コロナウイルス連作短編その5「行列」

 伊与喜銀はマスクを買うために、ドラッグストアの前の行列に並んでいた。その行列は金魚のフンのように長く醜く、銀は店から遥か彼方の場所にいた。彼はコロナウイルスが怖いからマスクを買いにきた訳ではない。彼の同性の恋人である堂場剛志が重度の花粉症であるためだ。同棲しているので、彼が花粉症で苦しむ姿を毎年見続けている。鼻水は洪水のように流れ、瞳はカエンダケのように赤くなり、くしゃみも止まることがない。銀はできるなら自分が剛志の代わりに痛みを肩代わりしたいと思っていた。だがそれは無理なので、マスクを買いにきた訳である。しかし開店時間を過ぎても、店は開くことがなかった。そして行列はさらに長くなっていく。
 いくら時間が過ぎようとも、銀は剛志のために待ち続けた。しかしとうとうマスクを諦め、行列から脱落する人物も現れ始めた。
「ふざけんな、ボケカス!」
 そんな捨て台詞を吐いて帰っていく中年男性もいた。
 そのおかげで、銀は少しだけ前に進むことができる。それでも全然前に進んだ気はしなかった。ドラッグストアは未だに遠い。自分は彼方に揺れる蜃気楼を見ているのだろうか?と、銀は疑問に思い始める。と、行列のそばに小学生の一群が現れた。彼らは手にマスクの袋を持っていた。
「バーカ! バーカ! お前らいくら並んでも、マスクなんて買えねーよ!」
 そう叫んで、彼らは走って逃げていく。これには銀も苛つかされたが、行列に並んでいた老人が怒って小学生を追いかけ始めたのには驚いた。老いてはいながら、その走りは凛としたものだった。銀は心の中で彼を応援する。
 銀はあまりにも暇すぎた。ここまでマスクを買うのに時間がかかるとは予想していなかったのだ。タブレットで音楽を聴くだけでは、この暇は殺し尽くせない。剛志から本を借りてくれば良かったと思う。彼は東野圭吾や浅田次郎のような娯楽小説が大好きだ。銀はそれより芥川賞受賞作などの文学作品が好きなので、いつもはそういった作品を読まない。だが時間潰しに娯楽小説はうってつけだろう。彼は剛志が小説を朗読する時の声を思い出した。彼の声はおおらかで、少し棘がある。まるでサボテンの赤子のような声だった。銀はその声に耳を撫でてもらうのが好きだった。もう既に剛志が恋しかった。
 と、後ろに並んでいる青年に目がいく。彼はスマートフォンで何かアニメを見ていた。それは銀が大好きな『パラダイス警察』というネットフリックスのアニメだった。今作はあまりにも下品すぎて、彼の周りで好きだという人物はいなかった。
「あのお、すいません」
 銀は思わず青年に話しかけてしまう。
「はい、何でしょう?」
「そのアニメ『パラダイス警察』ですよね」
「えっ、知ってるんですか?」
「もちろん!」
 二人はしばらく『パラダイス警察』の話で大いに盛り上がることになる。
「ネトフリのアメリカ産アニメは面白いですよね」
 青年が言った。
「例えば『ボージャック・ホースマン』とか『トゥカ&バーディ』とか。でもこの『パラダイス警察』が個人的には一番面白いですね。ウンコとかマンコとかの下品なネタで、ポリコレを徹底的に揶揄してる感じが最高ですよ。最近のハリウッド映画はポリコレで息苦しくなってますからね。それに反旗を翻してるんですよ。マジで面白いですわ」
 と、ドラッグストアから一人の店員が現れた。彼の顔には疲弊の顔が浮かび、数秒後には自殺してしまいそうな雰囲気を纏っていた。彼はメガフォンを使って、行列を作る客たちに叫んだ。
「今日、マスクの入荷はありません! マスクの入荷はありません! マスクをお求めの方は済みませんが他の店をあたってください!」
 すると人々は怒りを剥き出しにし始める。
「クソ野郎!」
「どんだけ並んだと思ってんの!」
「お前、責任とれよ!」
 そんな罵声を店員に浴びせかけながら、多くの人々は帰っていった。銀も苛立ちを覚えながら立ちずさんでいたが、いい加減帰ろうとする。
「ふざけんな!」
 ひときわ大きな声で、一人の男性が叫んだ。
「俺たちはマスクのためにいつまで待たなくちゃいけないんだ! お前は俺たちに死ねって言いたいのか? 俺たちはコロナウイルスに晒されたまま死ぬまで働けって? ふざけんじゃねえよ! 俺たちは社会の奴隷じゃねえんだぞ!」
 男は店員に詰め寄ったかと思うと、キツい殴打をお見舞いした。店員は折り紙の鶴のように潰れ、そして地面に倒れた。だが男は気にせず、ドラッグストアの中へと突撃していった。しばらく待っていると彼は篭に無数の商品をブチこんだ状態で現れた。身なりはボロボロになっていた。おそらく中の店員と乱闘を繰り広げたのだろう。
「お前ら! 舐められたままでいいのか?」
 男は人々に向かって叫んだ。
「このままじゃ俺たちは社会にブチ殺されちまう。俺たちは自分たちを殺そうとする社会に抵抗しなくちゃいけないんだ、そうだろ! お前らも行ってこい! そして勝つんだ!」
 男は両腕を天に掲げる。
 最初、人々はカルト宗教の教祖を眺めるような目で彼を見ていた。どこか不安定な空気が広がっていた。だが突如、雄叫びが聞こえてくる。銀がその方向を見ると、同じ年頃の若者たちが叫びとともに疾走し、ドラッグストアに突進していった。そして男と同じように無数の商品を持って、帰ってきたのだ。そしてこの姿に触発され、また一人また一人と、人々はドラッグストアへ突っ込んでいった。銀の後ろにいた『パラダイス警察』好きの青年も仲間に加わった。銀は恐怖と好奇心とともにこの光景を眺めていた。だが徐々に自分の身体が震え始めるのに気づいた。この震えは戦を前にした武者の震えだった。
「うおおおおおおおおおおお!」
 銀は甲高い雄叫びをあげながらドラッグストアへと突進する。中は正にニュースで放映される類いの暴動状態であり、あちこちから爆音すらも響いていた。人々は己の欲望のままに商品を奪い取り、自分のものにしている。さらにドラッグストアの店員は凄惨なまでの暴力に晒されている。ドラッグストアには地獄絵図が広がっていた。銀はかつてないまでにワクワクしていた。そして彼は欲しいものを篭に突っこんでいく。痔用の薬、切れていたシャンプーの詰め替え用、剛志が使っている胃薬と風邪薬、栄養ドリンク剤のリポビタンD、いつものより高いビール、パックのベーコン、そして剛志が好きなコーラ味のグミを大量に。ある時、銀は『パラダイス警察』好きの青年を見つけた。彼は大量のメイク道具を持ち去ろうとしていた。恋人にあげるのかと思うと、微笑ましく思えてくる。
 そういえば、俺、何のために行列に並んでたんだっけ?
 彼はふとそんなことを思う。喧騒の中でしばらく考えて、それはマスクのためだと思い至る。だがマスクは実際にどこにもなかった。皆が思い思いに欲しいものを強奪していた。
 マスクないなら、まあいいや。
 銀が帰ろうとすると、床にボロボロの店員が倒れていた。彼に駆け寄り、その頭を蹴りあげる。ウジ虫が潰れるような音がして、店員は動かなくなった。そして外に出て、銀はリポビタンDを飲む。身体中に力が漲ってくる。
「よし、午後から仕事頑張るぞ!」
 後ろから爆発音が響き渡った。


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