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コロナウイルス連作短編その137「私たちの絶滅」

 だが櫻井雄洋は起床した瞬間、脳髄を万力で圧縮されるような苦痛を抱く。その理由はもちろん分かっている、夜に酒を呑みすぎたからだ。脳髄は脳漿や頭蓋骨ごと鉛のように硬くなり、雄洋を苛む。眼球を取り囲む筋肉の数々を必死に動かしながら、ぼやけた世界への認識を正そうとする。その最中、床に横たわっていたらしい自身の肉体、その左腰の傍らに缶が置いてあるのに気づいた、ストロングゼロ・ダブルレモンの缶だ。持ってみると、中身は未だ多い。一気飲みする。意識内で新星の大爆裂が起こったかのごとく、認識の濃霧が一瞬にして晴れる。気分がいい、映画か何かで、ドラッグ中毒で卒倒した人間の胸郭に注射をブチ刺すと、彼女の意識が衝撃とともに甦るという場面を見た。意識における今の激動は正にそれだ。気分がいい。だがまた間髪をいれず、猛烈な吐き気が込みあげ、異様な俊敏さで立ちあがると、トイレへ疾走する。個室に転がりこんで後、便器へ吐瀉物をブチ撒ける。胃ごと全てを底へと投げ捨てるように、内容物を放出し尽くす。ずっと目を瞑っていた、肉体より廃棄される半固形物を網膜に映したくなかった。そして雄洋は、便座のうえに頭を横たえる。暖かい。世界は寒い、そして歪んでいる。

 ポカリスエットを買いに、外へ出る。吐瀉の後は、身体が浄化されたようで、いつだって清々しい気分だ。午後の陽光は爽やかで、イカの眼球のように濁りがない。散歩をする際、雄洋は常に100ショップで買ったグリップを持っている。足が地を踏む一方で、手は交互にグリップを把握する反復運動を行っている。ホルモン注射などの医療的措置以外で、己の肉体をより男性へと肉薄させたい。願いには重みがあるが、把握運動自体は軽やかだ。グリップを握りしめる際の、密度ある反発を味わうのには快感を覚える。そして最大の力でしばらくグリップを握り続ける時の、全てが溶けあうような震えに、文字通り大いなる“手応え”を抱く。最近、経済学の書を読んでいる際、“拮抗力”という言葉を見かけた。産業を独占する大企業、それに対して消費者や労働組合などが圧力をかける。彼ら大衆による“拮抗力”にいって市場は初めて均衡する。ここにおいては己の握力が独占的大企業、グリップの反発が“拮抗力”だった。そして付け加えるなら、これは70年前に書かれた書物だ。今、ネット社会によって、個がそれぞれ意見を述べ力を行使するプラットフォームを持ち始め、“拮抗力”は大きくなった。しかしそれ以上に企業の膨張は留まることを知らない。今やこの“拮抗力”は形骸化し、無力となった、少なくとも雄洋は思っている。これはもはや経済的問題でなく、ただ大衆を信頼するか侮蔑するかの倫理的問題の枠においてしか語ることはできないと。雄洋は右手でグリップを握り締める、握りしめ続ける。手首に太い血管が浮かびあがる、それが嬉しかった。
 なおも把握運動を続けるなか、雄洋は道の隅に何かが転がっているのを見かける。錆びた赤白のガードレール、その小柄な円柱に寄りかかるように、ぬいぐるみが置いてあった。近づくうちに、それが鳥のぬいぐるみだと分かってくる。視線を引力に掌握されたように、彼はその傍らに行き、ゆっくりとしゃがみこむ。どこかずんぐりとした、能天気そうな鳥だが、名前が思いだせない。鳥だが、実際に飛んでいる姿を見かけたことがないような、不思議な感覚を覚える。しばらく考えこむうち、謎が解ける。この鳥の名はドードー、数世紀前に絶滅した鳥類だった。今、生きている人類でこの鳥が生きている姿を目撃した者が存在することは有り得ない。だがどこでどこで知ったか、親の話、博物館、図鑑……ドラえもん、急にそんな名前が思い浮かび、雄洋は苦笑する。そう、ドラえもんだ。ここにおいてドードーは愛嬌があるがどこまでも愚鈍な存在として描かれていた。子供ながらに、こんな動物は絶滅を免れないと笑った覚えが確かにある。だが、雄洋は思う、今は私の方が絶滅しそうだ。
 しばらく彼はドードーのぬいぐるみを眺めていた。近くのK's電機1階にあるトイレのドアと同じ橙の色彩に、無知とばかりに開いた眼、もわもわと怠惰なまでに膨らんだ毛並、そして妙に巨大な嘴が際立つ。道に放置されているというのに危機感はなく、それでいて実際に肢体は未だ綺麗なままで、汚れはほとんどない。不思議な存在だった。そしてふと、雄洋はその体の形が数字の2に見えた。最初は何となしの茫漠、後には確固たる鮮烈。こういう類いの直感は切り捨てられない魅力がある。雄洋は携帯を取り出して、競馬サイトに赴き、レース予定を確認する。阪神マグニフィセントステークスが時間的に最も近い。表を見る、馬番2はドーゲンバズーカ、単勝は92.3倍。ここに心臓を鷲掴みにされるような偶然を見出だした。2、ドードーの“ドー”が入った馬名、そして923は奇妙にも雄洋の誕生日である9月23日に重なる。行け、心のなかでそんな声が響いた、行け、ブチこめ! そして雄洋がドーゲンバズーカの単勝に1万をブチこむ。
 異様なまでに大胆な賭けに出ていたが、意識は至って冷静かつ明晰で、自分でもこの平然さが信じられないでいた。とんでもないことをしでかした人間が、その大事ぶりを時間差で認識し、狂ったような爆笑を繰り広げる、こういった場面を日本のドラマか映画で見た覚えがある。これをぜひやってみたいと思った。だが1分経っても、自分がそこまで凄まじいことをやらかしたという驚愕や焦燥が込みあげない。完全に、脳髄のどこかが破壊されていた。

 ファミリーマートに赴く。ポカリスエット1Lペットボトルを手に取る。横の格納庫には、当然だが無数の酒缶が蠢くゴキブリの軍勢さながらに犇めいていた。美しい。だが雄洋はそこから去り、お菓子コーナーへと歩いていく。それでも後ろ髪を引かれた。酒が呑みたい。先程、酒のせいで凄まじいまでの吐瀉物を放出したにも関わらずだ。そこで味わった筋肉の痙攣や吐き気の加速度的膨張を反芻し、己を御さんとする。ふと気づくと、雄洋は酒の格納庫前にいた。右手でノブを握り、ドアを開き、ストロングゼロ・みかん&伊予柑の缶を持つと、ドアを閉める。次の瞬間には、コンビニの外にいる。ビニール袋にポカリスエットとストロングゼロ・みかん&伊予柑が入っている。袋に金払ったのか? 雄洋には信じられなかったが、どうもそうらしい。
 ポカリスエットを猛烈な勢いで肉体へと雪崩こませながら、雄洋は帰路につく。今になっても賭博における底の抜けた判断を“底の抜けた”ものと実感できないでいる。理論ではそうだ、だが直感としてそうではない。自身の認知能力と世界の間に不可解な乖離が存在することを自覚せざるを得ない。だがそれも結局はどうでもいいといった風に処理できてしまっている、現在のところは。
 雄洋は小さな人だかりを見つけた、少女たちの集団だ。
 寄りたかり、何かを足蹴にしてキャッキャと騒いでいる。不穏な予感がしたが、蹴られている対象はあのドードー人形だった。彼女たちは縄跳びで遊ぶような快活さで、人形をその逞しい足によって蹂躙している。吐き気を催した、だがその種類は明らかに異なっている。
「おい、やめろよ」
 雄洋は少し遠くから、そう声をかける。皆が一瞬、彼の方を見た。しかしすぐに俯くと、人形の蹂躙を再開する。ははは、はっはっは。空気の粒子がその響きのなかでピリピリと爆ぜるのを、雄洋の頬や網膜が感じていた。
「おい、やめろよ!」
 彼は声を荒げながら歩み寄り、少女の1人の肩を右手で掴む。
 彼女の長い黒髪が手に触れた。
 脛の一点に痛みを覚えた。その認識の直後、痛みが濃厚なままに脛全体へと拡散する。我慢できずにバランスが崩れるなか、少女たちが自分の脛を蹴るのに気づいた。
 そして雄洋は地面に倒れる。
 なおも少女たちは彼を蹴る、その両足の脛だけ、膝頭から下、踝よりも上の身体部位を執拗に蹴り続けた。
「痛い、痛い」
 雄洋はそう言うしかなかった。痛かったからだ。
 どれほどの時間が経ったか、少女たちは突然、蜘蛛の子を散らすように、雄洋のもとから離れていく。皆で何かを唄いながら、遠くへと去っていく。
 身体を震わせながら、彼女たちの後ろ姿を見る。長い黒髪の少女、着ている服にはNational Media Girlsと記してある。空は抜けるように青い。
 雄洋はふと横を見る。ボロボロのドードー人形が道に転がっている。だがその眼もまた雄洋を見ていた。急いで立ちあがり、走って家に帰る。

 テレビを見る。阪神マグニフィセントステークスが開催される。合図に合わせ、馬たちが疾走を始める。2番ドーゲンバズーカは出だしで明らかに遅れた。雄洋はストロングゼロ・みかん&伊予柑を飲む。序盤は8番のヨロコビカジュースピンが独走状態であり、そこに1番マンゲツプレジャーと7番パラダイスアレイが喰らいつく。疾走が勢いづきながら、膠着状態は続く。そこで突如6番ジョナサンスクリームズが現れ、トップ争いを撹乱し始め、雄洋はストロングゼロ・みかん&伊予柑を飲む。最後の直線コース、8番と1番と6番が最終戦争を繰り広げる。馬は走る、雄洋はストロングゼロ・みかん&伊予柑を飲む。そこで頭1つ抜けたのが1番マンゲツプレジャーだ。と、いきなり事も無げに2番ドーゲンバズーカがトップに追いつく。あっという間に8番と6番を追い抜き、1番に並ぶ。いわゆるデッドヒートだった。雄洋はストロングゼロ・みかん&伊予柑を飲んでから、またストロングゼロ・みかん&伊予柑を飲む。そしてマンゲツプレジャーから騎手が落下し、後続の馬の蹄で踏み砕かれた。制御を失ったマンゲツプレジャーの足が奇妙な方向へ曲がった。ドーゲンバズーカは悠々とゴールを1位で通過する。
 雄洋はもう1度、ストロングゼロ・みかん&伊予柑を飲んだ。予想は当たった訳だった、素晴らしいことだった。雄洋は携帯を操作し、あるサイトに行った。寄付を必要とする動物愛護団体のリストが掲載されたサイトだった。上から順、機械的に10万円を寄付していく。公益財団法人動物医療研究センター、公益財団法人千葉県動物福祉協会、特定非営利活動法人きみのそばに、公益財団法人アニマル・フューチャー。競馬で獲得した金、今後のための貯金、所持する全ての金を愛護団体に寄付した。雄洋の頭には、少女たちが歌っていた唄が朗々と響きわたる。

税金払ってれば
世界には何をしてもいいのか

社会にだけ責任とって
世界はブッ壊れるにまかせてる

お前らの
ケツぬぐいのため
私たちは
生きてるんじゃない

私たちは
生まれてきたんだ
お前らを
絶滅させるために

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。