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コロナウイルス連作短編その182「手を洗う」

 夫の呉藍厚狭が公衆トイレに入っていくので、呉藍ジアは横に設置してある黄色いベンチに座ることにする。臀部に満ちる感触はぬるく重苦しいもので、目前のトイレの清潔さとは少し遠い。
 と、自分が既に右手にスマートフォンを手にしており、左の人差し指でロックを解除しようとしていることに気づき、驚く。呼吸する、瞬きをする、心臓が鼓動を打つ。それと同列に並ぶかのように“携帯を操作する”が、己の意思とは関係なしに行われていることがジアには少し恐ろしい。最近は特に携帯に視線を奪われすぎて、注意力が散漫になっている気がする。厚狭が自分に呼び掛けることさえ聞こえないことが時々あった。そういう時に彼が浮かべる当惑した表情は可愛らしくて、それを考えると携帯に集中しすぎることも悪くないと思ってしまう。だがそれは全く別の問題だろう。自分をあまり甘やかしてはいけない。
 ジアはカーキ色の鞄に携帯を放りこみ、周囲を見渡す。3階の様々な店が立ち並ぶ回廊、そこにある着物店とオーガニック雑貨店の間に細い通路があり、その奥にトイレがある。通路は人2人分の横幅で、かつ奥行きも10秒歩けば行き止まりにまで辿りつく。正確にはその壁にドアがあるが、それは従業員室に続くドアゆえ自分たちが奥に行くことはできない。
 ジアにとって印象的なのは通路を満たす照明だ。濁った黄色、“きいろ”ではなく“おうしょく”と読みたくなる類いの色彩だ。これに照らされていると落ち着かない気分になる。黄砂に襲われた石油採掘場を塗りつぶす色、吐瀉の果てに唇から現れでてくる胃液の色。厭な予感を抱かせるにうってつけの色彩だとジアは不安に駆られる。だがベンチから立って、通路の入り口まで歩いていくことはしない。ならば、結局は無視できる不穏さなのかもしれない。
 ジアは目の前の壁を見る。その黄色に塗り潰されながらも、木目らしき歪みの黒褐色こそが目立つ壁。それをぼうっと見つめていると、多様な連想が働く。
 この細長い木目は、炭焼きにされたダツのようだ。
 この丸模様を描く木目は、敵に襲われ丸まったアルマジロのようだ。
 この縦へ潰れるように伸びる木目は、歯茎を剥き出しにしながら断末魔を響かせる男のようだ。
 この不自然に白くなっている部分は、上の不自然に黒ずんでいる木目と合わせ、深い悲しみを湛える女性の横顔のようだ。
 “私みたい”、ジアは何となくそんな言葉をこの比喩の後ろに配置してみる。特に心は動かなかった。
「男って公衆トイレで手ぇ洗わないんだよ」
 それに続くように、こんな言葉が頭に響いた。ジアの声ではなく、他の誰かの言葉だ。ぼうっとしていた意識が少しだけ晴れるのを感じながら、誰の声かを考える。答えにはすぐ辿りついた。
 この夏のコロナ再流行前、ジアは古くからの友人である野口赤日と居酒屋へ行った。その時に彼が言ったのだ。
「男って公衆トイレで手ぇ洗わないんだよ」
 今、赤日はホルモン投与などの医学的処置を受けながら男性として生きているが、それにまつわる愚痴を酒を交え聞いている時に彼がそう言ったのだ。
「いや正確に言うと、一応は洗うんだよ。でも2,3秒だけ指先を水につけて、それで終わらせてトイレ出てっちゃうっていう。俺、これに気づいてからみんながどう手を洗うか意識してるけど、マジでみんなこれ。たぶんチンコ触ったとこだけ洗えばいいと思ってんだよな。いやちゃんと全部洗えよと、石鹸はつけなくてもいいけど手の甲も手のひらも含め30秒は洗えと。今、コロナやべーのにさ」
 酔いの勢いで言葉の速度が早まっていく様が可笑しかったのをジアは覚えている。
「いや、トランス男性の当事者が書いた本読んでる時、これについて書いてる文章読んだことあったんだけど、まさかそれが本当だとはって苦笑したよね」
 赤日は正にそんな苦笑を浮かべていたことも、はっきり覚えている。
「それヤバいね、コロナ前からそういう感じだったの?」
「いや、コロナ前に男子トイレ入ったことないからそれは分からん」
「あ、ごめん」
「別にいいよ。でさ、これがいわゆる“男らしさ”ってやつ?と思って、俺もしばらく真似してみたんだよ。洗面台に行って、手を差し出して、そしたらセンサーが反応して水が出てきて、それに2,3秒だけ触れて手洗い終わり、みたいなね。いや、普通に汚いわ、あれは。何であれで大丈夫と思えるのかが分からん。3,4回だけ試してみて、すぐに我慢の限界がきて、いつもみたいに石鹸使って洗う感じに戻った。ということで“男らしさ”テスト、不合格!」
 赤日は笑いながら、ビールを唇に注ぎこむ。
「それで思ったんだよ。男性って自分の体を大切に思ってないよなって。むしろ自分の体を雑に扱うっていうのがカッコいいって。こういう思想って手洗いみたいな日常的な行動にこそ露骨に出るんだよね。これに関しちゃコロナ前ならまだしも、いやそれでもヤバいけど、コロナ真っ只中の今もやられるとお前だけじゃなく周囲の人間も感染するかもしんないしマジ止めてほしいよな。いや……むしろ自分がコロナ罹かって、かつ周囲にもコロナ撒き散らせるっていうのが“男の勲章”ってやつ?」
 赤日がまた笑った。
「ははは、そりゃ自分の体大切にしなきゃ他人の体も大切にしないよね。痴漢してもレイプしても“どうでもいいっすわ、そんな大切なこと?”って態度する男が多いわけだわ」
 酒のノリでそんなことを言ってから自分も笑ったのをジアははっきり覚えている。
「おまたせ」
 ジアを我に返らせたのは、厚狭の声だった。耳朶に優しく触れたかと思えば、穴にするりと忍びこみ、鼓膜を心地よく震わせてくれるような声。
 大きく瞬きをしてから、厚狭の方を見る。自然とその手元に視線が近づいてしまう。彼は両手をベージュのズボン、その両側面に擦りつけていた。垢までこそぎ落とされていくのではないかと思うほど強く、そして何度も、何度も。夜、自分の股を撫でる時の手つきに少し似ていた。
 もしかしたら彼も指先で水に2,3秒触れるだけで、手を洗ったと思っているのかもしれない。
 ジアはそんな疑念が首をもたげるのに驚いた。
 だがその疑念に続くイメージがある。
 2人が住んでいる家の洗面所、細長い鏡の左右には棚が幾つも設えられ、そこにはうがい薬や洗顔用品など様々な日用品が置かれている。適当な並べ方にも見えながら、これはジアによって入念に決められた配置であり、何かが別の場所に置かれていたとすれば、少なくとも彼女には明確に分かる。厚狭にはおそらく分からない。
 洗面台の左側には窓があるが、その下の壁に器具が設置され、タオルが1枚かけられている。このタオルは顔を拭く用であり、よりフワフワした感触のものがかけられている。そして洗面台の右側側面、そこにはフックがつけられ2枚目のタオルが引っかけられている。こちらは手を拭く用であり、感触はよりザラザラしており水をよく吸いこむ。
 こうして2枚のタオルを洗面所に用意すると決めたのはジアだった。正確にいつ始めたかは思い出せないが、同棲を始めてすぐであるのは間違いない。この理由に関してはシンプルに顔と手は別のタオルで拭きたいからだった。
 だが厚狭はこれを完全に無視している。右のタオルはほぼ一切使わずに、左のタオルだけを使う。外から帰ってきた時に洗った手も、朝起きた時目覚ましに水を浴びた顔も左側のタオルで拭くのだ。右のタオルは風呂掃除をした後に足を拭くためにしか使わない。
 もちろん最初は注意をしていたが、彼は毎回ヘラヘラしたような顔を浮かべながら、軽く謝罪の言葉を発し、それで終わる。時々は罪滅ぼしのためか、頬にキスをしてきた。ゆえにいつからか諦めて、注意などしなくなった。だが時々思い出したかのように、または一縷の希望にでもすがるように、厚狭にタオルについて注意する。彼はヘラヘラと笑う。
 もちろんジア自身も面倒臭いであるとか無意識にやってしまったという理由で、左のタオルで手を拭いてしまうという間違いを犯してしまう時もある。その時は決まって罪悪感に襲われ、もう1度手を洗ってから右のタオルでそれを拭いてしまうのだ。だがこれは一時の間違いであって、普段は左と右を使い分ける。コロナ発生後はウイルスの存在を恐れ、なおさら使い分けを徹底している。
 厚狭はしない。相も変わらず左のタオルだけを使い続けている。コロナ禍の最中に彼は大病を患い、それは難病ゆえに一生付き合う必要がある。基礎疾患を持つ人物にとってコロナウイルスはより大きな危険性を持つ。だが厚狭はそれも気にせずに左のタオルだけを使い続けている。自分に特定疾患治療補助金の書類記入も全て丸投げしながら、彼は左のタオルだけを使い続けている。料理に使う食材を自分がずっと吟味している一方で、彼は左のタオルだけを使い続けている。彼の普段着をいちいちネットに入れてアレルギーなどに気をつけながら洗濯をしているのに、彼は左のタオルだけを使い続けている。もしかしたら自分の愛する人が死ぬかもしれないと思っているその時に、彼は左のタオルだけを使い続けている。
 そしてもしかするなら公衆トイレでほとんど手を洗っていないかもしれない。
 厚狭がズボンに両手を擦りつけながら通路出口へ歩いていくので、ジアは立ちあがり彼の背中を追う。するとこちらを振りむいてきて、目をゆっくりと細めた。それから左手を開き、差し出してくる。
 その手はかなり細く、弱々しい。病のせいで体重が大きく減ったせいだ。それでも皮膚に浮かぶ、柔らかな色味の赤は前までと一切変わりがない。その赤が薄い黄褐色や血管の高貴な紫と交わりながら、輝いているのも前と変わってはいない。今は赤みがより濃厚なので、もしかするなら眠気を感じているのかもしれない。さっき携帯を確認した時は、午後3時だった。昼寝にはちょうどいい時間だ。家でベッドに2人で横たわりながら、一緒に微睡みを迎える風景が自然と頭に浮かんでくる。彼のその細くなってしまった手が、自分の頬を撫でてくる。よく体が冷たいと言われる。特に体温が低いというわけではないのに、皮膚の表面は常に冷たい。だからなのか、厚狭の熱に触れるとバランスが取り戻されるような気分になる。心が落ち着く。
 ジアは厚狭の手を握る。瞬間、彼の指が絡みついてくる。
 自分に触れている皮膚のその全てがぬるい。

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。