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コロナウイルス連作短編その67「つまんねーこと書くな」

 大島虹は午後9時32分に自宅へと帰ってくる。いつもより早く帰ることができていた。右腰に低温火傷のような痛みを感じながら、風呂場に行きお湯を沸かす。2日目の湯なので、濁っている。ふと陰毛が水面で揺らいでいるのを見つけ、何となく不愉快になる。スーツやベルトなど仕事着を雑に脱ぎ捨ててから、部屋着に着替えてしばらくはTwitterを眺める。寒くとも、生ぬるい解放感がある。
 30分後、風呂に入る。寒いなあと感情的な文句を垂れ流しながら、湯に足先を埋める。冷え切った身体の内側で熱分子が壮絶なまでに炸裂を遂げ、肉や細胞が残虐に引き裂かれる。この暴力にも似た激しい痺れの感覚が虹には堪らない。だが足先だけにそれを占有させるのではなく、一気呵成に全身を湯へと突っこませることで全身でこそ痺れの激烈を共有する。これを存分に味わった後、一転して虹は自身の身体をゆっくりと、緩やかにケアし始める。足先を柔らかにマッサージし皮膚を熱へと馴染ませる、これを太腿や腹部、二の腕にも行っていく。こうして全身から冷えが取れるまでマッサージを繰り返すのだ。
 そして虹は身体を洗う。まずは髪からだ。彼自身としてはこの行為は髪を洗うのではなく、頭皮を洗う行為だと認識している。指で広げていく泡と頭皮の脂が重なり、それが消えていく感覚。それは何か、虹に溌溂とした喜びを与える。この時に耳の裏側も洗う。母親が口酸っぱく耳の裏側を洗わなければ本当の意味で頭から匂う体臭を消すことはできないと言っていたのを、虹は忘れられない。この後に上半身と下半身を洗うことになる。まず腕だ。彼の腕はかなり細く、過去に筋肉をつけようと筋トレを試みたこともあるが、挫折した。だからこの細い腕を愛したいと思う。虹はことさら優しく左腕と右腕を洗う。肌理細やかな泡が毛穴に潜りこみ、汚れを落としていく感覚を静かに味わう。その後に足先、太腿、腹部、胸部、首筋を洗っていくが、いつも最後に洗うのは股間だ。彼の陰毛はすこぶる濃厚なもので、セックスをした女性からぬるい不快感を向けられたことが何度もある。猥雑な黒いジャングルであると彼自身は形容する。陰毛を整える男性は恰好いい、女性に人気であるという文言を雑誌で読んだことがあるが、そうすることで失われるものがあるという思いを虹は拭いされない。彼はこの鬱蒼たる陰毛ごと股間を洗う。ある意味ではペニスそれ自体よりも、陰毛の方が彼にとっては重要だった。
 風呂の後、虹はラーメンを作り始める。小さな鍋でお湯を沸かしながら、モヤシをレンジで温めるとともに、キャベツを切っていく。料理という行為は頗る面倒臭いものであると虹は認知している。だがこの面倒臭さは人生に対する丁寧さ、真摯さへと繋がるのだ。生きることに必要不可欠なものであり、どんな時でも怠惰に埋没してはならない。
 虹はラーメンを鍋から容器へ移さず、テーブルに鍋敷きを置いたうえで鍋からそのまま麺を啜る。麺を吸いあげる爆発的な響きが彼の食欲をさらに刺激する。旨かった。スープに漬けこんだモヤシやキャベツもやはり旨い。幸せだった。虹は昔、韓国映画でこういった場面を観たことがある。ある若い男がインスタントラーメンを調理するが、それを鍋から本当に、本当に旨そうに啜る。野性的なまでにスープの滴が飛び散り、男は獣の笑みを浮かべる。これが恰好よく見えたのだ。以来、虹はインスタントラーメンを鍋から直接食べている。
 食事をする時は、同時に読書を行う時間でもある。今読んでいたのはスナウラ・テイラーという障害学の研究者による『荷を引く獣たち』という本だった。読もうと思ったきっかけは、この作者が関節拘縮症という病を患っているという事実だ。虹の妹である大島鍵も同じ病気を患っており、一緒に住んでいた時は彼女の介助をすることも多かった。この時代を想いだすと愛と疲労が表裏一体で心に浮かびあがる。その意味でこの読書体験は重要なものだった。作者は自身の関節拘縮症という身体障害の経験を、動物と人間の関係性に接続しながら正義について論ずる。そして文中に出てくる"相互依存"という言葉によって、彼は鍵を介助していた過去を丸きり考え直す必要があるのではないかと考え始める。今はまだ言葉にできない、おそらく一生を懸けて見据えるべきものなのだろう。
 今、虹と鍵の関係性は良好で、実際に会うことはコロナウイルスのせいで憚られながら、Google Duoでよくビデオ通話をしている。だが先日は少し喧嘩をしてしまい、それは彼女がタトゥーを入れたいと突然言い始めたからだ。彼女の言い方は軽薄に響き、それが虹の気に障る。
「タトゥーはそんな簡単に入れるものじゃなかったはずだ。でも今、タトゥーは保守的な流行に成り下がったよ。昔は先住民たちが動物や自然、それから神のような超越的存在と交信するための霊的な媒体だったんだ。それが今や自分の身体を飾るためだけの物理的な虚飾と化したんだ。それでいてこれは個人的な経験から言うんだが、タトゥーを入れてる奴の特権意識は醜いよ。自分が平凡な世間の流行りからを超越していると勘違いして、他人を見下すんだよ。こういうヤツに限ってモテるために例えばワックスで髪を整えるとか、雑誌で見た可愛い髪型にする男女を馬鹿にするんだ。そういう卑しさがムカつくんだよ。俺はお前に、もっとちゃんとタトゥーについて考えてほしいんだ。こういう軽薄なヤツらのようにはなっちゃいけない」
 寝る前にTwitterを眺める。そこで『安倍晋三』と名づけられた短編小説を見つけた。作者はこう呟いていた。

"最近の小説家は実名を出さず自己検閲するという記事を読みました。なので実名を出した小説を書こうと思いました。自分が潰瘍性大腸炎やもと悩む青年が安倍晋三の幻影に憑りつかれる物語です"

 この文章を読んだ時点で苛ついたが、彼は実際に作品を読む。作者は安倍晋三と潰瘍性大腸炎という病気を繋げて馬鹿にしている、これを一種の諷刺として提示している様は浅はかだ。わざとらしく主人公が下痢をする場面も多く描き、その汚穢を安倍晋三がいかに汚いかという印象へ繋げる。特に怒りを抱いたのは、作者は潰瘍性大腸炎を患いながら8年間首相を務めた彼への、人々の労わりの言葉を引用するが、それは大衆の愚かさの表象として機能していた。品性下劣以外の何物でもなかった。

"つまんねーこと書くな"

 虹は衝動的にそんなコメントを書き捨てていた。それでもムカつき、これを忘れるために寝ることに決める。安眠のためのチョコを3粒食べ、ベッドに横たわる。布団はすこぶる重い。雑誌やネットの評判通り、その重さは確かに虹へ安らかな眠りを齎してくれる。
 虹は起きる。最近深い眠りを享受できる一方で、起床する際に身体に重苦しさを感じるようになった。布団が原因かと思え、しばらく軽い布団で眠ったこともあったが、重苦しさは変わらない。虹は細胞が活性化する風景を頭に思いうかべながら、意識や身体を目覚めさせようと試みる。ゆっくりと、急がずにベッドから出ると、彼はタブレットを起動し、ラジオ体操の動画を再生する。これが虹にとっては真の意味での起床だった。それから彼は洗面所へ赴く。半透明の緑色のコップに冷たい水を入れ、それを飲む。その冷たさが全身に沁み渡る感覚を、目を瞑りながら深く味わう。次は漁港の冷蔵庫に眠るマグロの死骸さながら凍てついた手を、お湯で温める。停滞していた血液が機動力を増し、皮膚の下で駆け抜け始めるのを感じる。緩やかな熱とともに、生気が復活していく。
 仕事着に着替えた後、チョコクロワッサンを食べる。菓子パンの中ではチョコレートの塊がそのまま入ったパンが虹は好きだが、特にこのクロワッサンを愛食している。ふっくらとした柔らかな生地を歯を通す最中、唐突に歯の先端が硬質なチョコを捉える。それが砕かれた一瞬に、チョコの甘やかさが口へ溌溂に広がる。これが幸福だった。
 突然、タブレットにビデオコールが届く。妹の鍵からだ、彼女は長年の介護士である神田思路のサポートを受けながら電話してきていた。
「よう、朝かけてくるのとか珍しいな。いきなり何だよ」
「別に何となくだよ」
 彼女の朗らかな笑みは虹の気分を良くする。心をぬくもりが満たす。だが一方で両の手の甲が厭に痒くなる。
「俺、もう仕事行かなくちゃいけないんだけど」
「私も仕事だけど、在宅だから外出る必要ないんだよなあ」
 そんな自慢気な言葉に虹は思わず笑った。
「じゃあな、仕事頑張れよ」
「じゃあな、仕事頑張れよ!」
 自分より勢いのある言葉に活力を与えられた気がする。
「喰えねえよなあ、お前」
 鍵の挑発的な変顔を見ながら、電話を切る。そして残ったクロワッサンを一気に食べてしまう。大島虹にとって新しい1日が始まった。

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。