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コロナウイルス連作短編その146「結局、シスへテロの真似事かよ」

 12月31日、佐波川正勝は実家へと帰ってくる。真っ先に迎えてくれたのは父の鎮雄だった。会うたびに髪の密度は目減りし、白髪も増えていっている。だが笑顔の明るさは遜色なく、この輝きを見ていると愛されているという息子としての実感があり、悪くない気分だ。
 リビングに行くと兄弟が既に集まっている。兄の井垣は炬燵に入り、同性の恋人であるチョン・ヘインと一緒に蜜柑を貪っている。奥の食卓テーブルには弟の憲武がいて、タブレットに真剣に向かっている。妊娠中の彼のお腹は大きく膨らんでおり、横にいる番場伊喜がそれを優しく撫で、憲武が恥ずかしげに笑っている。彼らとパートナーの関係性は長いので、正勝とも顔見知りで、仲は悪くない。
 そしてリビングに鎮雄がやってくる。明るい笑顔を少し引き締める。
「よし、これで皆揃ったな」
 手をウェットティッシュで拭く正勝の耳に、そんな言葉が届く。
「年の瀬はやっぱ家族全員が集まって、時間を過ごす。これが最高だよ、皆といっしょに新年が過ごせること、喜ばしく思うよ。空のうえからきっと母さんも喜んでる」
 ここ毎年のお決まりの言葉だ。最後の文章において、鎮雄の目が潤むのも伝統芸のようなものだった。
「そして、来年は家族がもう1人増える! これは今よりさらに嬉しいことだよ、本当に」
 そう言って、鎮雄は三男である憲武の方を見る。2人の視線が重なる様を、正勝は炬燵で足を暖めながら眺めている。
「うわ、中から蹴ってきた!」
 そう言うと、皆が笑い、鎮雄の顔がピカッと光る。脂ぎってはいない、清らかな輝きだ。彼は今にも憲武を抱き締めたい風だったが、それを抑えようとしているのが傍目でも分かる。そして代わりに彼は、正勝の方を見てきた。そうして正勝はふと、ここにいる全員が“善人”だと思う、自分以外はだが。
「そしてもう1つ言いたいのはだ」
 鎮雄の態度が少しばかり真剣なものになる。
「外国とかに比べればな、日本は外国の人やセクシャルマイノリティって人に差別したりして、優しくない。俺はそれに我慢ならんよ。俺はずっとお前たちの味方だからな。いつでも頼ってほしい。お前らを差別するやつはな、ブン殴ってやるから!」
 鎮雄は拳を握りしめながら、言う。
「来年も良い年にしよう! いや、来年は今年より絶対に良い年だ!」
 井垣が囃しながら拍手をするので、他の皆も拍手をする。正勝も拍手はしながら、自分の視線がどこか冷ややかなものであるのに気づいている。

 正勝は29歳だが、今まで恋人はいたことがなく、セックスもしたことがない。しかしかといって自分のセクシュアリティが抑圧されていると思ってはいない。正勝は自身が全てにおいてマジョリティに属していると感じる。男性、シスジェンダー、へテロセクシャル。そしていわゆるアセクシャルやアロマンティックといった自認もない。性欲や恋愛感情を持っている側の人間であり、そういった欲望を持ちながらも、29年の人生を通じて、そうした経験をほぼ持たないまま今に至っているというだけのことだ。
 高校の頃に阿佐谷樹々という少女とデートしたことはあるが、1度だけで特に進展はしなかった。大学では今や名前も忘れた女性と恋に落ちながら、告白をするとフラレた。その影響か、大学の視聴覚室に勤める30歳年上の女性と不倫関係に陥ることになる。大学近くのTSUTAYAで初めてキスをしたことは未だに覚えている。だが不倫関係ゆえにそう簡単に会うことはできず、それ以上のセックスなどに発展しないまま、関係は自然消滅した。
 その後の約10年間、恋愛関係は一切なく、セックスなどを行ったこともない、全くの空白だ。しかし苦しんでいるなどは特にない。大部分は独りで過ごし、そんな独りの時間は心地がいい。時には会社の同僚や、TwitterなどのSNSで知り合った友人と遊んだりはするので、交遊関係に不満はない。年の瀬においてもクリスマスは独り、年末年始は実家で家族とともに過ごす、これが毎年の恒例行事となっている。正勝にはこれで十分だった。ゆえに例えば女性に軽蔑され相手にされないと嘆く非モテやインセルといった人々に共感できない。恋愛関係を生の中心に据えようとするなとしか思えない。かといって、そもそもそういう恋愛感情や性欲がないのに他者や社会にあるように扱われ、とても苦しんでいるというアロマンティックやアセクシャルの人々にも共感するといった心地にはならない。この状態で彼らに共感するというのは、むしろ失礼だろうとすら思える。
 正勝は心のどこかで“同じような人間っていないのか?”と少し思い、日常のなかで時々そういった人物を探している。だが結局は“まあ、いないんだろうな”という結論に達し、ある種の達観を以て独りで生きている。正勝はこの現状に満足していると、自分で思っている。

 夜は皆でテレビを観ながら、盛大に寿司を食べ、そして大晦日を家族で祝う。
「ガキ使、今年やってないんだよなあ」
「まさか“なくしてから、初めてその大切に気づく”みたいなのを、ガキ使では感じるとはね」
「紅白を観ましょうよ。日本の大晦日は紅白、というものを今年は初めてできそうではないでしょうか」
「いやあ、紅白はあれだぞ、“くぃあべいてぃんぐ”というのをやるMISIAが最後の歌手だ、紅白はそういう多様性で金を稼ぐやつらだ、俺は好かんねえ」
 ワイワイと騒ぎながら5人が寿司を喰らう一方、正勝はタブレットで適当にTwitterを眺めている。
「おっと、そういえば土産の酒出すの忘れてた」
 そう言って井垣が冷蔵庫から酒瓶を持ってくる。四次元世界のような銀紙に“しぼりたて原酒”と書いてある。
「冷えまくってるこの日本酒を、寿司といっしょに飲むのが旨いのよね」
 井垣は6つのおちょこへ丁寧に酒を注いでいく。
「憲武、お前はこれ一杯だけな」
「へいへい」
「心配しないでよ、僕が君の分も飲んであげるから」
 そして6人いっしょに、その酒を味わう。万感を絞りだすような声が部屋に幾つも響くなか、正勝はその旨さに驚かざるを得ない。口に入った瞬間は優しい感触があるが、低温やけどさながらのスリルあるアルコールの辛みが、加速度的に口へ広がっていく。その鮮烈さの奥からは、濃醇で厚みがある味わいが現れる。拳を握りしめる時の力強さにも似ている。旨かった。普段はワインを嗜む程度に飲むくらいで、酒を好き好んでいる訳でもないが、それを越えて陶酔の欲を刺激してくる。
「これは確かに旨いわ、もう一杯くれ」
「おっ、ノリがいいな。オーケイ」
 井垣が酒を注ぐとなると、正勝はまた一気に飲みほす。そして柔らかさと辛味のあわいにある絶妙を味わいながら、鯵を醤油に浸してから、喰らう。旨かった。井垣の言う通り、寿司と相当によく調和する。このまま飲みまくって食べまくるのもいいな、正勝は思う、だけどこのままやれば完全に酔っぱらうな、正勝はそうも思った。だが指や喉は勝手に動く、今はこの勢いに任せたくなる。
 そうして2時間後、正勝は完全に泥酔していた。毛穴の1つ1つからバーナーの火柱が立っており、今にも気持ちよさで爆発してしまいそうだ。それでいて今自分が“毛穴の1つ1つからバーナーの火柱が立っており、今にも気持ちよさで爆発してしまいそう”という状態だと、明瞭に言葉ととして形容できるほどの明晰さも残っている。彼にとって一番心地がよい酩酊状態にあった。
 少しだけ落ち着こうと、飲み食いをやめて食卓を眺める。皆、本当に楽しそうだった。井垣は恋人に酒を注ぎ、ヘインは顔を赤らめながらそれをチビチビ飲んでいく。憲武が横にいる伊喜に耳元で何か囁いたと思うと、伊喜は無邪気に笑い始める。そして鎮雄はバカ笑いを響かせながら、サーモンをバクバクと喰らう。
 ああ、こいつら幸せな姿、見せつけやがって。
 そんな言葉が心のなかで響き、自分でも驚いた。いや、おい、こういう人生に“満足”してるってお前自身が何度も思ってなかったか? そうツッコミを入れながら、だんだん明晰さが失われ、とりとめのない金魚の糞のような言葉がダラダラと続いていく。
 幸せ、はいはい、幸せ幸せ、ゲイとかトランスとか言いながら、結局、シスでへテロで普通の日本人カップルの真似事してるだけじゃねえかよ、コイツら、兄貴も何か、あーんとかされて恥ずかしくねえのか、昔は愛なんか要らねえって感じでもっと孤高だったじゃねえかよ、キムチ食って丸くなったのかよ、憲武もこっちはこっちでムカつくよな、トランスだけどゲイって意味分かんねえんだけど、じゃあ女のまんまでいいだろ、そんでこのまま子供生んで、戸籍とかは特に変えないままそのまま結婚して、抑圧者の婚姻制度にのっかって、周りのかわいそうなその他マイノリティにマウントだろ、幸せ幸せ、箕佐ってアイツのこと呼んでやって、デッドネーミングってのをしてやりてえわな、今なら酔っ払ったノリで間違えたって笑って許してくれんだろ、家族だし……あーあ、つまんねーな、つまんなくなったよな、お前ら。
 
 気づくと、見慣れた自分の部屋にいるので、正勝は驚く。そしてすぐにこれが夢だと直感するが、何故か手も足も自由に動かせるので面食らう。最後に辿りついた結論は、これが明晰夢だということだ。それでも今まで明晰夢を見たことなど一度もなかったゆえ、何か狐につままれたような心地になる。だが何にしろ、指は水中に漂う海草のように動かせるし、足も水面を疾走する仙人さながら動かせる。
 どうせ明晰夢を見ているのだし、何かやってみたいと思う。空を飛ぶ、多元宇宙を突き抜ける、女性とセックスをする。そう考えつきながら、実際にやりたいという思いは驚くほど小さい。そして出てきたのは、5000円くらいの高めの赤ワインとスーパーでは売っていない高級韓国のり、そしてちょっとフカフカそうなソファーだった。正勝はそこに座り、ワインをグラスに注ぎ、飲んでみる。芳醇で、美味しい。高級韓国のりも食べてみる。風味が豊かで、歯触りが小気味よい。そしていつの間に目の前に置いてあった建築の写真集を、彼は手に取る。中国の現代建築を特集する写真集で、彼が最も愛する王澍の中国美術学院の象山キャンパスも掲載されている。広い敷地に立てられた幾つもの建物、それぞれ全く異なる材質や様式、表情を伴いながら、そのどれも“王澍”的としか言い様のない作家性に裏打ちされており、いつ見ても陶酔してしまう。コロナ禍が終わり、旅行が簡単にできるようになったなら、絶対に中国に行きたかった。各地にある王澍の建築を見て回るのだ。
「起きてよ、兄さん」
 そうやって激しく揺り動かされ、正勝は眠りから目覚める。いつものように目が干からびており、擦ると大量の目脂が出てくる。頭も少し重い。テレビの真上にある時計を見ると、午前1時を回っている。最初は特に何も思わなかったが、それが意味するのが今は2022年1月1日午前1時であるということと分かると、愕然とした。少しおしっこが漏れた。
「は? もう0時過ぎてる?」
「とっくに過ぎてるよ」
 正勝を起こしたらしい憲武が苦笑いでそう言った。
「いや、マジで何で起こさなかったんだよ?」
「おいおい弟を困らせんな、泥酔しすぎて起きなかったのお前だからな」
 井垣がそう言うと、皆が笑った。物心ついた時から、1月1日午前0時に起きて家族みなで新年を祝うのは恒例行事のクライマックスだった。これを逃したことは、記憶している限り1度もない。だが今年はそうなった。正勝は呆然として、微動だにできなかった。幼稚なこだわりと分かりながら、立ち直れずにいる。家族は自分以外笑っている。己の全てを馬鹿にされているような気分になる。

 午前1時半、家族は歩いて3分ほどの距離にある神社へ赴く。本格的な初詣は2日になるが、真夜中にこの神社へお参りするのもまた恒例だった。
 外は細胞が壊死するほど寒い。手が今にも凍りついて、そのまま星さながら爆裂するのではないかとすら思える。5人は寄り集まりながらお喋りを続けるが、正勝は少し距離をとって歩いている。不機嫌であることを露骨に示すことで、誰かに構ってもらいたい。だが殆ど無視されていた。だからダウンのポケットに両手を突っこみ、道行く人々を眺めている。と、横を子供が一瞬に横切っている。遠くに見える信号まで全速力で走っている。「走んないの!」という女性の声が聞こえるが、子供は気にしない、風の妖精さながら世界を駆け抜ける。
 そして正勝もいきなり走りだす。速攻で伊喜も、ヘインも、憲武も、井垣も、鎮雄も追い抜き、神社へ向かって走っていく。最近読んだ本に、足が地面につくとブレーキがかかるようにして速度が落ちる、ゆえに接地時間が短ければ短いほど走るのは速くなると書いてあった。なので正勝は意識して、足を早く早くあげながら走る。ピッピッピッ、ピッピッピッ、ピッピッピッ。そう甲高い音が頭に自然と響き、そのペースで進んでいく。確かに自分が凄まじく速く走っているような気分になる、風を切る気分が心地よい。このままどこまでも行けるような気がした。
 あっという間に、神社へと到達する。肩で息をしながらも、達成感とともに後ろを向くと、誰もいなかった。伊喜も、ヘインも、憲武も、井垣も、鎮雄も誰もいなかった、誰もついてきていなかった。いっしょに走っていた子供もどこにもいなかった。そうか、正勝は思った、そうか。急に吐き気が込みあげてきて、地面に突っ伏す。そして大量のゲロをブチ撒けた。寿司の破片が粘液にあまねく散らばっている。正勝はなおも餌づき続ける。それを見ているのは、白光に照らされ巨大な幽霊のように佇む、石造りの鳥居だけだ。


私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。