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コロナウイルス連作短編その178「全部思い出せないや」

「今回デートしたのは……フランス人だよ!」
 そう野波阿紀が言うと周囲の男性たちが湧きはじめる。お決まりの光景に間宮城星は吐き気を催す。実際に視線は向けていない、声と気配を後ろから感じ取っているだけだ。それでも軽蔑が込みあげるのを抑えられない。
 彼はその“フランス人”とのデートを友人たちに自慢する。“デート相手”でも何らかの名前でもなく、“フランス人”、もしくは“白人”。ここにおいて彼女は人格を持たないただの記号だ。そしてそれを周囲の男たちが羨望の眼差しで見つめる。
 フランス人女性、白人女性は日本人の男にとっては自慢できるトロフィーでしかない。彼女たちをフェティシズムの名の下に消費しているだけでしかない。その事実が星には我慢ならない。
 白人女性としかデートしない、白人女性としかセックスをしない、白人女性としか関係を築かない。阿紀はそんな軽薄な男として悪名高く、それは星が蛇蠍のごとく彼を嫌う理由でもある。暇さえあればフランス人とデートをした、ドイツ人とセックスをした、そんな自慢に明け暮れる。大学の教室どこにいたとて、地下鉄のエアコンさながら粗雑な響を持つ彼の声が聞こえてくる。
 今も正にそうだ。下品な話を隠すつもりがない。むしろそれを教室にいる全員に意地でも聞かせようとしているようで、品性の下劣さには吐き気を催す。
 星は野波阿紀という日本人男性を憎んでいる。そして彼を取り巻く他の日本人男性たちをも憎んでいる。
 それを実感するたびに、右の人差し指の骨が震える。
 
 授業を終えて、彼女は友人たちと大学1階の広間で合流する。
 近くのカフェに行くかなど喋っている際、携帯にメッセージが届く。
 “ケーキいぱい買ってきた。いっしょで食お”
 写真の代わり、文章の末尾に笑顔の絵文字が3つ連続でついている。これだけでも恋人からのメッセージだと分かり、頬が自然と緩まる。
「おっ、もしかしてカノジョからかぁ」
 友人の1人がそう冷やかしてくる。マスク越しにも頬の緩みが分かったらしい。顔中で黄色い悲鳴をあげながら、血が駆けめぐるのが分かる。
 みなに見送られながら星は恋人のもとに急ぐ。
 ソワソワしながら地下鉄の席に腰を埋めている時、何度もメッセージが届く。今度は文章なしで、写真だけだ。ショートケーキ、モンブラン、チーズケーキ、その他多数の名前も知らないケーキの数々。緩んだ頬へと今度はなまあたたかいヨダレが溜まってくる。口許が何ともおかしなことになってると気づかざるをえない。この時ばかりは、マスクに感謝してしまう。
 駅に着いたら急いで電車を降り、改札を風さながらに飛びだして、家に向かう。体力もなければ運動神経もないので、すぐに右の脇腹が痛くなるけども、今やそれすら甘やかだ。それすら世界からの祝福みたいだ。
 周りの風景が色とりどりに輝いている。道行く人々のマスクも極彩色だ。白に、ベージュに、市松模様に。そういえば走る時、脇腹が痛くなるのは、肝臓で横隔膜が上下に引っ張られるからだと、彼女が言ってたが本当だろうか。ああダメだ、考えがあっちこっちへ飛びまわって、もはや収拾がつかない。
 星は自分が人生をどこまでも楽しんでいるとそう思えた。
 人生がとろけていると。

「おかえり!」
 家のドアを開けてそう言ったのは星だ。
「おお、ただいま!」
 玄関で腕を広げながらそう言ったのは彼女の恋人ブレルタ・ゴサルツィだった。この挨拶はブレルタの間違えから始まった、2人だけに通じる呪文のようなものだった。
 ブレルタはハグの準備万端といった風に、どこまでも腕を広げている。だがその誘惑に負けないよう気を強く持ちながら、星は体中に殺菌スプレーを撒き、それから念入りに手を消毒液で洗っていく。
「はぁやぁくぅ」
 小学生さながらぐずるブレルタを無視するのは至難の技だが、それでも星は指の間を特に重点的に洗浄する。そしてその果てにやっと、彼女はブレルタをハグし、マスクをアゴにずらしてキスをする。マスクのごわつきから解放された後の、ブレルタのやわい唇は最高に心地よかった。
「さ、ケーキ食おましょう」
 そう言い残すと脱兎さながら、彼女はリビングへ戻っていく。その後ろ姿が愛しくてしょうがない。
 ブレルタはコソボという東欧の小さな国から来た留学生で、今は東京の大学院で宇宙物理学を学んでいる。国際政治学について学んでいる文系の星とは全く住む世界が違うように思えるが、そういう人物同士を繋げられることこそが、おそらくデーティング・アプリの素晴らしさなのだろう。
 ブレルタのどこが好きか、全てを挙げることなど絶対にできないと星は最初から匙を投げている。それでもあえて挙げるとするなら、宇宙はもちろん科学哲学や貝の生態、現代建築からスニーカーまで何にでも興味を持つその旺盛な好奇心と、それに裏打ちされた知性が好きだ。もしかしたら自分は知性に性的に惹かれるというサピオセクシャルなのかもしれない。しかし実際、最も惹かれるのはその全てを台無しにするような子供っぽさ、それこそケーキにはしゃぎまくる今の無邪気さだ。

 ブレルタを追ってリビングに駆けこんでいくと、ブレルタはもう既に椅子に座ってニヤニヤしている。テーブルにはカラフルなケーキが10個以上並んでいた。
「こんな買ってきたの」
「うん、すっげえお腹空きました」
「お腹空いたんならお弁当とか買いなよ」
「そういうのでは満たせないお腹が空きましたな」
 そう言って表情筋を爆発させるように変顔を浮かべるので、星は思わず吹き出してしまう。
 そしてブレルタと星はいっしょにケーキを食べ始める。
「おいしい、おいしいねえ」
「うん、すっごい、おいしい」
「おいしおいしい」
 2人はしばらく、ただただ“おいしい”としか言わない。だがこれは確かに会話だった。2人の口から、ケーキのかけらとともに現れる“おいしい”の数々は、辞書に載っている類いの意味から解き放たれて、無限の意味を獲得している。
 例えば“今日、大学はどうだった?”
 例えば“うん、今日は楽しかったよ。ゼミとかでなかなかいい議論できたんだ”
 例えば“こっちはビミョー。ワインバーグが書いた量子力学講座の本読んでたんだけど、全然頭に入ってこなくてさあ”
 例えば“私はそんなん体調絶好調でも、理解できないよ”
 そんな感じだ。だから“おいしい”以外には何も言う必要がなかった。
 それでも星はケーキを食べながら、実際にケーキはほとんど見ずに、ブレルタの姿を見つめている。
 東京メトロ銀座線のテーマカラーのような輝く山吹色の髪、角張ったメタルフレームの眼鏡とのギャップがいい円らな茶の瞳、透き通った肌に包まれたしなやかな首筋。
 ブレルタはとても綺麗だった。それは日本人にはない美しさだ。少なくとも星は周りの日本人のなかに見出だすことはできない。彼女といっしょにいると、自分までもが高められているような気分になる……
「何ですかあ」
 ブレルタのそんな不満げな声で、一気に現実へと引き戻される。
「な、何」
「何か観察されているみたい。実験ネズミの気分」
 ドキッとする言葉だが響きは軽薄で、どうということはない冗談としてブレルタは言っているようだった。
「そんなことないよ、何でもないよ」
 星はショートケーキのイチゴを頬張る。かなり酸っぱく、おいしくはない。

 と、電話がかかってくる。携帯に視線を向けると電話の主が母だと気づく。
「あっ、なんか母さんから電話かかってきた」
 この言葉を言う時、何故だか唇の動きがぎこちなくなった。声の響きも機械的なものと思えた。
 そのまま何かに突き動かされるように、星はリビングを出て、そのまま外へと出ていく。
「もしもし、どうしたの」
 さっきよりも少し高い声が喉から発される。
「何かね、昨日だか雹とか降ったでしょ、それで何か心配になっちゃって」
「いや、ウチんところは心配ないよ、別に」
 “別に”に予想以上の重みをかけてしまったことに気づく。
「そう、よかった……今とか、大丈夫?」
 “調子はどう?”とでも聞きたいのだろうか。妙に恩着せがましい響きだ。
「今は彼女の家いるから、うん」
 “後でね”と言いたかったのに“うん”としか言えなかった。
「あのオランダの彼女?」
 その言葉に心臓がささくれだつ。
「いや、あの子はデートしただけだから。恋人は全然別の子」
「どこの子?」
 “どういう子?”ではなく“どこの子?”ね。星は苛立つ。
「コソボの子」
 どうせあなたには分からないだろうけど。
 そう言いたいが、抑える。
 電話を切ってから、星はしばらく部屋の玄関ドアにもたれかかった。さっきまで感じていた幸福をビリビリに破られた気がした。
 しばらく中に戻りたくない。

 夜、暗い部屋にパッと、数えきれないほどの光の点が瞬く。
 今、小さな部屋は果てしのない星空となって、星とブレルタを包みこんでいる。
 そしていっしょのタオルケットにも、星はブレルタと包みこまれている。
 布のモコモコとした感触の奥から、ブレルタの乾いた肌や尖った爪、どこか分からない柔らかな部分が自分の体に触れてくる。それが気持ちよくて浸ってしまう。
 すると頭のうえから、星々がくすくす笑う声が聞こえてくる。なので見上げて鋭い目つきを向けてやると、キャハハと弾けるような笑いを響かせ、どこかへと散っていく。すると今度は横から、ブレルタの、きび砂糖のようなグッと重い甘みの匂いが届いてきて、鼻にじわと広がっていく。
 この甘ったるさはさっき食べたケーキのせいなのか、それとも自分たちの匂いが混ざりあっているからなのか、全然分からない。少なくともいつものブレルタの匂いはカプサイシンさながら刺激的なものだ。だから、おそらくケーキを大量に食べたせいかもしれない。
 何にしろ、どこに顔を向けていいのか分からず、星は嬉しい悲鳴をあげたくなる。そしてブレルタが自分と同じく、この甘ったるい匂いを嗅いでいてほしいとそう思った。
「あれ、milky wayだ。見える?」
 ブレルタが指さす方には、ひときわ長い輝きの流れが見える。
「うん、もうすぐ日本で見られるね」
「来月?」
「そうだよ、7月7日が七夕」
「ふうん」
 そう言いながら、ブレルタがずりずりと近づいてくる。あの甘さがどんどん濃厚になっていく。
「ちょっと英語で雑学を教えてあげましょう」
 そう急に英語を話し始める。前は英国に留学していたからか、格調高い訛りが舌から響いてくる。しかしそれ以上に彼女の英語は重量感があった。これは彼女の母語であるアルバニア語から引き継がれた響きなのだろうか。尋ねたことはまだない。だがそこから紡がれる言葉は、いつだって星の首筋を官能的に撫でてくれる。
「フンコロガシって知ってる?」
 予想外の言葉に、星は床に踞っているのに躓くような感覚を覚えた。そうだ、彼女は焦らすのだってうまい。
「いや、知ってるけどさ。急に何?」
「フンコロガシが夜にエサのウンコを丸めて、自分の場所に運ぼうとする時、自分のエサを狙う仲間からできるだけ遠くに逃げるため、あるものを目印にしながら進んでいくんだって。それが何だか分かる?」
「……天の川ってこと?」
「ご名答!」
 紳士めきながらも、興奮を隠しきれない声の裏返りっぷりに星は苦笑してしまう。
「フンコロガシって遠くまで、遠くまで行くために天の川の光を頼りにして、進んでいくんだよ。何だかそれを聞いた時に、これは詩だなって思ったの」
 ブレルタの言葉は予想がつかない。だからこそ聞いていて楽しい。
「どうして?」
「想像してみてよ。あのどこまでも青い、どこまでも荒れ果てたゾッとするような砂漠。砂の小さな固まりいくつか分しかないフンコロガシが、そんな砂漠を進んでいくんだよ。どれほどの小ささなんだろう。そんな存在の導になってくれるのが、砂漠よりもずっと大きな空に広がる、そんな空よりもずっと大きな星たち、それがさらにさらに集まってできた、もう途方もないくらい巨大な天の川なんだよ。その輝きを導に、フンコロガシは生きていくんだよ。これってもう詩だよね」
「でも……転がしてるのがウンコっていうのがなあ」
 そう星が突っ込むと、ブレルタはぶうと頬を膨らませてみせる。星を真似して、最近彼女もこうして怒りを表現してみせるようになった。それが星は嬉しい。
「このロマンチックさが、何故分からないのだろうか!」
 ブレルタはそう日本語で言った。
「そんなん分かんねーっす」
 星はおちゃらけた勢いそのまま、キスで彼女の唇を塞いでみせる。玄関でしたキスよりも、ずっと甘い。やっぱり甘さは全部ケーキのせいだ。
 そのまま唇をバクバクと食べていると、ブレルタも負けじと貪ってくるので、グルグルと回りながら床へ倒れこんでいく。彼女と溶けあえる、気持ちいい時間が待っている。そう思うと、星は幸せだった。

 翌日も、星はブレルタの部屋にいた。
 ラップトップでずっとNetflixを流しながら、適当にゴロゴロしているのは最高に居心地がいい。これが本当のNetflix & Chillというものらしかった。
 流しているのは配信されたばかりの「ストレンジャー・シングス」シーズン4だ。とはいえ星はシーズン1すらも観たことがないが、ブレルタは番組の大ファンでシーズン4を観るのすら既に2回目らしい。
 当然ストーリーもよく知らないのでただ流し見しているだけだが、視線が何度か惹きつけられる瞬間がある。それはロビンというキャラクターが出てくる場面だ。
 実際ロビンがどういう人物かすら知らないが、彼女を演じるマヤ・ホークについては知っている。あのイーサン・ホークの娘で、モデルとしても活動している美女だ。実を言えば、星のタイプの女性、というかどことなくブレルタに似ているのだ。髪色も違えば、眼鏡もかけてすらいない。それでもどこか大人っぽく、勝ち気で、しかし時おり少女っぽさが溢れでるような佇まいに、視線がとにかく引かれてしまう。
 しかも、これはニュースで読んだから知っているのだが、ロビンはレズビアンらしい。それでは正にブレルタではないか! 密かにブレルタとホークを見比べて、幸福感に浸り、思わずほくそ笑んでしまう。彼女に知られたら、あまりいい顔はされないだろうけども。
 そしてどぎまぎしてしまうのは、シーズン4にロビンが片思いしているらしい少女が現れることだ。ヴィッキーというロビンの高校の同級生がその人だ。恋心は明示されずとも、躊躇いも情熱も何もかも全て宿したロビンの視線が、それを饒舌に語っている。
 映像に現れるレズビアンたちは、何よりも視線で愛を語りたがる。そういう幻想に浸るのもたまには悪くない。
 星の目から見ると、ヴィッキーは垢抜けない、言ってみれば田舎臭さをまとった少女だった。それはおそらく彼女を演じる俳優が前に赤毛のアンを演じていたゆえのイメージを、ここにも見てしまっているからだろう。だがその田舎臭さに、星はむしろ親近感を抱く。
 そして自分がヴィッキーで、ブレルタがロビンである風景を妄想する。同じブラスバンド部に所属して、何も知らずに楽しくドラムを叩いて行進するさなか、ブレルタがそんな自分を熱烈に見つめている。それすらも、自分は知らないでいる……
 と、いきなりドタドタと、ブレルタが横に座ってくるので驚いた。心のなかの妄想が漏れ出していないかとヒヤヒヤする。それでも星はヴィッキーになりきるかのように、女性からの愛に馴れていない田舎の少女さながら、恐る恐るといった風にブレルタへと腕を絡めていく。彼女の腕では、黄金の毛が控えめに輝いている。逆に自分の腕は、かすかに黒みを帯びている。

「お酒のもーぜって来た」
 夕方ごろ、ブレルタが携帯の液晶を見せながら、星に言った。外国人の友人たちからの飲みの誘いらしい。
「星も行こーや、よ」
 語尾を言い直すブレルタがいじましい。
 本当はずっと床でゴロゴロしていたのだが、ブレルタが熱烈に誘ってくるので、重い腰をあげることにする。
 だが地下鉄にいっしょに乗っている時、乗客からの視線を感じる。少なくとも星は感じている。同性カップルゆえに注がれる視線は、もはやどうでもいい。他人など全く気にせずにブレルタに恋人面できるくらいの誇りは持っている。
 問題は自分が外国人と親密であるゆえに注がれる視線だ。その視線は外側からもそうだが、奇妙なことに内側からも感じる。まるで後ろから他者の視線に撃ち抜かれているかのようだ。しかし今は地下鉄の席に座っている。後ろは高速で掻き消えていくトンネルの壁だけが広がっている。物は視線を持たない。
 あちらこちらへ、支離滅裂に星は眼球を動かしながら、視線の主が見つかることはない。心の底ではそれが見つからないと既に知っている。だが眼球が、薬物を注入され強制的に滑車を回り続ける実験ネズミのように動き続ける。
 そうして捉えたのは、外国人の乗客だった。金髪の、目の隅に皺が広がった中年女性。何となくヨーロッパ人ではなくアメリカ人だと思った。根拠はない。横にはさらに背の高い、短髪の白人男性がいる。彼女に比べて、見た目も雰囲気も若い。関係性がよく掴めない。
 だが何にしろ、横に置いている大きな荷物のおかげで、彼女たちが旅行客ということが分かる。そういえば日本への海外旅行が解禁されたというのを、ニュースで聞いた覚えがある。友人が、デーティング・アプリに白人男性の数が増えていたと言ったのは昨日か、おとといか。
 東京のコロナの患者数って一体何人だっけ?
 そう考えるが、数字が全く思い浮かばない。調べようと携帯を操作するが、急に怖くなって検索するのをやめる。
 これは喜ばしいことだ、おそらくそう思うべきなのだろう。旅行が解禁され人の往来が戻るのなら、東京にも日本にも活気が戻る。それは停滞する経済の起爆剤となるのではないか。たまねぎの高さ、電気代の高さ、100円値上がりした近所の屋台の唐揚げの高さ。そういうものも解消される時がすぐに来る。
 そしてブレルタの故郷であるコソボへ旅行できる時もすぐに来るだろう。彼女が勧めるQendra Multimediaという劇場で、コソボ最先端の演劇が見てみたい。今はペーター・ハントケの作品にインスパイアされた演劇が上演中らしい。
 丸ノ内線が新宿二丁目に到着する。横を見るとブレルタが居眠りをしていた。
「ほら起きな、新宿着いたよ」
 ブレルタが寝ぼけ眼をこすっている間に、星が地下鉄から降りていく。それに気づくと彼女も急いで電車を降りる。右肘でその肩を小突いてやる。

 新宿は少しずつ活気が戻っているようだ。もちろんマスクは着けているが、かなりの数の通行人が密集し、喋りながら歩いている人々も多く見掛ける。みなが浮き足立っていると、そんな雰囲気を感じた。それは嬉しいはずなのに、無責任だと思ってしまう自分を抑えられないでいる。
 そして横にいるブレルタも明らかに浮き足立っている。ヨーロッパ人はやはり自由を好むらしい。可愛いという思いを抱きながら、やはり“だけど”という逆接が背後から忍び寄ってくる。
 人が少ない道に入り、ほっと息をつく。解放感がある。
 だが横から何者かがブレルタに話しかけてくる。
「ヘイ・アー・ユー……」
 冒頭だけで聞く気がなくなるほど、惨めで鈍重な日本語訛りの英語。
 一瞬で全てを悟る。この黒いキャップを被っている日本人男性は、この無惨な英語によってブレルタをナンパしにきているわけだ。虫酸が走る。
「ああ、ナンパとかは邪魔です」
 ブレルタが流暢な日本語で拒絶を示す。それでも男は“英語”で何か言ってくるが、もはや意味すら判然としない。だがもう1つ、星に分かることがある。この日本人男性の視界には、日本人女性である自分は全く映っていないということだ。
 その後も完全な無視を決めこんでいると、男は観念して去っていった。不幸中の幸いは“ブス”などの捨て台詞を吐かれることがなかったことだ。ブレルタが日本語を明確に解すと知っていたからだろう。こういう下劣な人間は得てして、傷つけることを許されるだろう人間をしたたかに見極めている。
 ブレルタは特に気にしていないようだったが、星の喉には吐瀉物のような怒りが込みあげている。
 外国人女性をナンパしようとしている馬鹿で、哀れな日本人男性たち。彼らが特に狙うのは、ブレルタのような白人女性なのだろう。何故なら彼女たちは美しく、そしてエロいからだ。今すぐに泥ついた怒りを地面にブチ撒けたいが、ここでは絶対に無理だ。その一方でおそらく彼らは、旅行が解禁されたことで日本にやってきた白人女性たちをナンパし、そのなかの何人かは実際デートかセックスにありつくのだろう。
 ブレルタ、ブレルタ。頭のなかに自分の恋人の名前が響きわたる、不穏に。彼女も先のように何度も何度も股間にウジ虫の湧いた、ゲロ以下のカスで迷惑をかけられるのだろうか。その鼓膜に泥を塗りつけられるのだろうか。
「ねえ星、大丈夫?」
 そんな言葉をかけられて、ハッとする。ブレルタが少し心配げにこっちを見ている。
「あ、ああ……ポー、ウヌ・ヤム・ミル」
 “はい、大丈夫です”を示すアルバニア語、ブレルタから習ったものだ。わざと片言という風に言ってみると、彼女は目を細めて、笑いかけてくる。
 そう、私は大丈夫。大丈夫じゃないのは彼女なんだ。
 前から2人ほど通行人が歩いてくる。片方は、白人女性だ。目も覚めるような赤毛が特徴的で、そこに綺麗な白皙が映えている。横にいるのはシャツを軽快に着こなす男、日本人男性だろう。近づいてくるごとに、彼が英語で女性に話しかけているのが聞こえてくる。粗っぽい響きだが、さっきの男よりは英語の訛りもマシだ。とはいえ内容はナンパでしかない、同じように惨め極まりない。
 だが粗っぽい声が耳へ忍びこみ、鼓膜に強く擦りついた瞬間、その男が野波阿紀だということに気づいた。心臓を鷲掴みにされるような衝撃を覚え、まず最初に思ったのは“早くこの場から離れないと”ということだった。
 しかし、何のために?
 それでも絶対に離れなくてはならない。
 別に何も隠しだてするべきことはない。
 だからこそ逃げなくちゃいけない。
 思惟が明らかに支離滅裂で、収拾がつかない。
 その間にも、星の足は歩いていた。ブレルタといっしょに歩いていた。
 まるで、特に重要な事件など何も起こっていないという風に。
 実際、重要な事件など起こっていないのかもしれない。ただ自身が考えすぎているだけで。
 そう思うとそんな風に思えてきたのだから、不思議だ。
 ブレルタは歩いている。阿紀も歩いている。その横の女性も歩いている。そして星の足も同様だ。
 阿紀は女性をナンパするのに必死で、こっちに特に注意は向けていない。
 そう、ただの考えすぎだったのだと星は思った。そもそも先に何故自分が動揺したのかも定かでない。
 星は歩く。ブレルタはマスクをアゴにずらしてペットボトルのお茶を飲む。阿紀は女性にずっと英語で話しかけている。4人は特にどうということもなくスレ違う。
 それで終わりだ。

 星は酒を飲んだ。どんなものかは忘れた。飲めば全部同じだ。
 周りの人々も全員、酒を飲んでいる。酒ではないかもしれない。飲めば全部同じだった。
 唇にグラスが触れた瞬間、既に喉が焼けるように熱い。そしてグラスにはもはや液体が残されていない。細胞1つ1つが弾けて、そこから黒煙を吐く機関車が猛烈なまでに外界へと駆け抜ける、そんな感覚がある。
「今日、なかなかの飲みっぷりだな」
 誰かが星に英語で話しかけた。誰だか分からない、顔にだけ霧がかかっている。だがその曖昧な層から1つだけ突き抜けているものがある。鼻だ。
「そうだね、そうそう。今日はかなり酒、飲んでるよ。うん、自分でも分かってるよ。自分が酒をかなり飲んでいるということとか、自分が酒にかなり酔っているということが分かってる」
「その饒舌さ、本当に酔ってるね」
 別の人間の英語だった。甲高いから女性だろう。ということは甲高くないと思った前の人間は男ということだろうか。
「いい時間が来てるよ、いい時間っていうものがここにはあって、それがここに来ているということなんだよね。私は悪くない、全然悪くない」
「今、あなたにとってのいい悪いの基準って何?」
「それは、それは神がこの脳髄に来ているかってこと。脳の水が脳の皺を駆け抜けているわけでしょう。その加速がものすごいとしたら、神がこの脳髄に来ているってことなんだよ。この方向性がかなりいいっていうこと。悪いというのは全く逆に、鮫がね、こう、鮫は子宮が2つあってそのなかで卵が孵って赤ちゃんたちが共食いを始めるんですけども……」
「おい、スターがマジで完全に酔ってるぞ、ちょっとブレルタ呼べ!」
 酔っているという明らかなことをわざわざ明言されることに洒落臭さを覚える。別に酔っていることは自覚済みなので、保護者のようにブレルタを呼ばなくとも大丈夫だ。
 星は後ろに倒れこむと、ちょうどソファーがあったのでそこに埋もれるように座った。周りからは様々な訛りの英語が聞こえる。これが英語だということも容易く理解できる。だから何も心配はいらない。
 心配はいらない。

 ふと気づくと、星は大学の教室にいる。
 いつもの風景だが、認識するタイミングがおかしく少し気圧される。
「今回は新宿でストナンしてたんだが」
 紙鑢さながら粗い声の主は、当然阿紀だった。
「セルビア人美女をゲットだよ。最初の反応はつれないもんだったけど、根気強く俺の余裕というものを見せつけてやったら、いっしょに酒飲むことになり、その後は、まあご想像におまかせするよ」
 そんな言葉に取り巻きが湧きあがる。目で確認する必要はない。背中がその下卑た熱を感じている。
「セルビア人ってスラブ人だよなあ。スラブ美女はマジ羨ましいわ」
「スラブ人なら、俺もウクライナ人とかとデートしてえ」
「最近、日本にも避難してきてるやついるからワンチャンあんじゃねえの?」
「それであのTBSのバカ社員の二の舞だな」
 そして爆笑。その後、阿紀が喋りはじめる。
「まあ、日本に住んでるスラブの女は、西欧の女と比べて食事代とか奢らせてくるから気をつけろよ。今回の女もそう、しょせん貧困まみれの土人国家出身なわけよ。でもそういうとこの女が一番キレイなんだよ。奢ったってその後の夜のこと考えりゃお釣りが返ってくるくらいだよ」
 星はもう何も聞きたくない。
「お前らもスラブの女とヤってこうぜ。夏休みは東欧土人国家へナンパ遠征だ!」
 星は教室から、逃げ出すように出ていく。
 そのまま大学の1階まで、阿紀から遠く、相当遠くまで一気呵成に逃げていった。そして入り口付近にある木製のベンチへ腰を落ち着ける。
 ただ静かに全てが過ぎ去るのを待ちたい。
 だが何も考えたくないのに、頭に浮かぶものがある。
 地図だ。小さな点のような日本、そこから広大なユーラシア大陸を抜けた先のヨーロッパ大陸。そしてその東側こそが、東欧だ。
 西欧の東側に位置する場所。
 押しつけられた貧困と情勢不安に翻弄される場所。
 度重なる紛争と戦争に疲弊していく場所。
 西欧によるオリエンタリズムを最も近くで喰らわされる場所。
 よりよい未来を求める人々に捨てられていく場所。
 ヨーロッパ中で性的に搾取され肉体を踏みにじられる女たちの生まれた場所。
 コソボが位置する場所。
 ブレルタの故郷。
 頭に浮かんでは消えていくその全てを、星にはどう処理すればいいのか分からない。

「よおよお」
 星の隣に座ったのは、阿紀だった。
「おい、そんな睨みつけんなよ」
 阿紀はヘラヘラしながら、そう言った。その言葉で初めて自分の眼球の周りの筋肉が凄まじく緊張していることに気づいた。
「俺がナンパしてる時、お前とスレ違ったよな」
 “用件は何?”と尋ねる間もなしに、一瞬で心臓へと刃を突き立てられた。
「俺たち、どっちとも白人女性といっしょだったなあ」
 星は何も言えない。
「あれ、お前の恋人だろ。一発で分かったよ、雰囲気からして仲よさげだったしさ」
 星は笑いたくなったが、口からは何も出てこない。
「お前、俺の悪口言いふらしまくってるだろ。白人女性だけを狙ってる差別主義のブタだとか何とか。まあ間違ってないから、どうでもいいけど。それでもお前が俺を目の敵にしてる意味がやっと分かった。同族嫌悪ってことか」
 ピシッと薄氷がひび割れるような音が聞こえた。
「いや、俺には分かるよ。お前も俺と同じく、過去にデートした相手に関しちゃ、名前は覚えてないが国籍は覚えてるってタイプの人間だ、そうだろ」
「いきなり」
 “……話しかけてきたと思ったら、私のこと分かったような口叩いてきて、何様なんだよ”と、続かない。ただ“いきなり”で止まって、その後には何も言えなかった。
「首ってそういう風にも震えるんだな、初めて見たよ」
 阿紀がそう言った。
「確信が……深まったよ。お前は俺と同じ人間だ、白人が大好きな人間、白人にしか性的に興奮しない人間、白人の美至上主義者。だけど俺と違うのは、お前はそういう自分を毛嫌いして自己否定して、それで生まれる吐き気を同族にこそ向けてるってことだよ」
 阿紀がそう言った。
「お前はレズビアンっていうか、女性を愛する女性ってことに後ろめたさはないように見える。いやこれは良いことだよ。本来後ろめたさなんか感じる必要はないから、もちろん良いことなんだ。だけどこう思ってないか。レズビアンである、女性として女性が好きってことは“向く”って意味での性的指向で、白人が好きってことは嗜みという意味での性的嗜好だって。この指向と嗜好は同じ響きだが全然違って、生まれながらに備わった前者は後天的に備わった後者より貴く、優先されるべきだ。もっと言えば後者は前者に劣ってるから蔑ろにしてもいい、テキトーに扱ってもいいってさ」
 星は何も言えない。
「だが、好きって感情に序列をつけるっていうのは危ういと俺は思うんだよ。嗜みの嗜好が向きの指向より軽いものってわけじゃない、時には嗜みの方が重要になるってことがきっとある。でも、最近は好きな身体的特徴みたいなのを大っぴらに言うことすら差別とか言われるようになっちゃってるだろ。“好きなタイプ”ってのはもはやタブーだよ。今は向き偏重の時代なんだ、嗜みが抑圧される時代だ。アイデンティティ・ポリティクスの副産物だろ、これ」
 阿紀がそう言った。
「というか、自分の好きって感情を否定するって何においてもヤバいだろ。それがいつかひっくり返って他人への攻撃性や憎しみに変わるなんてありがちだ。だから向きと同じく嗜好もありのまま受け入れていかないと、絶対にどっかでガタがくるんだ。自分ってものが崩れ去るって時がきっと来るよ」
 星は何も言えない。
「まあ、でもレズビアンはルッキズムヤバいってよく聞くし、白人大好きなんて公言してるやつも多いのかもな。そんな環境でお前は例外的存在として良心ってツラしてんのかもな。だがルッキズム上等だろ。俺は白人女が大好きだよ。白人の真っ白い肌が好きだ、白人の劣化の早い綺麗な髪が好きだ、白人のキッツい体臭が好きだ、白人のデカいおっぱいにデカいケツが好きだ、白人のビッチョビチョなおまんこが好きだ、白人の肉体の全部が好きだ。白人は美しいから大好きなんだよ、俺。もうたまらねえんだよ、本当。お前も俺と同じだろ、なあ、白人女が好きで好きでしょうがないんだよ。なら、自分が白人女が好きって認めた方がいい、己の嗜好をありのまま受け入れろよ。白人女が好きだから白人女としかデートしてこなかったし、恋人も今まで白人女しかいなかったです、今の恋人も白人女ですってカミングアウトしてみろよ。自分は白人フェチですって。レズビアンってのをカミングアウトする勇気はあるんだ、白人フェチだって行けるさ。1回全部吐き出せば、楽になる」

「星、大丈夫?」
 声がした。ブレルタの声だ。目にも彼女の顔が映る、薄ぼやけているが。
「飲みすぎ、飲みすぎですよ」
 そう言われた後、星は抱きしめられた。ブレルタの体は柔らかく、しなやかで、包まれていると気持ちがよかった。匂いも、ゾクゾクするほど刺激的だった。
「ねえ大丈夫? 水とかいりますか」
 口から掠れた息を吐きながら、星が少し上を見ると、立ったままで自分を見ている人々がいるのに気づく。全員、顔に見覚えがある。
 ああ、彼女、ブレルタの前にデートした子だ、隈研吾の建物見に行ったんだっけ、カナダから日本に建築学びにきた建築家の子だっけ、名前、名前忘れちゃったな、あの子とはヴィーガンバーガーとか食べたな、デンマークから旅行に来た子、名前なんだっけ、あの子はベラルーシの子、いや、ウクライナの子だっけ、それであの子はシェアハウスでイチャイチャしたフランスの子で名前は……あ、うわ、キスまでして、結構好きだったのに何でかその先まで行かなかった子もいるよ、えっと、名前、名前、オランダの子なんだけど、何だっけ、どうしよ、はは、全然思い出せない、本当、何にも覚えてない、全部思い出せないや、

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。