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コロナウイルス連作短編その138「タイトルが思いつかない」

 そして田仲赤来は最近、アゴヒゲを生やし始めた。以前からその渋さには憧れがあったのだが、人目を気にする質の彼は何となく生やす気になれずにいた。だが常にマスクを着ける日々が1年以上続き、ふと生やしてみるかと思いたつ。しばらく放っておくと、少しずつ藻のような控えめなヒゲが現れ、しかし見る間にアゴを覆い尽くす。朝はこのフサフサを満足げに眺めながら、形を整えるために剃刀を丁寧にアゴへ当てていく。ヒゲの領域は広すぎず、狭すぎず。ケジメをつけ、何よりも中庸を重んじる。そして彼は頬の手入れを行うのだが、30間際という年齢に比してヒゲは頗る薄い。というのも彼は頬から現れるヒゲに関しては、わざわざピンセットで抜いているからだ。剃刀で剃ったが最後、ヒゲが加速度的に黒く濃くなり、頬の大部分が荒れるような気がしたからだ。少なくとも父はいわゆる青ヒゲが不気味なほど濃厚だった。毛穴から飛び出た、小さくも黒々しい1本をピンセットで摘まみ、引っこ抜く。これを目立つヒゲが無くなるまで延々と、永遠と続ける。滑らかな肌はこのおかげだと、赤来自身は信じている。
 この日の朝も洗面所に行き、ピンセットで丁寧に頬ヒゲの1本1本を抜いていると、恋人の尾山台翠がなまぬるい視線を向けてくるのに気づく。
「抜いたヒゲさ」
 彼女は淀んだ呼気を嘔吐する。
「洗面台にくっつけんで、ちゃんと水で流せよ」
 赤来は抜いたヒゲを洗面台の端にくっつけ、ケアが終る頃にはヒゲの密集地が白い表面に形成される。それはシェイクスピア言うところの“綺麗で汚い”であり、赤来はいつも名残惜しげに水で流すことになるが、時々忘れるのだ。翠はチクチクとそれを批難する。不快に思うのも当然だと分かりながら、何となく気に食わない。赤来は翠に変顔を向けながら、水でヒゲの複合体を掃除していく。
「そんな面倒臭いことやらずに、ヒゲ剃りで纏めて剃んなよ」
「だからさ、肌が荒れるから厭なんだよ。ケアしても無駄だから、剃刀は使わないんだっての」
「何回言ってんの、それ」
 “ヒゲ剃りで剃れ”って何回も言ってんのはどっちだよ?
 赤来はそう言わない。
「将来生まれる子供に“パパ、ジョリジョリする!”とは言われたかないし」
「そんなんなら、アゴヒゲも剃らんとキモいって言われるんじゃないの」
 美学。これは他者に説明するのが最も難しい概念の1つであり、だからこそ人の美学には踏みこむべきではない、そう赤来は理解する。翠はこれを理解していないと、赤来はやはり理解する。そして愛猫の毛並みを撫でるように、こんもりとし始めたアゴヒゲに触れる。指が、堅い繊維の1本1本に絡まる感触は絶品だ。
 赤来は家から20分ほどの場所にある図書館に勤務している。この市において最も大きな図書館ゆえに1日の来場者はかなり多く、忙しさを常に感じている。給料もそれに見合うものとはあまり思っていない。それでもこの地域には不思議な静けさと落ち着きが満ちている。肉体は忙しなさに翻弄されながら、心は驚くほど安らいでいる。疲労も特に目立つものではない。そして東京からそれほど遠い訳でもない、JRに10数分その身を委ねるなら、もう東京だ。そうでありながら、コロナ感染が続いたなどというのは聞いたことがない。当然、1人2人感染したというのはニュースで伝えられながら、殆どが単発的だ。かなり恵まれた場所で自分は生活を営んでいる、赤来にはそう思えた。
 本の整理を終えて、貸出カウンターの方へと戻っていくと、来場者だろう老年の男性が係りの女性に詰め寄る場面が見えた。身体を神経質に揺らし、声を荒げれば自分が優位に立てると思っている典型的な害悪だ。しかもこれ見よがしにマスクまで外している故に質が悪い。同僚の女性は徹底的に下出に出て、頭を下げ続けている。赤来は肩を回し、背に金属の芯を通すように背筋をギンと伸ばすと、老人の許へと歩み寄る。老人は彼の姿を視認すると、少し後ずさる。背は180cmで、筋肉質ではないが肩幅は広い。中学生の頃、上級生に絡まれるのが怖く、腕立てで身体を大きく見せようとした結果、肩幅だけが妙に広くなった。その威圧感が今こうして役立っている。赤来がまだ何も言っていないのに、老人は先ほどとはうってかわり声を抑えて、卑屈な笑顔を見せる。
「マスクをお着けください」
 赤来は礼儀正しく彼にそう告げる。
 自身のマスクの下で笑顔形成のために唇が蠢くのを感じた。
 老人はすごすごと立ち去り、後には赤来と同僚であるその女性、凛花朝海だけが残される。
「クソッタレがさ」
 カウンター裏の部屋に入った瞬間、朝海がそう小さく吐き捨てながら、赤来に見えるように中指を突き立てる。体躯は頗る小柄で、職務の際には柔らかな笑顔と物腰を崩さない。ゆえに主に傲慢な老年男性より言いがかりをつけられ、彼女自身そんな態度で接し続け、ほとぼりが冷めるのを待つ。だが朝海の実際の性格はその真逆だった。彼女が自家籠中のものとして、呼吸するように暴言を繰り出すのには、いつも新鮮に驚かされる。ともすれば二面性と非難される類いの態度でありながら、赤来には公私で厳格なまでにケジメをつけている証左にすら思え、むしろ好ましい。そして図書館にすら“お客様は神様”という言葉を悪用する人間が存在することの苛立ちはよく理解できる。これを見透かしてか、朝海も赤来を頼ることがよくあり、それに関しても悪くない心地だ。他の同僚たちも同じようで、意外にも朝海は好意的に迎えられていた。
 
 仕事を終え、朝海が家へ帰ると、恋人である郷意岬がいきなり、不安げに抱きついてくる。首筋にキスを何度もしてきて、まるで可愛がられた犬さながら、朝海の匂いを嗅いでくる。思わず抱きしめながら、その肩胛骨のあたりを撫でる。
「なになに、どったの」
 愛娘にでも話しかけるように、朝海が話しかける。岬が身体を少し離してきた時、瞳に涙まで浮かべているのに気づき、気圧される。腹部が空洞と化して、そこを冷ややかな冬の風が吹き抜けていく。
「何か、鼻がおかしい。朝海の匂いが全然しない」
「……どういう意味?」
 彼女を落ち着けながら、朝海はリビングで話を詳しく聞こうとする。
「分からない。枕からも、服からも、何からも朝海の匂いが全然しないの」
 ソファーのうえで、ただそれだけ言うので正直埒があかない。朝海は実際気のせいだとしか思わないが、コロナの前症状が嗅覚の欠落だというのはよく聞くことだ。タブレットでPCR検査について検索するのだが、岬はコロナに関しては強く否定する。
「違うよ、柔軟剤の匂いとか、太陽の匂いはするんだよ。ただ朝海の匂いだけがしないの」
「何それ、意味分からんわ」
 だが否定とは裏腹に、岬は朝海から距離を取り始める。
「やっぱ自分でもコロナかなって思い始めた?」
 ニヤつきながらそう言うと、岬は俯き始める。
「別にいいよ。罹かってるとしたら、もう罹かってるでしょ。私たちはもう一蓮托生でしょ、苦しむ時も一緒、死ぬのも一緒」
 そして朝海は黒豹さながら岬に抱きつくと、顔全部にキスの嵐を浴びせかけていく。潤ったおでこ、ぷっくりと膨らんだ頬、美しい鷲鼻、赤く染まった耳。そのままセックスに雪崩こんで、岬に全てを忘れさせてあげたいとそう思う。
 特に心配もしていなかったが、数日後、PCR検査で陰性と出て岬も朝海も安心する。翌日、職場での昼休み、朝海は図書館外のベンチに座り、隣の赤来にこれについて話した。昼休みはいつも2人でこのベンチを占有していた。彩りの薄まった赤茶色のベンチは、いつだって何も言わずに彼女たちの臀部の脂肪を悠々と受け入れている。
「でも、私の匂いはしないとかさ、言ってんだよね、どうよ」
 コンビニのおにぎりを頬張るたびに、そのパリパリの海苔の感触に浸る。
「じゃあ鼻炎とかそういうのじゃないの?」
「いや、そういう異常もないから、何か精神的なものかもしんない」
 横の赤来に視線を向ける。もう既に昼食を終えて携帯を眺めているが、装着されたマスク、その下からこんもりとはみだしているものがある、アゴヒゲだった。土のなかで育まれた植物の根のように見える。
「剃らないの?」
 赤来は淀んだ視線でこちらを見てくる。
「俺の彼女みたいなこと言うなよ」
 そう言ってマスクをずらして、蓄えられたヒゲをこれでもかと見せつけてくる。
「あらあ、ヘテロ女性ちゃんと同じこと考えるなんて光栄だわ」
 翻訳された文学に出てくる女性の口調を真似ながら、朝海はそう言い、赤来も笑った。そして携帯を見ると、岬から“カップラーメン、食べました”というメッセージが来ているのに気づく。彼女は最近、こうした他愛ないことを頻繁に送ってくる。高校生かよ、そう思いながら朝海は無視する。右の指を見ると、小指の付け根近くに、1本妙に細長い毛が生えているのに気づく。

 帰り道を歩いている時、赤来はマスクのなかの臭いに意識が向いた。なかなかにくぐもった肉の臭いといった印象だが、これが自分の体臭だと思うと不思議と愛着が湧く。だが疑問に思うのは、これが普通の口臭なのかということだ。口臭ケアは人並みにしかやっていない。例えば毎日歯磨きの後にリステリンで口内を洗浄する、酒を飲んだ翌日には口臭ケアのグミを噛んで、消臭を行うといったものだ。翠に臭いと言われたことはない、今までの恋人にもそういった文句はついぞ聞かなかった。だが意識してマスクに蟠る臭みに鼻を動かすのなら、割かし濃度は濃いめと思われてならない。
 口の臭いを何度も反芻しながら家に帰りつく。リビングは暖房の勢いが猛烈で、歩行で否応なく身体から熱を発散している赤来は、部屋に広がる熱気に気圧された。それとは裏腹に、翠は半袖シャツと下着だけ履いて、ソファーに寝転がりながらテレビを見ている。彼女は常に半袖を着なければ気が済まないというタイプの人間だった。当然、冬にそのまま外へ出るのは無謀ゆえ、せめて自分の家では暖房の温度や勢いを激烈なレベルにまで高め、半袖を死守せんとする。
 電気代とか色々計算して、支払いしたり家計簿つけたりすんのは俺なんすけども。
 何百回思ったか分からない言葉を、しかし胸中のみで吐露する。そして目に入るのは、半袖からまろびでる翠の脇毛だった。脇毛を伸ばしっぱなしにするのは社会への反抗宣言、そんなフリーセックス時代のフェミニストのような行動を、しかし2020年代に生きる30代女性がするというのに時代錯誤感を、赤来は感じざるを得ない。若気の至りとすると、遅すぎる。自分としては、別段フェミニストに敵意は抱いていないと彼は思っている。しかし今では“フェミニスト”とは“トランス女性の差別者”と同義にしか感じられず、印象は良くない。実際に翠がいわゆるTERFか否かは知らないし、知ろうという気が起きない。もし彼女がTERFだとするなら、おそらく彼女が自民党支持者に抱くような嫌悪感を、自分が彼女に抱くという恐れがあったからだ。
 それにお前、こんな脇毛ボーボーにさせといて、俺のアゴヒゲに文句言うんじゃねえよ。
 これも実際には言えなかった。代わりに寝転がる翠の許へ近づいていき、その顔面に淀んだ口臭をブチ撒けてやる。翠も何も言わない代わり、露骨に不愉快げな表情をしてきて、それはそれで傷ついたような気分になる。

 目覚めた時、時計の針は未だ午前5時の領域にあることに朝海は気づく。いつもはこんなに早く起きることなく、小学生のような快眠ぶりを発揮し、そしてやはり小学生のように岬に叩き起こされる。だが今日に限って2度寝する気も湧かないほど、目が覚めている。背伸びをしながら、横でムズムズと動く岬の身体を眺める。筋が伸びていくごとに、感覚から半透明のヴェールが剥がれていき、それが光や冷えといったものを今再び捉え始めていくのが分かる。そして最後に朝海の感覚を刺激したのは匂いだった、岬の豊かな体臭。鼻の粘膜に量子の蜜を優しく塗られるような心地よさに、思わず笑みが溢れる。朝海は岬が大好きだった。急に彼女が愛しくなり、彼女の愛犬といった風に岬へと鼻を近づけて、その匂いを嗅いでいく。“くんくん”というお決まりのオノマトペを、物理的にどう響かせられるか試行錯誤しながら、朝海は鼻を動かしていく。そのなかで様々なことを思いだす。初めて会って、彼女の横に立った時に匂ってきたバニラの香水と、その奥からまた漂ってきた麗しげな体臭にドキッとした。岬が飲んでいたコーラのペットボトルをひったくり、自分もそれを飲もうとすると、飲み口から唾の匂いがしてきたので、わざとゲロを吐くような身振りをして、怒られたこと。コロナ禍、岬が捨てるのを忘れた不繊維マスクを密かに自分で着けて、その一瞬に鼻に雪崩こんできた濃厚な匂いに思わずムラムラしてしまったこと。
 そうして岬の体臭を味わうなかで、ふとした瞬間に別の匂いがした、それは朝海自身の体臭だった。何か気になって、岬から離れてからそれを注意して嗅いでみる。どちらかといえば獣っぽい、荒い臭いだと自分では思う。しかしその荒さの奥から微かな甘さが、余韻さながらに立ちあがってくる。悪くない匂いだと、少し自画自賛してみる。
 朝海の匂いが全然しない、朝海の匂いだけがしないの。
 そんな岬の言葉が頭に思いうかんだ。PCR検査で陰性が出た以降、彼女はそう言わなくなった。だが今でも、自分のこの体臭を彼女が感じていないとするなら。今までは特にどうとも思わなかったのに、急に怖くなってくる。
 職場での昼休み、朝海が図書館外のベンチで読書をしていると、隣に赤来が座ってくる。
「何、読んでんだよ」
 赤来がそう聞いてくるので、朝海は本の表紙を見せる。
「マーケティング理論? 実業家にでもなんのか?」
 赤来がそう言う。マスクをしているのにその奥でニヤニヤしているのが分かった。朝海は資本主義が嫌いだった、憎んでいると言っても過言ではない。だが30代に突入し、もっと現実的に資本主義と付き合っていかなければいけないと焦燥を抱き始める。そして商社のマーケティング部門に務める岬が貸してくれた本が、マーケティング理論の創始者と呼ばれるフィリップ・コトラーの書籍だった。マーケティング理論という言葉を聞いただけで吐き気を催したが、実際に読んでみると印象は頗る変わった。資本主義は存在する、そして今後少なくとも100年は存続する、これはもはや認めざるを得ない。そんな状況でこの資本主義に対して、現実的にどう対処すればいいのかの技術を伝授する存在が、コトラーだと思えるようになった。彼にとって経済学は基礎的理論であり、マーケティングはその実生活における実践であり、社会における実践的な戦いかたを知るにうってつけだ、少なくとも朝海にはそう思えた。食わず嫌いで岬のオススメを今の今まで無視していたのを少しばかり後悔していた。

 夕方、図書館へと朝海を迎えに岬がやってきたので、赤来は2人と一緒に帰ることにする。しばらく歩くうち、話題はコロナウイルスの現状に至る。
「イギリスやドイツは……」
 岬が言い淀むように、喋りはじめる。これが彼女の話し方だった。
「コロナの検査体制がしっかりしてるみたいだけど、そのせいで気が緩んで、マスクをしなかったりワクチンを忌避したりで、むしろ死者が増えてるように思える。低燃費のハイブリッド車を買って安心して、むしろ運転量が増えてしまうみたいなトレードオフ状態。それを見てると、色々と後手後手に回ってるはずの日本の方がマシに見えてくる」
 岬は溜め息をつく。
「そんなこと言いたくない、だってこうして被害が最小限に抑えられてるのって、政府とかじゃなく医療従事者や私たちの自助のおかげだから。でもそれじゃいつか絶対に破綻がくる。私は政府はむしろそれを狙ってるんじゃないかって思える。政府は無能なんて言われてるけど、ただ無知を装ってるだけで、その造られた醜態に批判の目を向けさせて、ガス抜きして、本当の問題に目が向かないようにしてる。狡猾だよ、本当に。そしてオミクロンに乗じて、国境封鎖して、海外の人や留学生に注意を向けさせて、支持率をしれっと回復してる訳でしょう。私は日本政府の知性が過小評価されてる気がする」
 そんな言葉に対して、赤来は口を挟む余地がなかった。ただただ“俺なんてあんな考え方、絶対にできねーよ”という捨て台詞にも似た羨望が首をもたげるのみだ。岬は自分よりもより広い、そして深い洞察を世界に向けているような気がした。その影響は恋人である朝海にも明確に現れており、逆にもっと荒く感覚的に生きている朝海が逆に岬へ影響を与えているように思う時もある。赤来にとって2人は理想的なカップルだった。そして彼女たちに比べるなら、自分は勿論、恋人である翠も浅ましいことこの上ない存在に感じられてならない。
 家に帰ると、翠がやはりソファーでゴロゴロしており、ウンザリした。
「反体制もいいけどさ、家事もしないし仕事もしないし、お前何なんだよ?」
 胸中に吐き捨てたつもりが、翠が驚愕の表情を浮かべる様に、自分が実際にこの言葉を口にしていたことに気づいた。まずいとは思いながら、床に落ちていたゴミへと視線が引きずられた。しゃがんで目を細めると、それが縮れた惨めな毛であるのに気づく。
「これ、お前の脇毛だろ。汚ねえな、マジで」
 赤来は毛を摘まんで、棚の横に置いてあるゴミ箱に捨てる。
「チン毛だろ、アンタの」
 そんな言葉が背中に突き刺さり、脊髄をめぐる髄液が一瞬に沸騰した。
「これはな、これはお前の、穀潰しクソ女の腋毛だよ。何でか説明してやろうか?」
 赤来はわざと足音を派手に響かせながら翠のもとへ歩み寄り、親指と人差し指で摘まんだ縮れ毛を誇示する。
「俺のチン毛はもっとワイヤーみたいな硬さがあって、艶があるんだよ。不法移民が入ってこないように張り巡らされた鉄線みたいなんだよ、俺のチン毛は」
 赤来は左手で翠の顔面を鷲掴みにしながら、縮れ毛を更に彼女の網膜へ肉薄させる。
「お前の腋毛はどうだ? 縮れ具合は中途半端で、コシも全くない冴えない毛だよな。砂漠で干からびて死んだラクダの腐った死骸みたいなもんだよ。惨めだよな、お前と同じだよ。仕事もしないで、ゴロゴロしまくる。金は入れてるからいいだろって、そりゃお前じゃなく親の金だろ、30過ぎてもそれかよ。そういう惨めな人間の腋毛だよ、こいつは」
 こう唾を撒き散らしながら吐き捨てるのは、気分が良かった。性的に興奮していないのに、勃起までして自分でも驚く。だがこれは、学校で授業が終わり、起立したとなると何故だか勃起したのと同じで、解放感に依るものなのだろうと赤来は理解した。そんな目覚ましい気分で翠の顔に視線を向けると、そこには恥辱としか言い様のない赤色が浮かんでいた。今にも泣きそうな表情で彼女はその場から逃げ出し、トイレに籠る。最後の抵抗とばかり、ドアが閉まる時、相当に暴力的な圧音が響いた。
 マジでふざけてんのかよ?
 今度はきちんと胸中にその毒を吐瀉した。しばらくテレビを見ながら、翠が帰ってくるのを待つ。牛丼屋に立て籠った中年男性のニュースが放映されていた。翠も惨めなら、この中年男性も惨めだと赤来は思った。そしてトイレから翠が帰ってきた。手にカミソリを持ちながら、彼に言う。
「もう、別れよう」
 思わず、朝海は岬の顔を見つめた。彼女の言った言葉の意味が掴めず困惑しながら、しばらく考えればその意味は笑えるほど単純なものだと分かる。信じたくなかった。
「ちょ、ちょっと待って、どういうこと?」
 当惑が言葉を借りてそのまま唇から溢れおち、テーブルが揺れたような気がしてしまう。“どういうこと?”という言葉を間隔を空けながら、何度か発したが、岬はただ俯くばかりで無言を貫く。表情が見えない、問いかけが尋問に変わる。
「何でだよ」
 語気が思わず荒くなり、そこで唇から何かが溢れた。さっきのように幻覚かと思ったが、テーブルには白米の粒が本当に落ちていた。そこで今が夕食中だと気づく。そして“今が夕食中だと気づいた”ことにまた驚く、今までずっと夕食を取っていた筈で、ある時点まではそれを間違いなく意識していたのに、あの言葉の前と後で認識が完全に分断されていた。朝海は座っているのに足許がふらつくのを感じる、だが肉体より何よりも意識が大地からふわりと浮かんでいくような気分になり、恐ろしくなる。
 朝海は“急に”を大袈裟に演出するように勢いよく立ちあがったかと思うと、岬に歩み寄る。関節の駆動が吐き気を催すほど心に迫ってくる。それを米粒ごと全て飲み干し、そのまま岬の首筋にすがりつく、岬の皮膚に鼻を近づける。そこには匂いがあった、だがそれはどんな装飾語をつけていいか分からない、ただの匂いだった。岬の匂いなのか、朝海の匂いなのかすら分からなかった。
「岬の匂い好きなんだよ」
 朝海は必死に岬の匂いを嗅ぎながら、言った。
「岬も私の匂い、好きなんだよね。だから前、私の匂いがしないなんて言ったんだよね。私に構ってほしかったんだ、そうでしょ。でも私、ちゃんと話聞いてあげなかったね、ごめん、岬、ごめんね。そういえば前に“カップラーメン食べました”ってメッセージくれたけど、それにも返信返さなかったね、何食べたの、コンビニだけで売ってるニンニクマシマシの豚骨ラーメンとかそういうのかな、そうでしょ、岬、そうだよね?」
 岬の表情が見えない、身体と身体は近くに位置していたが。


 2人はベンチに座って、改めて図書館をマジマジと眺める。
 ベンチと同じように色褪せた赤茶色の煉瓦が、無数に重ねあわされ、積みあげられ、この図書館は建てられている。素材としては相当に武骨であり、かつ経年劣化によって無闇に硬化を遂げた末、もし近くで見るなら微かな罅割れが容易に伺える。だがベンチと図書館ほどの距離感があるなら、それは赤茶の色彩に溶けこんでいる。建築としてはすこぶる横長であり、バランスを失い横に倒れた細い塊といった印象を受けるものだ。
 それでも横への伸び方は驚くほどに曲線的だった。建物の向かい側にはこの地域で最も大きいショッピングモールが屹立しており、2つの間には道路が存在しているが、それが凄まじくうねっており、これに巻き込まれるように建築自体が曲線的な設計となっている。だがそもそも何がまずうねっていたのか、ショッピングモールの敷地の境界線か、間をのたうつ道路か、それとも図書館の方なのか、少なくとも2人には分からない。
 出入口の隣には、閉館時に利用する返却ポストが3つほど壁に埋め込まれており、更にその隣に小さな花壇が存在している。名前も知らない花の数々が控えめに咲いているが、その中でも赤紫の花のもとに謎の生物がよく現れる。目にも留まらぬ速さで羽根を駆動させながら、小さな小さな生物が、極細の長い、ストローのような口で花から蜜を吸っているのだ。それは少し大きい虫なのか、それともかなり小さい鳥なのか、近くで見ても正体がハッキリしない。だが特に人間の視線など気にもせずに、それは花から花へ移っていき、蜜を忙しなく味わっている。
「仕事に戻ろう」
 どちらかがそう言って、2人は図書館へ戻る。


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