コロナウイルス連作短編その27「おかえりなさい、映画館」

 あのクソアマ、マノエル・ド・オリヴェイラのこと、無価値な間抜け野郎って言いやがった!
 鈴木顕は爆発的な怒りを抱えながら、自転車で道を駆けぬける。
 怒りのきっかけはやはり相渡萌香だった。彼は高校の映画部に所属しており、萌香はそこの部長をしているのだが、放課後、彼女はいつも通り部員たちに向かって自身の知識をひけらかしていた。コロナウイルスにも関わらず、彼女の周りにはたくさんの追従者がいた。
「オリヴェイラ、モンテイロ、ペドロ・コスタ、ミゲル・ゴメス。全員ゴミでしょ。今までポルトガル映画が素晴らしかったことなんか一回も無いから。ヴィトル・ゴンサルヴェスの『ある夏の少女』とか、ペドロ・ネヴェス・マルケスの『ひと噛み』みたいな数少ない例外を除いてね。特にマノエル・ド・オリヴェイラの過大評価っぷりとか笑っちゃう。無価値な間抜け野郎以外の何者でもないからね、マジで。ポルトガルの映画批評家は『繻子の靴』をポルトガル映画史の傑作に数えてるらしいけど、揃いも揃って脳髄に蛆でも湧いてんじゃねえの。同じポール・クローデル原作なら、ポール・キュニーの『マリアへのお告げ』の方が圧倒的な傑作。あれは本物の狂人にしか作れない映画だよね。それに比べれば『繻子の靴』は金魚のクソみたいに長ったらしいだけの駄作。それに最近のポルトガル映画なんて本当に吐き気を催すくらいひどい。ペドロ・カベレイラの『堕ちた夏』とか、カタリナ・ヴァスコンセロスの『鳥たちの変身』に、レオノール・テレーズの『自由なる大地』ね。もうね、溝に流れる泥水眺めてた方がマシ」
 顕はいつもながら堂々と罵詈雑言を吐き散らかす萌香に嫌悪感を抱いた。だが彼女が挙げる映画を一本も観たこともないこともまた事実であり、それが顕をさらに苛つかせる。
「ねえ、今世界で一番ダサい映画監督四天王知ってる? ルカ・グァダニーノ、ギョーム・ブラック、ミゲル・ゴメス、それからアルベール・セラ。グァダニーノは単純にダサすぎるだけだからまだ全然マシ。だけどギョーム・ブラックは価値観の古さにマジで呆れ果てるわ。ロメールの模倣に気を使いすぎて、脳髄どっかに置いてきたのって感じ。ミゲル・ゴメスはまあ極度のシネフィルなのは分かるけど、ショットが映画史の剽窃でしかない。映画史という名の権威の奴隷、お偉いさんのケツ舐め野郎なんだよね。最悪なのはアルベール・セラ。社会から逃走して象牙の塔で作ったような、観る者の脳髄を退化させる、自己批判の欠片もない作品しか作れない映画監督。私はさ、芸術はすべからくオナニーであると思うんだよね。だから"俺の精子でこの社会を全てブッ壊してやる!" "私のバルトリン腺液でノアの大洪水起こしてやる!"くらいの気概が必要だと思うんだけど、アルベール・セラは自分の顔に射精して、ヘラヘラ笑っているような自己反省のなさが痛い。間違いなく今一番ダサいでしょ。でさ、カイエ・デュ・シネマの編集者が今度変わるじゃん? でもブリュノ・デュモン好きだけどアルベール・セラはそんなにってダサい映画批評家から、ブリュノ・デュモン嫌いだけどアルベール・セラは好きってダサい映画批評家に変わる訳でしょ。下らねえ。むしろ価値観の退化をカッコいい逆張りと勘違いしてるクソダサい奴らに変わるなら悪化だわ」
 そう言うと、周りの部員たちは爆笑した。顕も笑ったが、内心は彼女の顔に唾を吐きかけていた。
 学校が終わった後、彼は急いで近くのショッピングモールへと走った。何故ならコロナウイルスのせいで閉まっていた映画館が、今日からオープンになるからだ。実に三ヶ月ぶりに映画館で映画を観ることができる。その喜びをいち早く噛みしめたかった。しかし来るのが早すぎて、彼はロビーで待たざるを得なくなる。ソファーに座っていると、萌香への怒りが沸々と湧いてくる。あんな生意気な物言いをする女子に自分が映画の知識で負けていると考えると、心臓が爆発しかける。彼は小さな頃から映画好きの父親とともに様々な映画を観てきた。最初はチャップリン作品などのコメディ映画や『ダイハード』などのアクション作品、そのうち成長するにつれて、彼は例えばR・W・ファスビンダー(彼にとってのベスト作品は『ホワイティ』と『八時間は一日にあらず』だった)、アッバス・キアロスタミ(彼は『友だちの家はどこ?』と『シーリーン』が好きだった)などの文芸映画をよく観るようになった。だが特に彼が魅了されたのは父がオススメしてくれたマノエル・ド・オリヴェイラだった。彼の作品は膨大な量があるため全て観ることなどは叶わないが、観られる作品は何とか全部観た。『アニキ・ボボ』や『ノン、あるいは支配の虚しい栄光』『アブラハム渓谷』『ブロンド少女は過激に美しく』などの作品は顕の血に鮮やかに流れている。彼はオリヴェイラ作品の崇高さ、そして神々しいまでの滑稽さを崇拝していた。だからこそ萌香の無思慮な罵倒の数々は、顕の骨は真っ赤に染めた。
 だが映画が始まるというアナウンスが彼を落ち着かせてくれる。顕は喜び勇んで、スクリーンへと入っていく。彼はまず銀幕のその大きさに心踊らされた。これこそが見たかった景色だと歓喜の渦に湧いた。そして胸を撫でながら、席に座る。ふかふかの椅子は彼の心を優しく抱きとめてくれる。顕はまるで子宮のなかにいるような感覚を味わった。辺りを見渡すが、客は顕一人だけのようだった。そして興奮のおかげであっという間に時間は過ぎ、部屋は暗くなる。この果てしなく黒い闇も最高だった。まず最初に流れる映画とは全く関係のないコマーシャル、これにはいつも通り辟易させられたが、これも映画を観る時の醍醐味だと苦笑する。そして次には具にもつかない邦画の予告編の数々、これにも飽き飽きさせられたが、この飽きが逆に懐かしかった。そして洋画の予告編が始まる頃、誰かが入ってきた。二人で入ってきた故に、彼らはカップルかもしれないと思う。顕の劣等感が刺激された。
 そして本編が始まる。今作は米インディー映画界の巨匠によるゾンビ映画だった。彼はこの監督の奇妙なセンスに心酔していたので、今作にも期待していた。監督の作家性は健在でありながらも、同時にゾンビ映画としての面白味も存在していて、顕の心には多幸感が広がる。だが彼の視界の脇で動くものがある。先のカップルがモゾモゾと蠢いているのだ。その芋虫のような不愉快な蠢きに顕は苛つかされる。せっかく肉片が弾けながら、彼らの存在は顕の心を逸らしてしまう。顕は彼らの暴走が止まることを祈ったが、カップルの行動はエスカレートしていった。動きは徐々に艶かしくなっていき、官能的な雰囲気が彼らの影から立ち現れる。顕は粘った涎が口の奥から込みあげてくるのに気づいた。そして長い髪を持つ影がゆらゆらと揺れはじめる。最初は理解できなかったが、彼は電撃を頭蓋骨に喰らうかのようにそれが何かを理解した。長い髪を持つ女性が男性の上で腰を振っている、つまりはセックスをしているのだ。顕は映画館でセックスする人間を初めて観たので、度肝を抜かれた。そしてしばらく呆然とした後、憤怒が彼の身体を包みこむ。目の前で繰り広げられる崇高な映画というものが、彼らの下卑た行為によって汚されたと感じたからだ。だが映画の音響の間隙を縫って、女性の喘ぎ声が聞こえてきた時、顕はもうどうしていいか分からなくなった。怒りは湧きながらも、同時に彼のぺニスは勃起していた。顕はスクリーンではなく、自分の股間を見つめ、そして涙を流した。涙が止まらなくなった。闇はさらに濃厚なものになった。
 顕は突然立ちあがり、カップルの元に走っていき、叫んだ。
「映画館でセックスしてんじゃねえよ、ボケ!」
 カップルは驚いて、顕の方を見る。スクリーンからの灯りで彼らから影を取りはらう。男の上で腰をぎこちなく振っているのは萌香だった。彼女の顔には驚愕の表情が浮かんでいたが、腰はずっと動いていた。顕は泣きながら萌香の頬を殴り、映画館から走り去る。そして近くのDVDショップへ辿りつくと、意味不明な言葉を喚きながら映画のソフトを破壊しはじめた。顕は荒れ狂う嵐そのものであり、猛烈な勢いで店内にあるソフトを破壊しつづける。そのうち店員がやってきて彼を止めようとするが、顕は構わずに破壊行為を続行した。それでもいつか力尽きる時はやってきて、最後には顕は蛇の脱け殻のように引きずられ、店の裏側まで連れていかれる。
「なあ、何であんなことしたんだ?」
 店員は二十代前半に見えた。金髪の根本の黒さが妙に印象的だった。顕は沈黙していた。店員は彼を見つめながら、辛抱強く待った。ある時から顕はことの顛末について喋りはじめる。店員は怒りを見せることなく、ゆっくりと何度も頷いた。そして顕が全てを話し終わった後、店員は笑顔を見せる。
「そのバカ女を見返してやる方法を教えてやるよ」
 顕の顔は驚きで明るくなる。
「まずFacebookからバカ女の写真を取ってくるんだ。それからその写真を印刷する。写真は拡大した方がいいと思うな。そして紙に載った写真と向かいあって、チンポを出す。それで怒りとともにしごきまくるんだ。しごいて、しごいて、しごいて、最後射精する時に、そのバカ女の顔に精子ブチ撒けてやるんだよ。お前の精子でバカ女はもうぐっちゃぐっちゃだよ。最高だろ。お前がその女をブッ壊してやるんだよ。実際にレイプするのはヤバいけど、これなら神様も許してくれるだろ」
 顕はその提案にしばし言葉を失う。しかし映画館のなかで、怒りを抱きながら勃起した時のことを思いだす。あの時の怒りを頭のなかで再生すると、自然とぺニスも勃起していくのが分かった。
「やってやる!」
「そうだ、バカ女を見返してやれ!」
「やってやる!」
「やってやれ!」
「あのバカ女に精子ブチ撒けてやる!」
 そして店員に背中を押されて、顕は再び走りだした。

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