コロナウイルス連作短編その18「鴨のように飛ぶ」

 苗加梢は思いたって仕事中に酒を飲んでみることにする。もちろんオフィスで仕事をしていたらそれは無理だが、現在はコロナウイルスのため自宅で仕事をしている。酒を飲みながら仕事をすることも可能だ。彼女はパソコンの前で、ビールを飲んでみる。爽やかな苦味が虹色の火花さながら喉で弾けていく。素晴らしい気分だった。少しの背徳感は存在しながらも、ビールを飲んでしまった瞬間には成仏する亡霊さながら雲散霧消する。今の梢にとって、ビールはあまりにも偉大なる存在だった。
 そしてビールを飲みながら仕事をこなすのだが、驚いたことに梢の生産力は明らかに上がっていた。少しのアルコールは彼女の意識を明晰なものにし、仕事への集中を向上させた。それだけではなく気分もいい。酒を飲まないで仕事をする理由が梢には見つからなかった。そして爆発的な楽しさを以て、大量の仕事を数時間でこなした梢は達成感を抱いた。自分は無能な人間ではない、そんな思いが彼女の心を優しく抱きしめた。

 仕事の後、梢はポール・ルーニーという俳優が出ている『しなやかな虚構』という映画を観た。今作でポールは母親の死に悩むゲイの青年役を演じている。彼は葬儀のために実家へと赴くのだが、同性愛者であることに対し父や祖母たちの眼差しは厳しいものだ。横には優しい恋人が付きそってくれているのだが、家族に受けいれられないことが彼には耐えがたい。今作は今そこにある差別についてを描いているので、観ていると心が痛んだ。だが梢はこの映画のポール・ルーニーはキャリア史上最も美しいと思っていた。ポールがフォークを投げつける姿、ポールが恋人と唇を重ねる姿、ポールが祖母と抱きしめあう姿。その全てがギリシャ彫刻のように美しく、その美しさを言葉で形容するのは無理だと思った。彼のことならばずっと観ていられると思った。
 そして『しなやかな虚構』の次にはドラマシリーズである『ジ・アーキテクト』を観始める。今作のポールは建築士役でありながらも、実は殺人鬼という秘密を抱えていた。ある日彼は殺人現場を目撃するのだが、それと同時に殺人者に恋をしてしまう。だが彼女はモサドの暗殺者であったゆえに、ポールは世界的な陰謀に巻きこまれてしまう。このドラマのポールは今までで最も野性的で官能的な魅力を発揮している。彼の動く姿には思わずどぎまぎしてしまう。今作はイギリスで放映されたばかりなので、違法アップロード版を観ていたし、英語字幕もついていなかったが、ポールを観ているだけで、梢は幸せだった。
 今はコロナウイルスの時代であり、観ようと思えばネットフリックスなどで好きな映画やドラマを大量に観ることができた。しかし外からのストレスのせいで、梢は思うように作品を観ることができなかった。例えば馬鹿げたコメディ作品でも十分後には集中力が切れて、観るのを止めてしまう。そんな状況でも、ポール・ルーニーという大好きな俳優の映画を観るのは心が落ち着いた。もし彼が居てくれるならば自分は大丈夫だと、そう思えたんだった。

 梢は酒を飲みながらの仕事を続けた。少しずつアルコールを摂取しながら仕事をすると、不思議なことに生産性が高まって、素晴らしい結果を産みだすことができるのだ。ただアルコールのせいで頻繁にトイレに行かざるをえないのだが、今の梢には些末な問題のように思えた。悪い面はそれだけなので平気だった。
 仕事が終わってから、やはり彼女はポール・ルーニーが出演している作品を観る。今回はエブリエント・シアターが無料配信している舞台劇『大いなる虚無の時代』を観た。様々な秘密を抱えた人々の人生がロンドンで交錯するという群像劇であり、その中でもポールは小児性愛者という役柄だった。彼は長年この性嗜好を抱えながら誰も傷つけないよう孤独に生きてきたが、久しぶりに再会した妹の息子に欲望を抱いてしまう。その結果、彼は自殺を図るのだが、この時の五分にも渡る沈黙の場面はあまりにも神々しく、梢は涙ながらには観られなかった。そして多くの登場人物が悲惨な最後を辿るなか、彼だけは生きて絶望を克服しようとする。本当に素晴らしい作品だと梢は思った。涙を止めることができなかった。

 その後Twitterを見て、ポール・ルーニーがDV容疑で現行犯逮捕されたことを知った。彼女は最初そのニュースを理解できなかったけども、惰性で様々なニュースを読みつづけた。彼は長年妻であるマヤ・ジヴコヴィッチを虐待していたが、コロナによって彼女が家に閉じこめられた結果、虐待は激しさを増したのだという。そしてとうとう我慢できなくなったマヤは警察に通報、ポールは逮捕されたのだそうだ。そして梢はある写真を観た。『しなやかな虚構』のプレミアで、ポールとマヤが美しい服装を纏いながら仲良く並んでいる写真だ。そこに映る二人はとても幸せそうで、この裏で暴力が振るわれているなど信じられなかった。しかし真実だった。ファンたちはこの事件を嘆き悲しむ一方で、ある二つのタイプに別れた。片方は“罪を償ってほしい”とポールを諭す。そしてもう片方は“これは妻の陰謀!”と過去のゴシップをあげつらい陰謀論を語る。だが梢はただただ呆然とスマートフォンの液晶を眺めていた。だが、突然彼女は心臓を潰されるような衝撃を感じた。
 もう一生、ポール・ルーニーという俳優は帰ってこないかもしれない。
 そう思うと、涙が止まらなくなった。先に『大いなる虚無の時代』を観て涙を噴出させながら、まだ出るかというほどに大量の涙を流した。そして泣きつづけ、泣きつづけ、最後には疲れはてて眠った。

 起きた後、仕事をしなければいけないことに気づくが、体調があまりにも優れないので、休みを取ることにする。しばらくはやはり何もすることができなかった。それでも身体が動かせるようになった頃、梢はスマートフォンを起動する。そうして観ようとしたのはあの『しなやかな虚構』だった。彼女は無心でポールの姿を眺めつづけた。彼は苦い苦悩を顔に滲ませながら、本気でこの世界に存在する差別について悩み、涙を流していた。その全てが全くの嘘のように思えてならなかった。そして終盤、家族と和解をしたポールは皆で母親の好きだった海岸へと赴く。そこで天使のように無邪気な笑みを浮かべながら、父親や恋人と遊ぶのだ。この世にも美しい場面を観ながら、梢は吐き気を抱いた。この裏側でも彼は妻に暴力を振るっていたと想像してしまい、深い吐き気を催した。
 また涙が止まらなくなり、梢はもう死ぬしかないとまで思いつめる。もう心臓は爆発する寸前だった。しかし梢は冷蔵庫へと走っていき、ビールを一気に三缶飲んだ。これで気を紛らわせられると思ったが、効果は想像以上だった。吐き気も何もかも消えてなくなり、まるで青い空を飛ぶ雀のように幸せな気分になった。梢は、酔いが悲しみを癒してくれると学んだ。そしてビールを飲みながら、眠りに落ちた。

 翌日も仕事をしながら、酒を飲んだ。心があまりにも不安定で、酩酊がなければ生きることすらもままならなかった。会議をする際、梢は久しぶりに同僚たちの顔を見る。友達といえる人物は一人もいなかった。その皆の顔が明らかに歪んでいた。
「苗加さん、顔赤いですけど大丈夫ですか?」
 そんななかで一人だけ、そんな言葉をかけた女性がいた。しばらく考えた後、彼女の名前が土岐川芹那だということを思いだす。
「別に、大丈夫ですよ」
 梢は会議中にも酒を飲んでいたが、誰にも気づかれることはなかった。むしろ鋭い発言をしたと上司から誉められるほどだった。彼女は感謝の言葉を繰り返しながら、首筋を掻いたんだった。
 その後に昼寝をするのだったが、その時に夢を見た。梢はソファーに座っていたのだが、その横にはあのポール・ルーニーがいた。心が蕩けそうな快感を覚えながら、一緒にワインを飲むことになる。不思議なことに梢はほとんど英語が喋れないのに、言葉が通じるどころか、ポールは日本語を喋っていた。それは吹替俳優である後藤新才の声だった。
「会えて嬉しいよ、梢」
 彼は甘い日本語でそんな言葉を囁く。死にも近い喜びのなかで、梢は喋りつづけ、ワインを飲みつづけた。ポールは梢の言葉を真剣に聞きながら、優雅にワインを飲んだ。そしてポールの顔は赤く染まっていくのだが、徐々に様子がおかしくなっていった。
「お前、本当にブスだよな。ひでえよ」
「ご、ごめんなさい」
「謝ってんじゃねえよ。お前、馬鹿か?」
 そう言うと、テーブルを蹴ったんだった。
「ひい」
「だせえ悲鳴、もっと聞かせろよ」
 ポールは梢に覆い被さったのだが、思わず彼の身体を押しのける。
「ふざけてんじゃねえぞ!」
 そしてポールは全力で梢を組みふし、床に倒れる彼女の顔を殴りはじめた。
「やめて、やめて」
 ポールは止めることがない。だがだんだんと彼の姿は変化していき、最後には学ランを着た若い青年の姿になった。

 起きてからすぐに、梢は酒を飲みはじめた。脳髄が沸騰するような快感を感じはじめ、彼女はまたポール・ルーニーの映画を観始める。『黄金の海岸』はダンサーとして挫折したポールが若く才能のある青年を育てようとする姿を描きだした作品だ。実はポール自身が元ダンサーでもあり、この役は彼自身の人生を反映していると言われる。彼はワインを飲んだ後、青年の前でダンスを披露する。それは正に白鳥の舞といった優雅なものであり、これ以上絶妙な舞踏というものを梢は見たことがなかった。彼の素質が遺憾なく発揮された素晴らしい光景がここには広がっていた。そして梢はこれを観ながら、自分も踊りはじめた。彼女は踊ったことがなかったので、その動きは破壊された人形のように酷いものだった。そして酩酊によって嘔吐しそうになった時、梢は倒れて、頭をぶつける。

 気づいた時、梢は病室のベッドに横たわっていた。そして傍らには何故か土岐川芹那がいた。彼女によると、梢から会社に連絡がない日が続いたゆえ、近くに住んでいる芹那が見にいくことになったそうだ。そして鍵を開けて部屋に入ると、嘔吐物まみれで倒れている梢を発見したのだという。彼女は恥ずかしさのあまり、自殺したくなったが、疲労からか全く動くことができなかった。
「助けてくれてありがとう」
 涙ながらに梢は言った。
「いえ、大丈夫ですよ」
 芹那の唇はとても乾いていた。
「別に私たち特に仲良くはないですけど……」
 芹那が言った。
「何か悩みがあったら、言ってくださいね。Google Remoteで飲み会しましょう」
「私、Zoomしか使ったことないです」
 芹那はポカンとした後、満面の笑みを浮かべたんだった。

 梢の目の前には、学ラン姿の青年がいた。彼はぎこちない笑顔を浮かべながら、自身の日常について話した。別に面白くはなかったけども、梢も一応は笑った。すると青年は笑いとともに、自分に近づいてくる。鼻に香ったのは彼の野性的で不愉快な体臭だった。まるで泥まみれの肉が近づいてくるようなそんな居心地悪さを感じる。それでも梢は彼とキスをした。青年の唇は唾でベチャベチャで、すぐにでも離れたかった。だが離れた後には、青年は梢の服を脱がせようとする。不愉快さが頂点になって、彼女は青年を拒絶した。彼は全てを否定されたかのような、絶望の表情を浮かべた。
「何でだよ」
 彼はそんな言葉を絞りだす。
「ごめん、今は無理」
 と、青年の顔に怒りがきざした。そして全力で彼女をベッドに押しつけると、服を全て剥ぎとった。
 梢は電車のなかで目覚める。外を見ると広々とした海が広がっていたが、それは美しいどころか醜く禍々しく見えたんだった。この電車は梢の故郷へと向かっていた。だが彼女は家族や友人に会う気はなかった。たった一人の男に会いにきただけだった。電車を降りると、日差しが彼女を照らす。その熱は既に夏を彷彿とさせるものだった。梢は熱くなった耳を掻く。
 しばらく歩くだけで、目的地に到着した。最初、彼女はアパートの前でただただウロチョロとしているだけだった。彼に会う勇気が湧かなかった。しかしお腹が痛くなったので、近くのコンビニで排便をする。自分のなかから汚いものが一掃された時、不思議と勇気が湧いてきた。
 チャイムを押して十数秒後、中から無精髭を生やした青年が現れた。彼女はしばらく梢を見据えていたが、まるで過去の亡霊に捕まったかのような驚愕の表情を浮かべ、そして下を向いた。
「ねえ、何も言わなくていいからさ」
 梢は言った。
「一発ブン殴らせて」
 青年は更なる驚愕を顔に浮かべながらも、最後には目をつぶった。

 青年と会った後、梢は海に遊びにいった。海は今も禍々しい色彩を輝かせている。だけどもその中に、本当に小さな青い光も存在しているのに気づいた。裸足で砂浜を歩いた後、腰を下ろしてみる。コロナウイルスのせいか、そこには誰もいなかった。梢だけの世界がそこには広がっていた。しばらく海を見据え続ける。するとそこに幻影のようなポール・ルーニーが現れる。彼は無邪気なる天使のように波のうえを駆けぬけ、笑い声を響かせる。その姿を観るのは、心が落ち着いた。そして梢は鞄からスマートフォンを取りだした。彼女はパソコンやタブレットではなく、小さなスマートフォンで映画やドラマを観るのが好きだった。その方が親密なように思えたからだ。
 梢はそのスマートフォンを海に投げいれる。一瞬にしてそれは沈んでいく。それと同時にポールの幻想も消えさった。梢は安堵して、深い溜め息をつく。しかし心の奥底から不安が首をもたげる。これを消しさるために今すぐビールが飲みたかった。梢は唇を噛みながら、砂を見据える。それは不思議と鳥を描いているように見えた。別に格好良くはない鴨のようだ。それでも鴨はどんな鳥よりも頑張って飛んでいた。そしてどこまでも飛び続ける。


私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。