あの……お腹痛いのでちょっと失礼します」
「うん、分かった。大丈夫だよ、落ち着くまで休んで」
 パソコンを一時停止させると、和弘は部屋を飛び出し、急いでトイレへ赴く。ドアを必死に開け、個室に押し入り、便器に座るためスーツベルトを外そうとするが、焦りでうまく行かない。必要以上に激しく動くうち、尻穴から生暖かいものが溢れるのを感じた。そこで不思議なほど、心が落ち着いた、もしくは麻痺したか。息を大きく吸って、大きく吐く。そうして凪が訪れる。静かだった。和弘はベルトを外し、下着を脱いでから便器に座る。それと同時に下痢便が止めどなく溢れだした。ほぼ水分で、便というよりも尿のような感触だ。音だけが壮絶なまでに耳障りに響く。惨めだった。

 1年半ほど前から原因不明の腹痛が頻発し、それと同時に食欲も無くなっていった。最初は病院に行くほどでもないと思い、体調が悪くなっても病院に行く気がせず、最後にはあっけなく限界がきて近くの小さな診療所に行った。検査の後に大きな病院への紹介状を書かれ、そこでクローン病と診断された。免疫が異常を起こし、腸に際限なく炎症が引き起こされる。下痢、腹痛、高じては腸管狭窄、大量出血という症状がでる。これは難病で一生治らない。そう宣告された時、和弘は昔観ていた『1リットルの涙』というテレビドラマを思いだした。主演は沢尻エリカ、彼女が難病である白血病になり、そして最後には死ぬ。クローン病は死に直結する病ではないと説明されたが、帰り道、彼はずっと『1リットルの涙』を思い出していた。
 おいおい、これで俺もよくある難病ものの主人公だな。
 日に10を越える常服薬に、レミケイドと呼ばれる10万円以上の薬、それらを根気強く投与することで、今は寛解に近い状態だった。先日から何とか仕事にも復帰できた。上司である軽部朝坂も信頼に足る人物だった。実は住まいが近いということで以前から親しかったが、クローン病発覚後はより彼女の優しさが深まったように思える。クローン病への配慮も欠かさないと約束してくれた。業務体系もコロナ故のテレワークが効を奏するという結果となっている。今は悪くない状態だった。だが時折、通り魔のような腹痛が彼を苛み、下痢便をブチ撒ける羽目になる。悔しかった。そして同僚や朝坂の前で醜態を晒した。トイレ内で落ちこまざるを得ない。
 和弘はテレワークでもスーツを着用していた。ズボン、ベルト、Yシャツ、スーツジャケット。出社時に着るべきものは全て纏ったうえで、業務を遂行している。これは彼なりの仕事への敬意だった。そして朝坂への信頼に答えるための行動だった。それが仇となったのだ。床に脱ぎ捨てられたトランクスを見つめ、手に取る。群青色の布地に黒く大きな点が浮かんでいる。明らかに便だった。さきの感覚よりも、点は大きい。予想以上の便が漏れたというのをまざまざと味わわされた。
「いったい何なんだよ」
 そう小さく吐き捨てる。だがもう既にそんなことは数えきれないほど起こっている。
 和弘はズボンのポケットから携帯を取り出し、電源を点ける。尻の汚穢も拭き取ることなく、動画を観始める。映し出されるのはアメリカのデモ行進だった。ここでは数々の差別を被ってきた障害者たちが自身の権利を勝ち取るために、抗議活動を行っていた。半身麻痺で車椅子に乗る者、杖をつきながら歩く盲者、顔面が大きく肥大した者。様々な人が障害者差別を撤廃するために叫び、歩き続けている。
 こいつらカタワと俺は違うんだ。
 和弘はそう思った。
 こいつらカタワとは違うんだよ、こういうクソ人間みたいに権利ばっか主張して、介護とか生活費とかそういうのを政府に保証させる、そういう労力をせびろうとする依存者とは違うんだ、俺は失敗もあるけど頑張ってる、独りで生きていけるように努力してるんだ、俺はカタワじゃない。
 映像には様々な障害者が現れる。和弘は顔面の部位が中心に寄っているように見える男性はダウン症だと思った。他にも顔面麻痺に見舞われている女性を見つけた。和弘は表情筋を誇張して動かしまくることで、彼女の顔を真似た。唇を強制的かつ過剰に曲げた後に、そこから唾を噴き出していく。皮膚が唾の拡散を感じるたびに、清々しい気分になる。だがそんななかで再び腹部に痛みが走り、下痢便が尻穴から溢れだしていく。顔面の物真似は続く。
 すると恋人の貴崎いつきからメッセージが届く。
 “アルセウス、全然たおせねー”
 それを読んだ瞬間、彼は本気で吹きだし、後から絶大なまでの愛しさが溢れだす。今日、仕事は休みらしいが、そういう時いつきはいつでもゲームをしている。任天堂などのメジャーどころからsteamで配信されているインディーズまで幅広くゲームを堪能しているが、お部屋デートをする時までゲーム三昧だ。彼女がゲームしているのを、和弘は後ろから観覧して、時には抱きしめながらうなじにキスをする。そして「邪魔や、離れろや」と文句を言われるのだ。愛しかった。確かに今は惨めだった、だが自分にはいつきがいると思うと、救われた。
 こいつらカタワにはそういう存在もどうせいないんだ。
 動画をまた観ながら、そう心で吐き捨てる。1度だけでなく、何度も吐き捨てる。全員、処女か童貞だろ。その後、映像に関節が萎縮しているらしい車椅子の女性が現れるが、彼女の車椅子を押している白人男性が彼女の頬にキスをした。2人とも微笑んだ。和弘は嘔吐するようにがなりたてる、おえええ、おええええええ。
 そうしてやっと腹部の異常が収まる。彼にはこれに心当たりがある。クローン病患者は脂質の摂取を1日30g程度に抑える必要がある。ゆえに油を取るのは食事節制における大きな禁止事項となる。だが和弘は我慢できず、昨日ファミリーマートで博多豚骨ラーメンのカップラーメンとチョコバーを買ってしまった。お湯を入れて3分待つ。奇妙なまでに広い食事スペースの前はガラス張りで、そこから最寄り駅とタクシーが客を待つ円状の道が見える。道横にはパチンコ店もある。3軒あったが1軒がコロナで潰れ、敷地は工事中だ。ここで何かを食べるのは久しぶりだった。和弘がラーメンの蓋を開けると、ぬらぬらした白煙がブワッと広がる。この時点で込みあげてくるものがあった。一気呵成に麺を啜る。旨かった。脂臭くて、重くて旨かった。頑張って涙を抑えながら食べた。麺を啜る合間に、チョコバーも食べた。旨かった。感動のなかで語彙という概念が消失している。旨かった、本当に旨かった。そして今日、トイレのなかで腹痛に苛まれながら下痢便を延々と放出する羽目になる。豚骨とチョコが原因というのは明白だった。乾麺も炎症の腸には害悪だとも聞いたことがある。確かに旨かった、だがこれを食べるすらも一生満足にできないかと思うと、情けなかった。昨日、我慢した分、泣いた。
 何だよ、俺、メンヘラかよ。いつき愛してる!って救われた気分だったのに。
 そう自嘲するが気分は晴れない。だが液晶に映る障害者たちは元気に溢れ、ともすれば楽しげにも見えた。
 俺の人生、いったい何なんだよ?

 和弘はパソコンの前に戻っていく。
「ああ、三觜さん、大丈夫?」
 朝坂が心配げにそう尋ねてくる。
「いやいや、もう全然……」
 その後、何か冗談が言いたい。口を動かすが、声が伴わない。頭のなかに“唖然”という言葉が思い浮かぶ。前にネットで、これは障害者差別を内包した言葉ゆえに使うべきではないという提言を見たことがある。うるせえよボケ、和弘はそう思った。そんな罵声は浮かびながら、冗談は浮かばない。妙な間が生まれ、同僚たちが和弘を見る。彼はぎこちなく笑うしかない。
 会議はまだ続く。長かった。そして腹部に再び不穏なものが兆し、痛みが再来する。加速度的に膨張し、もうすぐ下痢が炸裂するのではないかと思える。だがまた会議から出ていく勇気がない。いくら朝坂でも見逃さないのではという恐怖を抑えられない。我慢しようとする。もう漏らせよ、心のなかにそんな声が響いた。和弘自身の声にも聞こえるが、そうでもないようにも聞こえる。どうせ今後何度も何度も漏らすんだからいっそ漏らせよ、別にもうどうでもいいだろ、これからはこういうのがお前の人生なんだから、もう諦めとけよ、そうすりゃすっきりするよ、なあ、早めに受け入れてそれで終わり、それで終わりだよ、ははは。

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。