コロナウイルス連作短編その53「コロナのバカ」

 栗栖波留がショッピングモールの食品売り場を歩いていると、不安げに辺りを見渡す女性を見つける。
「どうしました、もしかしてお子さんが迷子とか?」
 彼女は頷く。
「さっきトイレの前で、迷子の子供を保護してるって人に会いましたよ」
 波瑠は女性とトイレへ行くが、誰もいない。
「あれ、おかしいな。トイレの中?」
 彼女たちはトイレへ入る。波瑠は誰もいないことを確認する。女性はハヅキと子供の名前を呼びながら、個室を覗きこむ。波瑠は彼女の背中を蹴り、便器に衝突した女性の身体にナイフを突き刺す。ドアの鍵を閉め、唇から血を流す女性の首を右足で圧迫する。
「ごぐっ、があ、あああ」
数十秒続け、女性が動かなくなると、その腹と股間にナイフを何度もブチ刺す。
 波瑠は食品売り場に戻った。彷徨う。わめき泣く少女の姿を見かけた。物陰から彼女をしばらく眺める。その後、車で家に帰る。

 窓のそとの風景がうつろっていくたびに、鼻に届くかおりは不思議と変わっていく。都市的とでも呼びたくなる無機質な錆のにおい、都市と自然のあいだで吹く淀みながら爽やかな風のにおい、瑞々しい青をきらめかせる葉の群れのにおい、小学生のころ使っていた黒のえのぐを思わす闇のにおい。目にうつるものにいざなわれ、鼻がまぼろしのにおいを嗅ぎとるのが波瑠には不思議だった。そして見なれながらも、もはやこころからは遠くにある既視の風景に、あまやかな雨と泥のにおいをかんじたとき、自分は故郷にもどってきたのだと感じる。先内と呼ばれるその町を知るひとは少ない。昔、有名な映画監督がじぶんの作品を撮影しにきたそうで、シネフィルにはこの町を知る人もいる。それ以外には知る機会すらない、ひたすらにボンヨウな町のひとつでしかない。
 駅におりたつ。あのあまやかさがマスクをすりぬけ、波瑠の鼻をしたしげになでるので、すこしだけセンチメンタルな気分になる。今年はコロナウイルスの猛威ゆえ帰省はひかえようと思いながら、母がLINEにのこした“でも、さびしいなあ”ということのはが波瑠を故郷へ呼びもどしたんだった。先内はかわっていない。よく映画ではかわりゆく故郷というやつが描かれるけれども、この町は子供のころから全く変わらないので、自分は映画の主人公にはなれないなと思える。
 おなかが空いたので、駅のちかくの蕎麦屋へといく。店主の町川夫妻は波瑠とは顔みしりで帰ってきたことを喜んでくれる。
「コロナのせいでさあ、もうブッつぶれるギリギリだよな」
 夫の町川量がそう言ういっぽうで、妻の町川左子はシンプルな、本当にシンプルな、波瑠のだいすきな掛け蕎麦を持ってきてくれる。これもやはり、かわらない。波瑠はこのかわらなさに安堵し、やわらかなしあわせを感じる。
 またあしたも食べにくると約束し、蕎麦屋をあとにする。だだっぴろい道をダラダラと歩きながら、口のなかにのこる蕎麦とつゆの古風な美味をハンスウしながら、波瑠は故郷というものをぜんしんに味わう。この空気をなつかしみ、いとおしみながら、彼女は故郷がすきともきらいとも言えなかった。

 家に辿りつき、しばらくやはり何だってかわっていない外観をながめる。意をけっして、チャイムを鳴らすと、母である栗栖真宮子があらわれて、かんきわまったような表情で娘にハグをする。
「いやちょっと、コロナうつるよ」
「コロナなんか知らんよ、バカ」
 真宮子のからだはあたたかく、なのに動きはどこかぎこちない。奇妙なここちで、波留は母のからだを抱きしめた。
 リビングに行くと真宮子のかいいぬであるパグがやってくる。パグという名前の柴犬だ。名前をよびながら、ワキワキとパグの毛並みをなでる。
「パグ、なんかすごい白くなった感あるな」
「そりゃもうおじいちゃんだし、白髪になっちゃうよねえ」
 それを聞いて、波留の心はギギギッと締めつけられてしまう。
 晩ごはんには真宮子の作るからあげを食べた。母のからあげは本当においしくて、これさえあれば自分は生きていけるとサッカクするほどに愛していた。家に帰ってきたときには、毎日食べていた。食後、真宮子は皿あらいまでしようとするので、波留が強引にその仕事をひきうける。しかし真宮子は皿をふきはじめる。ジャアジャアだとか、ボトボトだとか、カラカラだとか、カキカキだとかそういう音が気ままに響いているのを、誰かといっしょに聞くのは心地がよかった。
「ねえなんか、私たちの手、似てきてない?」
 真宮子がそんなことを言うので波留は驚いた。
「そんなんないと思うけど。娘も老いたなってこと?」
「違うってええ。おやこだからさ、似てきてるってことだっての。さわっていい?」
「いいけど」
 真宮子は娘のぬれた手を感慨ぶかげにさわる。その親密だけどもウザッたい動きからは、ニャチニャチなんて音が聞こえてくるような気が、波留にはした。
「昔、パグもこんなふうに私のことなめてきた。今はあんま元気ないけど」
「パグみたいって言われるなんて嬉しいわあ」
 真宮子はおどけたような笑顔をうかべる。

 翌日、朝十時くらいに起きてから、朝ごはんも特にたべないで、そとへ散歩へでかける。しばらくただただプラップラと歩いていたら、駒子シネマという映画館に自然とたどりついていた。そう頻繁ではないけども、先内に住んでいたころは何度か足をはこんでいた。外装は古びていて、えのぐの剥がれた油絵のような惨めさがありながらも、閉まってはいないようだった。中に入ってみると、長い年月生きるものをいだいてきた木の豊穣なにおいが波留にとどき、思いでがまた自然と心をなでてくれる。従業員以外は誰もいないかと思ったが、トイレから親子があらわれる。マスクをしているのにその目を見た瞬間、父親のほうが誰だか波留にはわかった。
「悟!」
 その男性、日本橋悟が波留のほうを見て、しばらく首をかしげながら、彼女がマスクを外したとき、その顔に笑顔がうかぶ。
「波留、おい久しぶりだな!」
「いや、ホントだね」
 ほがらかな悟のよこで、彼の息子らしい少年は怪訝といった表情をうかべている。
「雷画っていうんだ、おれの息子だよ」
「おはよーございます」
 妙に間のぬけた声で、雷画は波留にあいさつをする。
「ちゃんとあいさつできたな、雷画」
 悟は雷画の頭をやさしくなでた。雷画はティッシュに鼻みずをブチまけた。
「おまえも仮面ライダー観にきたのか?」
「えっ、いや、何かなつかしいなあってただ入ってきただけ」
「そうかあ」
 その声が名残惜しげな響きをしているので、背中がむずがゆくなってしまい、何だかんだで波留はチケットを買って、仮面ライダーをいっしょに観ることにした。もちろん離れて座ろうと思いながら、悟に誘われるがまま、彼のとなりに座ることになる。そして席に座った瞬間、いままで大人しかった雷画がバキバキとからだを動かしはじめる。興奮をおさえきれないみたいで、波留は笑ってしまう。悟の息子のマネをして、波留の笑いはさらに大きくなる。
 映画を観終わったあと、なぜだか泣いている自分に波留は気づき、こんどは悟がわらった。
「いや、なんでだよ!」
「分かんないよ、でも何か……今さ、コロナとかですごいヤバいことになってるけど、あの仮面ライダーに"絶望せずに背筋のばして、しゃんと生きろ!"って言われてる気がして、何か感動した」
 悟が笑いつづける一方、雷画は深くうなずきつづける。
「お姉ちゃんのきもち、めちゃ分かるよ」
 映画館から出たあとも、しばらくいっしょに道を歩くけども、別れのときがやってくる。
「あれ、大統領とかがヒジであいさつするみたいなの、ニュースで見たんだよ。あれやらん?」
「はは、まあいいよ」
 波留と悟はヒジとヒジをぶつける。
「オレも!」
 波留はしゃがんで、雷画とヒジとヒジとをぶつけ、笑いあう。

 家に帰ると、真宮子はパグと散歩にでかけるようだった。家でやすもうとしながらも、真宮子が積極的に誘ってくるので、もときた道をまた歩くことになる。波留もいっしょだからか、パグは子供のようにはしゃぎまわり、ツバをあちらこちらにブチまけて、最後には道端にウンコまでしてしまうので、波留も真宮子もしばらく笑いをおさえられなかった。散歩をしていると、近所のひとびとが彼女たちに声をかけてきて、そのそれぞれ異なる顔のかずかずが愛おしく思えた。しかし次に考えてしまったのは、もし彼らがコロナで死んでしまったら?ということだった。そしてもしかすると、波留自身がコロナを蔓延させる可能性もあり得ないわけではないのだ。こんなことを考えなくてはいけない現状を波留は呪った。そんな波留の右足に、パグがほおを擦りつけてくる。彼に慰められているような気がして、心がおちついた。
 夕食をたべながら、波留は母の身ぶりをながめる。彼女の食べかたはまるでオーストリア=ハンガリー帝国の貴族さながら上品なものであり、その所作は洵美なる雰囲気をたたえている。それは生来のものではなく、後天的に身につけたものであり、だから波留が子供のころ、食べかたに関して真宮子にいくどとなく叱られたことを覚えている。代表的なことのはは"女の子なのにはしたない"だ。自身のしつけと彼女の努力によって、波留もまた美しさを身につけられると信じていたのだ。すくなくとも波留はそう思っている。けっきょく、娘の食べかたに美は宿ることはなかった。一時期、食事をするたびに、波留は母のシンエンさながらの幻滅を感じ、食欲すらしずかに殲滅させられていた。しかしたがいに何もいわずにいるうち、幻滅は消えた、全てが消えたんだった。今でも真宮子の食べる姿を見るとモヤモヤを感じながら、たしかにその美には惹かれてしまう。箸を持つ手さきが、雪花石膏のように輝いている。まえ、真宮子は波留の手が自分に似はじめていると言った。彼女にはまだそのことのはが信じられないでいる。
「今日さあ、悟と会ったんだよね。悟だよ、日本橋悟。何か子供連れてたよ、そういう年かっていう、なんか」
 真宮子は波留のほうを見ると、少しかなしげな顔をする。
「悟くんねえ。あの子の奥さんね、世界なんてステキな名前だったんだけど、乳がんで亡くなっちゃってね。だから息子の雷画くんのこと頑張って、育ててるのよ」
「ああ、へえ」
 自分の返事がそんなおざなりなことに、波留は驚いてしまう。心配のことのはを言えなかったことが少し恥ずかしかった。

 翌朝、何もする気がなくて、波留はただただ布団のうえでゴロゴロしていた。布団の密な重量をあじわいながら、ゆるまった時間を過ごすのはとても心地がよかった。十二時を過ぎてもまだまだゴロゴロしつづけるが、真宮子は特に部屋にくることはなかった。放っておいてくれる母の優しさに甘えて、波留は布団に潜りつづける、気分は砂にうもれて惰眠をむさぼるハマグリだ。三時ごろ、やっとリビングに行くと、ニュースを見ながら真宮子がゴビゴビとせんべいを貪っていた。なのでその横に座って、いっしょにゴビゴビとせんべいを食べた。おいしい。
 結局、この日はほとんど何もしなかったが、深夜になって何となく散歩に行きたくなったので、波留は真宮子が寝たあと外にいく。闇はすこぶる凍てつきながら、ぼうっとした心にはちょうどよく刺激的で心地いい。しばらく歩くとコンビニに辿りつくのだけども、店の前には悟がいてアイスを食べていた。この凍てつきのなかで、アイス。苦笑しながら、彼に近づいていく。
「何してんの」
「いや、アイス喰ってるんだよ」
「そりゃ分かるけどさあ、冬に外でアイスっつうのはなかなかハードコアだよ」
 そうは言いながら、悟がそれは旨そうにアイス、ガリガリ君のソーダ味をほおばるので、好奇心が芽ばえる。コンビニに入り、ガリガリ君の袋をつかみ、レジに行く。中年の男性店員は風呂場のカビでも見るような目で波留の鎖骨あたりをながめる。コンビニから出て、悟のよこに座る。ガリガリ君は唇でふれただけで痛い。ほおばって歯でかみまくると、よりいっそう痛い。
「さみいいいい」
 そんな声を絞りだすと、悟が笑った。波留の瞳からは熱い涙まであふれてきそうになるけども、我慢する。そして棒の先端がコンビニの白いひかりに照らされるが、そこには当たりと書かれていた。
「おい、ラッキーだな。とっかえてこいよ」
「いや、もう寒くて喰えねえ。当たり棒とかいらんし。悟、いる?」
「おっ、マジかよ。やったね」
 彼は棒を持ってコンビニに行き、ガリガリ君のコーラ味を持ってきた。間髪いれずに悟はジョリジョリとガリガリ君を喰らい、波留はその横顔をみすえる。黒くなまめかしい髭が、アゴと顔の輪郭に生えそろっていて、思わず自分のアゴをさわってしまう。首のすじには紫色の血管が浮かびあがっており、その裏側で疾走する血に思いをはせる。そしてその血のなかには、悟が彼の妻であったという世界に首をなでられる風景がまた浮かぶ。彼女の顔はぼやけており、表情は伺いしれず、なので自分が洗面所で顔をあらう時によく見るあの顔が嵌めこまれた瞬間、波留は驚いてしまう。
「なに見てんだよ」
 悟はそう言う。
「薄汚い笑顔見せんじゃないよ」
「その言い方、ひどすぎるだろ!」
 二人は大声でわらった。
「がんばれよ」
 波留のことのはに、悟は少し真剣そうな表情をみせる。
「ああ、ありがとな」
 悟は勢いよくガリガリ君を食べる。

 朝起きて、リビングに行き、テレビを見る真宮子の背中をみる。何故だかそれが小さく思えて、急に怖くなる。彼女はパグがそうするように真宮子にすがりつくと、彼女はヨシヨシと頭をなでてくれる。
「もうちょっとこっち来なさい」
 こうして母と娘は抱きしめあう。
「ねえ、もうすぐ帰っちゃうの?」
 真宮子がそんなことを言うので、波留は狼狽えてしまう。
「ねえ、父さん死んじゃってもう八年だよ。孤独はさ、もう十分だと思う。何かいい人いないの? 仲いい女ともだちとかさ」
「ううん、寂しいけどそういう気にはならんのよね。難しいね、はは」
 彼女の笑顔に後ろ髪をひかれて、抱きしめる力がより強くなる。波留はずっと真宮子といっしょにいた。そして時が過ぎる。
 真宮子は、波留が駅にいくときずっとついてきた。なのにどちらも無言のままで、あっという間に駅に着いてしまう。駅のホームで待つ時間すらも、奇妙な静寂がふたりの間にあった。何か言いたいのに、マスクの下で唇がボンドでくっつけられたように口をひらけない。電車が来てしまい、轟音が母と娘の静寂を切り裂いていく。
「じゃあね」
「うん」
「まあ別れても、すぐLINE送るけどね」
「うんこのスタンプいっぱい送るから」
「じゃあちんこのスタンプいっぱい送る」
「きったねえ」
「うんこの方がきたねーし」
 電車に乗り、波留が振りかえるとドアが閉まる。真宮子がガラスのうえに手を置いた。手のひらがゆっくりと開いていく。波留が手をかさねようとすると、電車が動きだす。驚いたことに真宮子は電車についてきた。いやいや生涯の別れじゃないんだから、そう思いながら笑うのに、だんだんと嫌な予感がしてくる。本当にこれが最後になってしまうのではないかと。真宮子はとうとう走りだす。
「マスクしたまま走ったらすっごい疲れるよ!」
 そう叫んでいたけども、もちろん聞こえるはずがなかった。真宮子が走る、電車が走る、でも当然真宮子は駅のはじで止まらざるをえない。彼女の姿はあっという間にちいさくなっていく。
「何でだよ、何でこんな気持ちになるんだよ、なっちゃうんだよ。コロナのバカ」
 波留はズベズベと泣きながら、赤ワイン色の座席にすわる。涙も鼻みずもティッシュでつつんで、ポッケにつっこむ。そして気づいたのは、先内のあのあまやかなにおいはもうここにはないということだった。

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。