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コロナウイルス連作短編その180「マインドフルネスの使徒」

 水巻舜一はゲーミングチェアに座り、マインドフルネスの用意をする。
 まず、剥き出しになった足の裏を床につける、皮膚に満ちる毛穴がすべて窒息するように、爪先から踵までベッタリと。それを盤石な支えとして、己の足首から脛にかけてを垂直に伸ばしていく。肉の内に通る骨を強く意識するなら、脛はピシと滑らかに伸びる。そうして脛と膝は90度綺麗に曲がるようにする必要がある、厳格な直角こそが望ましい。
 そうするなら太股の裏側は自然と椅子にベッタリとつく、足の裏と床の関係性と同じだ。こうして太股と腰が描く角度も同じく90度になる。背筋は自然にピンと伸びて、上半身ごと天井を目指すことになる。そしてここにおいて重要なのは骨盤を立てることだ。そうしなければだんだんと腰が怠惰に曲がってしまう。
 足と脛の90度、脛と太股の90度、太股と上半身の90度。
 この直角の連鎖が続いている状態で、舜一はゆるく拳を作った手を膝に添えながら、やっとのことで呼吸を始める。まず鼻から息を吸う。鼻穴はピクピクと震える、二股に別れた空気の条が喉を通過していく、そして肺が酸素で満たされていく。この感覚をどこまでも楽しもうとする。
 10秒数えた後、全てを絞りだすように今度は口から息を吐き出していく。肺ばかりか全身に溜まっていた毒素がこのひと吐きによって外へブチ撒けられていくような感覚はまったく清々しい。
 呼吸を繰り返すなかで次に意識を向けるのは腹筋だった。舜一は息を吸う時も吐く時も、常に腹筋に力を入れ続け、腹部が膨らんだり萎んだりしないようにしている。それは常に一定の腹圧を腹部へとかけているということだ。こうして腹筋を律していると、細胞の1つ1つがプルプルと震撼し始める。それが堪らない。
 このような呼吸を続けていると、舜一は自身の意識がニュートラルになっていく感覚を味わう。外界も内面も存在せず、過去も未来も存在せず、ただ流れるがままの現在だけがそこにある、そんな感覚だ。こうして舜一とその意識は、日々の猥雑から逃れることができる。 

 彼がマインドフルネスとその呼吸法を実践するきっかけは、多くの人々と同じく俗的な理由からだった。
 舜一は筆祇麻衣という女性に出会った。
 そこで舜一は筆祇麻衣という女性と会話をし、魅力的な人だと思った。
 さらに舜一は筆祇麻衣という女性と何度も顔を合わせるうち、自身の心が彼女に惹かれていることを意識した。
 後に舜一は筆祇麻衣という女性と何度かデートをし、これらを心から楽しむこととなる。
 だが舜一は筆祇麻衣という女性にメッセージを送っても無視されるという状況にある。
 今、麻衣のことを考えるまいとしても、気づいた時には彼女について考えている。メッセージが無視されている理由を考察しながらも真相は当然ハッキリとすることがない。思考は無駄と分かりながら、気づけばやはり麻衣のことを思っている。
 好きな女性ができた際にこういった堂々巡りの状態に陥ったことは何度もある。執着、情念、不安、これらの感情は腐れ縁の顔見知りと化している。大人になるにつれ彼らとのうまい付き合い方を自然と学べると高を括りながら、むしろ逆により惨めな形で翻弄されている自分がいるのに愕然とする。何故メッセージが返ってこないか考えるたび、脳髄から精液のようの生ぬるい粘液が滲み始めるのを、頭蓋の内側で感じるのだ。
 マインドフルネス、馬鹿げた横文字、欧米から逆輸入された東洋思想(笑)。
 舜一にはそんな認識しかなかったが、藁にもすがる思いでマインドフルネスの呼吸法についてのYoutube動画を観て、それを実践すると効果は想像以上のものだった。呼吸と呼吸を行う肉体へのみ意識を向けることで、筆祇麻衣という存在からは意識を逸らすことができる。
 今を生きるという状態が可能となる。
 もちろん、呼吸のさなかのふとした瞬間、彼女のことが思い浮かぶこともある。だがこれを客観的に観察し、思念と自己を切り離すこともできるようになってきている。
 舜一は感じている、間違いなく自身の精神が健やかさを取り戻していると。

 そしてマインドフルネスの思わぬ恩恵をも、舜一は享受している。
 呼吸の後、彼は大学の友人である渡辺溌や南梨里谷とFPSゲームをプレイする。
 常時通話状態でダラダラとお喋りを繰り広げながらゲームをするのは、すこぶる楽しい。マインドフルネスの真逆に位置するだろう俗のくだらなさも、舜一にとっては重要だった。
 今、舜一のチームは相手と熾烈なスコア争いを繰り広げている。もしこのまま怠惰なお喋りをしたままプレイするなら確実に負けるだろうし、今は完全なお遊びゆえに負けても別に構わない。
 だが何となく、勝ちたいと舜一は思った。それはただの気分だ。
 彼は鼻から息を吸い、口から息を吐き出す。腹筋によって腹部を圧し、全身の筋肉を引き締める。己が呼吸するのを意識する、そして全身を覆う数億数兆の毛穴が呼吸するのを意識する。
 パッと何かが切り替わる瞬間。
 視界はクリア、廉価の液晶は解像度上昇、それも加速度的。
 そして十の指、動きは驚くほどしなやか。
 1つ1つが脳髄を持つ。それぞれが自律する獣。
 舜一の意識は別次元の世界へ。
 疾走
 追尾
 射撃
 破壊
 疾走
 射殺
 破壊
 射殺
 射殺
 射殺
 射殺 
「うおお、すげえな」
「よっしゃ勝ったな」
 そんな声で、舜一は我に返る。
 彼のチームは勝利していた。舜一はぶっちぎりのハイスコアを記録していた。
「終盤の虐殺っぷりやばかったな、何か二つ名とかつきそ」
 呆けたような里谷の声に嬉しくなる。気分は悪くない。
 これがマインドフルネスの力というわけだった。

 舜一は心地よい疲労感に包まれながら、完全にだらけきった状態で駄弁りに戻っていく。
「俺、昨日ポケモンの新しいやつの情報見てたんだけどさ」
「いや、遅すぎだろ」
 里谷のボケと溌のツッコミといったテンポのよさに舜一は笑う。
「うっせえわ、つーかキャラデザやばくないか、アレ。何かちょっとだけデフォルメした洋ゲーの感じじゃん。俺、ポケモンにそういうの求めてねーんだけど」
「サンムーンも剣盾もロクにやってない人がよく言いますわ」
 舜一がそう里谷を揶揄すると、溌も追従するように笑う。
「まあ、ぼくはキャラデザは結局慣れの問題だと思うからどうでもいいわ。それよりトリプルバトル復活させてほしいよね」
「はっ、トリプルバトルとか懐かしすぎだろ」
 溌が驚いたような声をあげる。
「いやいや、今、Youtubeでめっちゃトリプルバトル流行ってんの知ってる? めっちゃ驚いたけど、あれ見てトリプルバトルってすげー戦略的で頭使うやつだったんだなって評価が変わったんだよ。ブラックやらオメガルビーの頃はガキすぎてめんどくさいわとかしか思ってなかったけど、今は新しいポケモンでかなりトリプルバトルやりたい気分」
「へえ……そういえばオレも、ブラックなんかはおじいちゃんにプレゼントで買ってもらったな。オレにとっての最初のポケモン」
「俺は金銀世代だけどね」
「いや、生まれてねーだろ」
 3人は爆笑する。
 その後も彼らは駄弁りを続けるが、急に里谷が大きな溜め息をついた。
「どうした?」
 溌が彼に尋ねる。
「いやさ、彩賀にフラレたわ。俺ら、別れた」
「えっ、マジか」
 舜一は思わずそんな声を出してしまう。端から見るなら里谷と彩賀は理想のカップルという風だったが、そんな2人の関係すら容易く終ったらしかった。
「何で?」
「いや……自分で言っといてなんだけど、今まだ言いたくねえわ。マジで酒とか奢ってくれ、そんときに話すよ」
 先とは打ってかわって、里谷の声からは疲弊が滲みだしている。
「あーあ、俺も溌みたいだったらなあ」
 出し抜けに里谷が言った。
「俺、マジでめっちゃ羨ましいよ。だって恋愛感情も性欲もないんだろ。てことは俺が今味わってるような苦痛とか全然感じないわけだろ、苦痛から自由なわけだろ。マジで羨ましいよ」
 溌は何も言わない。ヘッドホンの奥に妙な沈黙を感じた。
「マジで絶対人生2割くらい得してると思うんだよなあ。こうやって恋とか愛とかにかまけて、惨めに苦しんでってさ、俺たちこういうことに相当な時間費やしてると思わん? 自分でも馬鹿かって分かってるけどコントロールできないんだよ。でも溌みたいなやつはそういうのから自由だろ、解放されてるだろ、だから俺たちが恋愛沙汰に注ぎこむ時間を別の有意義なことに投資できるだろ、めっちゃいいよ」
 舜一は何も言わない。だが内心、彼の意見に大部分同意している。おそらく恋愛感情や性欲がなければ、筆祇麻衣について考え苦しむこともなくなるはずだ。
「いや……」
 溌のそんな声が微かに聞こえた。
「恋愛感情とかは確かに分からんけど、性欲はあるよ、オレも、いやあるっていうか……それにこういうの、別に、いいもんじゃないし……」
 そんな煮え切らない言葉が舜一にも聞こえる。その響きには濁ったような卑屈さがあり、妙に勘にさわった。
「いや、でもさ、やっぱ羨ましいわ、俺。何か、親父が若かった頃に“新人類”って言葉が流行ったらしいんだよ。当時の中年世代が親父くらいの若い世代の考え方が全然理解できなくて、それで“新人類”とか名付けたらしい。溌ってマジで今の新人類じゃねえの? 恋愛にもセックスにも縛られない自由人。それか、マジのZ世代」
「オレと同い年なんだからお前らもZ世代だろ」
「そういえば」
 舜一が言った。
「『X-MEN』ってさ、あれだっけ、同性愛者のメタファーとかいう話なかった? あの超能力は同性愛みたいな。今は溌のやつがここに入ったりするんじゃないの、あとジェンダーレスとかと一緒に」
「『Z-MEN』やん!」
「おい、今言おうとしてたやつ」
 舜一が笑う。里谷も笑っていた。
「つーか、今のご時世にZはねーだろ、バカ」
 そう言って、溌も笑った。
 その後、ゲームに戻るが、溌がことごとく足を引っ張り、負けが続く。
 完膚なきまでの敗北は、いくらお遊びと言えども苛つかされる。 

 眠ろうとして、また筆祇麻衣の姿が思いうかぶ。
 琥珀色の髪が揺れる、インド哲学の本を読んでいる、コンビニでミントアイスを買っている。そんな記憶が舜一の頭を苛む。
 考えを振り払おうとしてマインドフルネスの呼吸を行おうとしながら、何故かうまくできない。呼吸のリズムが崩れ、肺が酸素を拒否するように痙攣する。
 そして股間に血が巡りはじめる。ペニスが独りでに勃起を遂げる。炉のうちで熱された鉄さながらにズボンを突き破ろうとしてくる。
 舜一は起きあがり、ベッドの端に座って背筋を伸ばそうとするが、固くなったペニスが集中を延々と、永遠と邪魔する。
 “男はチンコで物事を考えてる”
 そんな言葉が、頭のなかに響く。甲高い女性の声だ。麻衣のものではない。誰のものかなど分からない。だがこの揶揄を体現するような今の状況が、恥ずかしくてならない。
 だが突然、舜一の頭のうえに輝くものが現れる。
 そこに視線を向けるなら、奇妙な物体が見えた。
 ゆっくりと回りながら白く輝くそれは、4次元正多胞体の1つである正五胞体だった。
 2次元の正三角形が3次元へと拡張されることで正四面体になる。
 3次元の正四面体が4次元、つまりは時間へと拡張される。
 そうしてこの正5胞体は生まれる。
 時間の概念を持ったこの立体は、常に回る、回り続けている。
 瞬間瞬間、全く異なる表情を見せながら、舜一の前に降りてくる。
 彼は驚かざるを得なかった。それでももう既にこの物体に見いられていた。
 導かれるように右手を正五胞体へとかざす。
 そして呼吸をする。マインドフルネスに至るために、もはや呼吸を意識する必要すらない。全てが洗い流されていく。くだらない欲望も不安も、情念も何もかもが清められていく。
 これが解放されるという感覚らしい。
 これが自由という感覚らしい。
 究極的なまでに清々しい。舜一は思わず叫びたくなる。
 これでぼくも新人類だ!
 だがこれはただの夢だった。現実ではない。
 目覚めた舜一を迎えたのは朝勃ちしたペニスだった。彼は枕元に置いたタブレットを起動して、麻衣からのメッセージがないか確認する。メッセージは来ていない。むしゃくしゃしたままpornhubに赴き、最初に目に入った“私のコックが彼女に入るときに甘い猫ピンクのパンティーでうめき声”という題の動画でマスターベーションを始めた。しばらくしてまた麻衣からメッセージがないかが気になり、左手でペニスをしごきながら確認する。メッセージは来ていない。


私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。