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コロナウイルス連作短編その126「彼、彼女、ユ」

 尾灯マアヤは恋人のマルギタ・グロゼヴァと共にくら寿司に行く。久しぶりに来たが、いつの間に席への応対すら無人レジによるものとなっている。人数を打つとレジから席番号の書かれたレシートが出てくるので、取ると、紙質がツルツルしすぎて、気味が悪い。
「すっげ。ブルガリアこんなんないよ、たぶん」
 マルギタが日本語で感嘆の声をあげる。
「コロナだし、ブルガリアもこういうの出来てるかもよ」
「まさか、ITとかこういう技術、ブルガリアってルーマニアとかに負けてるから、まだまだだろと思うよねえ」
 席につくやいなや、マルギタはレーンから焼きはらすを取る。手つきの速さはまるで鷲だ。
「塩、塩なくなってんだけど」
「ああ、確かに……あ、流れてきたの塩じゃない?」
 塩の入った小さな袋、こんもりと積もって皿のうえに載せられている。マルギタは3つも袋を取った。
「塩分過多で死ぬよ」
「死なねえ、死なねえ、ほぼ死なねえって」
 マルギタは脂まみれの焼きハラスに塩をドバッとかけて、箸で2貫をまとめて掴んで、大きな口にブッこむ。唇を閉じて、噛み締めるように寿司を味わう。
「おいひいね」
 そうマルギタが可愛くてしょうがない。マアヤは取り敢えずイクラとえんがわを2貫ずつ頼んだ後、タブレットでキリル文字の勉強を始める。マルギタはブルガリア人だ、なので彼女の母語でも会話したいので、今はブルガリア語を勉強している。しかしまず文字を覚える時点で躓いた。ブルガリア語は学生時代にイヤというほど学ばされたアルファベット、ではなくキリル文字、つまりロシア語と同じ文字だ。アルファベットを強制的に脳髄に刻みつけられたマアヤは、ブルガリア語で使うキリル文字30個と直面した時、思わず眉を潜めた。アルファベットと頗る似ているのに、読みが全く違うものが多くあったからだ。まず“и”は“N”と見紛うほどだが、読みはナ行でなくイである。これに似たものに“й”があるが、こちらは小さい方の“ィ”だ。さらに“н”は“H”と全く一緒だが読みはハ行でなくナ行、“с”はモロに“c”だが読みはカ行でなくサ行、極めつけとして“р”は明らかに“p”なのにパ行でなく“r”の方のラ行なのだ。こういうものが全く覚えがたい。そしてキリル文字特有の“ж”(ジャ行)や“ф”(ファ行)、“ч”(チャ行)も、生来の形の暗記できなさのせいで、覚えるのに苦労している。そもそも漢字を覚えるのが凄まじく苦手なマアヤは、ここで相当に苦労させられていた。
「寿司喰ってる時も勉強するの? 偉いねえ」
 そうニヤニヤするマルギタはマアヤとは逆の文字フェチというべき人物だった。ひらがなやカタカナは容易に覚え、漢字すらも貪欲に吸収していくセンスと好奇心がある。マアヤが知らない漢字も相当数覚えている。例えば鰡、例えば黏。そもそも彼女が日本に興味を抱いたきっかけが、習字だった。高校時代、学校にやってきた女性が、その小さな体躯から想像もつかない、力強い、奔流さながらの文字を墨で書き、これに一目惚れしたのだという。後々、その字が“любов”を示す言葉、つまり“愛”だと知ったのは後のことだ。そして兵庫県に留学した後、マルギタは書道を始め、荒れ狂う波濤さながら墨で日本の文字を書きまくった。“こんにちは”、“マルギタ”、“おなら”、“独身”、“遅刻”、“爆発”、そして“尾灯マアヤ”と。マルギタが好きな書道家は白井晟一という人物だった。その字の数々は大胆なまでに太いのに、形は日本刀さながらに鋭敏で、圧力と切れ味の両方を感じさせる。彼に影響を受けたマルギタの字も、そんな相反する要素を兼ね備える美しい文字だった。マアヤが彼女と出会えたのは、彼女の書の師が父である尾灯金森だったからだ。初めてその字を見た時、唇から息が漏れでるのを鮮やかに感じるほど、魅了された。ただ一言、綺麗だと思った。マアヤ自身の字は汚かった。金森は放任主義で、自身の跡を受け継ぐようには少しも強制せず、マアヤに好きなことを好きなだけやらせた。その結果、友人から“達筆で読めない(笑)”と呼ばれるほどの汚さに恵まれることとなった。“読めればいい”というスタンスゆえにこの汚さはどうとも思っていないが、その無頓着をも越えてマルギタの字には見とれてしまった。それはマルギタ自身への一目惚れでもあった。

 マルギタは12皿、マアヤは9皿の寿司を平らげた後、食事を終える。もはや会計も無人レジで行うことになっていた。マルギタがキャッキャと騒ぎながらお金を入れ、レシートやお釣りを受けとる。やはり可愛い。
 外は少し曇っているが、涼しさはマアヤの肌にちょうどよく馴染む。マアヤは秋が一番好きな季節だった。紅葉、食べ物の美味しさ、控えめな空の色。だが何よりも寒さと暖かさの狭間の安らかさが好きだ。その意味で春もちょうどいい温度ではあるが、花粉が殺人的なのが悍ましい。花粉に顔中の粘膜を蹂躙する感覚には、いつまで経っても慣れやしない。だから実は夏や冬よりもきらいだった。
 マルギタはマアヤの常に前を行き、町の風景を存分に楽しんでいる。彼女は何よりも町を見るのが好きだった。町の至るところに散らばる看板や標識、そこに溢れる文字とそのフォントを観察するのを彼女はいつだって楽しんでいる。くら寿司から家までの道は幾度となく通った道だ。しかしその見慣れた風景にまた新しい魅力を見いだして、感嘆の声をあげる。例えば交番の2階部分に大きく書かれた“KOBAN”という黒い文字、例えばケーズデンキのKとSが合体したような、おおらかなロゴマーク、例えば寺の和尚が墨で書いたらしい達筆の標語。それらを見ている時、マルギタの瞳は星々が瞬く夜の空みたいだ。
「ねえ、競争しよ」
 そんな輝く瞳をこちらに向けて、マルギタが言った。
「お腹タプタプで走れんし」
「老人みてえ」
 マルギタはタヌキのようにお腹を叩く。それからマアヤのお腹も叩く。
「走らんからね」
「えー」
 マアヤはマルギタと手を繋いで、走らずに歩いていく。
 家に帰った後、本を読む。午後の緩んだ時空間のなかで、適当に作ったコーヒーを飲みながら読書をするのは至福だ。読んでいるのはイ・ランの新刊エッセイ『話し足りなかった日』だ。SSW、映像作家、小説家、エッセイスト。マアヤはそんなジャンルを横断する芸術家であるゆえの多彩な作品が好きで、製作したものは何でも見たり聞いたりしていた。そして待望の新作エッセイ『話し足りなかった日』はいつにも増してお金の話が頻繁に現れるので、世知辛い思いになる。マアヤ自身、今はスーパーでのアルバイトとフリーランスの映像編集の仕事で生計を立てているが、危うく保たれている均衡がいつ崩れるか分からずヒヤヒヤしながら、脱却の仕方が全く分からない。その意味でお金について苦労せざるを得ない様には胃がキリキリした。だけどもそれ以上に、彼女が正しさや感情といった、答えなど簡単に出ない問題に対して、葛藤しながらそれでも考え続けようとする姿には勇気をもらえる。
 そんな中で、マアヤはある違和感を抱いた。エッセイには多くの女性たちが登場するのだが、彼女たちが何故か“彼”で表現されているように見えた。なので実際は男性なのかと思うのだが、やはり女性らしい。違和感を覚えながら、本をペラペラと捲っているとこんな文言が目に入る。
 “本書では、 「彼女」 という三人称を用いず、性別を問わず「彼」という言葉を使っています。 性差表現を取り払いたいという著者の意図を伝えるため、原文表記 「그」 をそのまま訳出しました”
 これを発見した時、驚いた。韓国にはノンバイナリーを形容できる人称代名詞があったのかと。
 マアヤはノンバイナリーを自認しているが、誰かに自分を読んでもらう時の三人称代名詞の中で、しっくり来るものが日本語にないことに不満を抱いている。“彼”もしくは“彼女”という二大代名詞は完全にバイナリー的で、他にも“このかた”に“そのかた”に“あのかた”に“こいつ”に“そいつ”に“あいつ”と、三人称は一応豊富に存在しながら、どれも良いとは思えない。おそらくイ・ランも訳者も同じ状況に陥り、やむなく“彼”という訳語を“그”に当てたのだろう。だが明らかにその良さを殺してしまっていると思えた。これを目にしたら否応なく男性というジェンダーのイメージが頭に思い浮かんでしまう(それは男性も女性も、もしかするとノンバイナリーも含まれる集団が、日本語のお決まりそのまま“彼ら”と呼称され、否応なく男性だけの同質集団が思い浮かぶのと同じだ)
 ではどういう言葉がいいのか? 海外に目を向けていると、英語圏のノンバイナリーは“they/them”という代名詞を使うが、マアヤはその響きが好きではない。カタカナの“ゼ”とは違う、舌を前歯の下に添えて、息をその隙間から放出しながら発音する“the”は、何だかめっちゃ疲れて荒れた息遣いを彷彿とさせる。昔、小学校でやらされたシャトルランを思いだして、いやな気分になる。さらにこの前、英語文学の翻訳者がこのノンバイナリー代名詞としての“they/them”の翻訳案として“彼の人”というのを提案していたが、これもしっくりこない。というのも25年間生きてきて“彼”およびその読みである“か”がバイナリー思考の権化に感じられるようになり、これを使う言葉は信用できなくなっている。
 そこでブルガリア語に目を向けてみる。ブルガリアの三人称代名詞はтой(トイ)、тя(テャ)、то(ト)と3つある。тойは“彼”、тяは“彼女”、тоは“それ”を示している。だがこれらにはもう1つの役割がある。ブルガリア語の名詞には性別が存在するのだ。男性、女性、そして中性である。先述の代名詞は順番にこの名詞をも意味するものとして使われる訳だが、つまりтоはある種のジェンダーニュートラルと言えるかもしれないのだ。しかし実際には人間を指して使われる場面は殆どないようだし、マルギタのブルガリア語におけるノンバイナリー三人称について聞いても「いや、分かんない」としか言わない。そしてうやむやになるのだった。
 と、マルギタが後ろから抱きついてきて、首筋にキスの嵐を荒ばせる。
「んー、何これ」
 彼女は先の人称にまつわる文言を指さしたので、マアヤは性差から隔たった韓国語の三人称代名詞“그”について、そしてこれを形容できる言葉が日本語には存在しないことを説明する。
「ふうん」
 そう言いながら、彼女はその字をマアヤの後ろから見つめ続ける。
「なんかさ、この字、カタカナの“ユ”に似てない?」
 その言葉に促され、マアヤは“그”を再び見据える。確かに似ていると言えば、似ているかもしれない。
「日本語の訳、“ユ”でよくない?」
「いやいや、それはテキトーすぎ」
「あえてですよ、あえて。あー、日本語でうまく説明できなさそだから、英語で言っていい?」
 そう断りを入れて、マルギタは話し始める。
「それって“彼”や“彼女”ではない、性別を問わない3人称なんだよね。で、日本語には訳が存在しない。じゃあさ、日本の既存語彙からあえて離れて、“그”に形が似ている“ユ”でいいのではとかふと思ったんだよ。意味や発音といった文脈とはさ、全く別の場所から響いてくる、純粋に造形的な親和性からの連想ってことかな」
 マルギタは思索するように天井に視線を向ける。
「もしかしたらカタカナの“コ”でもいいね。でもやっぱ“ユ”かな」
 彼女は日本語でそう付け加えた。

 マルギタが昼寝をする最中、マアヤはブルガリア語の勉強をする。今は字でなく、文法の勉強をしている。動詞の変化を練習問題で復習する。いちいちキリル文字を確認しながらでないと文が書けないのがもどかしい。
 Тя вечеря вкъщи (彼女は家で夕食をする)
 Тои е на телефона (彼は電話に出ている)
 Тои знае много песни (彼は多くの歌を知っている)
 そしてノートに自分で書いたキリル文字をしばらく見ている。マルギタに比べるとやっぱり汚い字だと思った。土のなかでのたくり回るミミズのようだ。そこでふとマルギタが言った“ユ”を思いだし、何気なくそれを書いてみる。ユ、ユ、ユ。彼、彼女、ユ。そしてブルガリア語の翻訳を自分で書き換えてみる。
 ユは家で夕食をとっている
 ユは電話をかけている
 ユは歌をたくさん知っている
 またしばらく眺めてみる。
「変なの」
 マアヤは思った。でも良いっていう訳ではないが、悪くもないと思える。こんなにカタカナの“ユ”について考えるのは、おそらく幼稚園小学校以来ではないか。いや、その時よりも深く“ユ”について思索しているとマアヤには思えた。するとノートに浮かぶ自分の字すらも悪いものじゃなく思えてくる。ミミズみたいかもしれないが、ミミズは土壌を豊かにして、土のなかの生態を支える立派な役割を果たしているではないか。そう考えれば“그”も“ユ”も、一度地表に出てきたミミズが、また仕事をするため土へと、頭から果敢に飛びこんでいく姿にも見えてくる。何だかミミズが誇らしく思えたし、そういうミミズみたいに自分もやっていこうと思える。そういう訳で、ユはブルガリア語の勉強を再開するんだった。


私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。