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コロナウイルス連作短編その105「キャラメルが口でとろけてる」

 朝食を終えたあと、仕事に出かける恋人の六路萌奈を、寺田風午は玄関で見送る。彼女が彼の左頬に軽くキスをし、彼が彼女の額に軽くキスをする。
「今日は有沢とセックスしてくるから遅くなるよ」
「オッケオッケ」
 そして萌奈は部屋から出ていく。
 しばらくタブレットでニュースを読んだ後、風午は仕事を始める。来年冬頃に日本で発売されるアメリカのRPG、その翻訳だ。学校で負け犬と呼ばれる少女が、突如学園の女王であるビッチとともに古の悪を退治する旅に出るというものだ。負け犬主人公、女王ビッチとその恋人、更に謎の天使という4人がメインキャラクターであり、彼女たちのセリフを訳し分けるのは、性格設定が個性的で面白いからこそ骨が折れる。Active Time Battle Systemというファイナル・ファンタジーシリーズからの影響が濃厚であるリアルタイムのコマンド操作も疾走感があり、心地よいまでに目覚ましい。今作の日本での成功が自分の翻訳にかかっていると思うと背筋が伸びざるを得ないが、この責任感が程よい緊張を与えてくれる。やりがいがある。

 午後1時ごろに休憩をとり、昼ご飯として豆腐麺を食べる。脂質や糖質が低い代替麺ということで、健康を気にする萌奈が買ってきた。彼女が「何かボッソボソで不味い」と落胆する一方、風午の嗜好にはシックリ来た。豆腐の独特な食感が麺として上手く昇華されており、青じそ風味のつゆをたっぷり含んだ麺を啜るのが楽しい。1パック分はあっという間に貪ってしまうので、いつも2パック平らげてしまう。
 豆腐麺を啜りながら見るのは、ゲームの実況動画だった。最近のおきにいりはホラーゲーム実況だ。子供の頃からホラーは苦手なのだけども、恐怖への好奇心だけは人一倍あって、好奇心に負けて怪談話を聞いては白目を剥き、ホラー映画を観ては夜眠れなくなった。とくに激しい愛憎劇を繰りひろげたのはUSOジャパンというテレビ番組だ。ここでは心霊写真や心霊映像を大量に放映しており、全国の小学生の膀胱を握りつぶしていた。風午もそんな小学生の1人で、とほうもない恐怖を喰らいながらもその魅力に抗えず、土曜の夜にはテレビの前に正座していたし、ある時には恐怖が極まったあげくにおしっこをブリーフにブチ撒けたこともあった。
 そんな日々を、今ホラーゲーム実況を見ながら思いだす。最近はBBCというYoutuberに嵌っている。実況中の厭味のないオーバーリアクション、独特の猫撫で声で紡がれる他愛ない雑談、このバランスがいい。何故、イギリスの公共テレビ局と同じ名前かは分からない。いつもはAPEXや鉄拳7をプレイしているが、夏は毎年ホラーゲーム実況をするそうだ。現在プレイしているのは赤マントという作品だった。いじめっ子に強いられ、主人公は廃校を1人で肝試しすることになる。この様がVHSレベルの画質で描かれるのだが、この粒子が荒すぎる映像が恐怖を煽りたてる。BBC自身も「これはアカン、これはアカン」と連呼しながら、恐る恐る廃校を探検していく。トイレに通気口があり、入り口を覆う木材を壊した後、その中へ入っていく。言葉は臆病ながら、驚くほどの大胆さでガンガン通気口を進んでいくのだが、突然前から巨大ムカデが現れ、絶叫とともに逃亡をかます、その光景に思わず風午は笑ってしまった。もはや支離滅裂に喚きながら、命からがらトイレへ逃げ帰るが、そこから出た途端、不気味な赤マントが登場し、BBCは絶叫する。
 モォォォオオオオォォォオオオ!
 その逃げ惑う牛の呻きのような声に、爆笑が止まらなくなった。

 昼食を終えて少し眠くなったので、ソファーで昼寝をしたら3時間が経っていた。窓からは眩い橙色の空が見えてくる。
「やっちまったなあ」
 テレワークになってから、よくこうして昼寝を大失敗する時があった。最初はだいぶ罪悪感も抱いたが、寝ることは良いことだと開き直ることにした。背筋を伸ばすと身体が眠気になまっていると思えたので、運動することにする。
 外に出る。熱がまだ空気の粒子にこびりついているような感覚がある。自転車を触るとそんな熱が誇張されたように炸裂している。尻をサドルに据えて、風午は散策に出発する。黄昏に蟠る薄まってきた熱みのなかを、自転車で突っ切るのは気持ちがいい。自分が熱風を切り裂く刀になった気分だ。
 いつもの自宅から駅まで散策道、その途中には森のような場所がある。ブロック塀で区切られた区間で木々が空高く伸びながら繁茂しているのだけども、その葉々の緑の深さたるや闇のようで、この猫の額のような区間はいつであっても薄暗い。まるで自然によってできた古びたトンネルのようだ。そして森の向こう側にはゴルフの打ちっぱなし場があり、森と競いあうように巨大なネットが張ってある。その緑は葉々と比べればハツラツとした新緑といった風だ。この道は、敢えて自転車から降りてと歩いていく。ゴルフボールが飛んでいく小気味よい響きを聞きながら、影の優しい冷たさを感じながら、ゆっくりゆっくりと歩いていくのが風午は好きだった。
 そして駅周辺まで行き、近隣の郵便局のポストへ請求書の入った封筒を入れる。ここで何となく一息ついた。向こうを見ると、高貴な紫の空と、影の黒に抱かれた街並みが寄り添いあうのが見えた。ふと、そういえばこの郵便局から向こうの地域へ行ったことがないと思う。好奇心が湧いてきた。行ってみようと思う。とはいえキリがないとは思うので、取り敢えず携帯で30分のタイマーを設定し、風午は出発する。

 進んでいくごとに、そんな劇的に風景が変わっていく訳ではない。だが街並みの雰囲気が緩やかに変わっていくのを、瞳よりも皮膚が微かに感じ取っている。ゆっくりと自転車を漕ぎながら、風午は風景を眺める。山吹色の看板が屋根を包みこむ、昔ながらの焼肉屋。そのプラスチックのような質感の看板は、ところどころ破れており、年季を感じさせる。とある八百屋の軒下には、夕刻の橙にも鮮やかに際立つ色とりどりの野菜たちが並んでいる。古ぼけたクリーニング屋では店主がシャッターを閉めようとしているが、1人の中年女性がやってきて2人で会話を始める。そして風午は若い男性が秋田犬を散歩させるのを見た。口の周りをペロペロ舐めながら、犬はタッタカと道を歩いている。それを見るだけで何故だか心がおどった。
 今の自分は誰かに似ていると、ふと思う。しばらく進んだあと、思い出す。小学生の頃に国語の教科書で読んだ、芥川龍之介の短編『トロッコ』だ。偶然出会ったトロッコに乗って、1人の少年が未知の世界へと進んでいく。彼の冒険が素朴で、しかしワクワクさせるような筆致で描かれていたように思う。そこには同乗者がいた気がする。確か大工で、少年にキャラメルをくれたように、風午には思いだせる。彼は今、萌香と出会った頃に買った自転車を駆って、その少年のように冒険していた。気分は悪くない。
 風午は小さな橋へと辿りつく。石造りの、武骨な橋だ。その下にはやはりこじんまりとした川が流れているが、覗きこむとかなり惨めに濁っている。風午の家の近くにある、もう少し大きな河川も泥のように濁っている。汚い川ばかりだなと、風午は思わず苦笑する。先に自然のトンネルを進んだ時のように、橋の上を歩いて渡ってみる。足の裏に、石の内を静かに流れていく波動のようなものを感じた。
 だが渡り終わると突然、携帯からタイマーが流れ始める。もう30分が経ったらしい。周囲を眺めてみる。自分の家の周りに広がる光景に似ているのに、そことここは確実に違うという奇妙な確信が心臓を掴んだ。似ているからこそ、違いが際立つ。より、遠くへ来てしまったような感覚がある。『トロッコ』において冒険の果て、少年は全く知らない場所に放り出されてしまう。そんな時、彼は自分と同じような感覚を味わったのだろうか。ここから確か、少年は来た道を自分の足で以て、全速力で走っていく。一心不乱に大地を駆け抜けた末、自分の家に辿り着き、母親に迎えられた少年は号泣する。こういう話の流れだったと思うが、細部が通りだったかは定かではない。しかし少年が抱いた不安は鮮烈に覚えている。それでも2人の間で違うのは、少年は子供で自分はもう28歳の大人だということだ。
 目についたのは、ベージュに染まった正方形の箱のような建築だった。ファサードにはほぼ装飾がなく、柔らかな印象を与える。窓には色紙で作られた笑顔の動物たちが張られており、この建築は児童館か何かだろうと予想ができた。ここは確かに自分の場所から隔たっている。だがこの親密な雰囲気が、すぐに好きになった。今度もっと散策しよう、そう思いながら、橙に黒が混じり始めている空を背に、名残惜しくも引き返すことにする。

 途中でファミリーマートを見つけ、入っていく。ここでしか売っていない期間限定のペプシコーラがあるのだ。寄り道せずに早々にボトルを掴み、お金を払って出ていこうとすると、ある若い男が店内にやってくる。彼の顔、その艶やかに垂れた瞳に見覚えがあった、萌香のセフレだった。そして相手も風午がセフレの恋人だと気づいたのだろう、顔面を蒼くして、居心地悪げにコンビニを出ようとする。だが何か興味が湧いて、風午はその男、有沢重春を呼び留める。
「何してんの?」
「えっ、いや……」
 重春は立ち止まるが、口篭もる。
「別に、オレの恋人とセックスしてるから報復に来たとかじゃあないよ、安心しろって。これに関しては全部合意の上だから。アイツからも説明されてるだろ」
 重春の緊迫した表情は、少しだけ緩む。
「でも何でここに来たか言わないとこのペプシブチ撒ける、ハハ」
 実際にそれを説明すべきは自分だと思いながら、風午はペプシのボトルを重春の前に掲げてみせる。
 店内に設置してある休憩ブースに陣取った後、重春は話しはじめる。
「俺はこの近く住んでて、それで萌香が来て、まあアンタも聞いてる通り今日はしてた訳だけども、その時にゴムがないってことに気づいたんだよ。だから買わなきゃなって思って、コンビニ来たんだよ」
 2人をぬるい沈黙が包みこむ。
「だから言いたくなかったんだよ!」
 重春は大袈裟なまでに濁った息を吐きだす。耳が焼けつく太陽さながら赤くなっている。
「いや全然気にしてないよ」
 風午は言った。
「むしろそういうことをする人間が、彼女のセフレで良かったと思ってる」
「どういうことだよ」
「避妊だとか性病だとかを気を付けながら、互いの身体についてキチンと考えてするセックスが一番いい。これが最優先であるべきだよ。で、アンタはセックスを中断して、雰囲気とかを壊すのを躊躇わないでゴムを買いに行くっていう真摯さがいい、俺は評価するよ」
「……何だお前、変なの」
「別に変で構わないよ。ところでアンタ、ガリガリ君喰うか?」
「は?」
 風午はガリガリ君を2本買う。風午はコーラ味を喰らう、重春はソーダ味を喰らう。
「オレにとって面白い映画のお約束にこんなのがある」
 風午はモシャモシャとガリガリ君を喰らいながら言った。
「セックスを描く時にゴムを着ける場面、もしくはゴムについて話しあう場面がある作品は面白い、というか個人的に傑作ばっかって言っていいかもしれない。そういう描写を入れる映画監督は人間の身体について真剣に考えていて、ゴムはその象徴な訳だよ。肉体を丁寧に扱う映画がオレは好きなんだよな。その中の1本に、ゲイのハッテン場を描く映画があった。主人公の青年は色々な男とセックスするんだけど、ある場面でゴムを着けないでセックスしようとする男が現れる。彼のノリに圧されて、主人公はゴムを着けないでセックスしちゃう訳だけども、後にこの男が殺人鬼というのが発覚して、主人公も狙われるんだ。この監督は、セックスの時にゴムを着けない人間は人を傷つける人間だって提示するんだよ。こういう当然だけど、実際には蔑ろにされるゴムにまつわる事柄を真正面から描きだすっていう、監督の倫理観の誠実さが面白いと思ったし、作品自体も傑作だった。お前もこの映画に出てくる殺人鬼みたいな人間じゃなくて良かったよ」
 重春は怪訝そうに風午の方を見つめる。
「素朴な疑問なんだけど……でもお前自身はセックスしない訳だろ、何でセックスしないの?」
「ははあ」
 重春は笑った。
「いつものことだが、これは説明に時間がかかる。"恋人には関係の外でセックスしてもらって構わない"って今のオレたちが辿りついた結論にまで行くのに3日間はかかるね、実際萌香とはそこまでの時間をかけて議論を重ねて、今がある」
 重春はジョリジョリとガリガリ君ソーダ味を喰らう。
「セックスしない/セックスしたくない/セックスできない/セックスする欲求がない、そうやってオレの状態を言えるかもしれないが、どれもある意味本当で、だがどれも微妙にその説明になってない。完璧に説明できてる言葉を、俺自身は見つけたことがない」
「ああ、何かそういうの聞いたことあるよ。確か、アセクシャルだとか何とか」
「どうなのかね。まあその言葉は俺の状態を説明するには手っ取り早いよ、だがぶっちゃけこれ1語に要約するのは納得が行ってないところもあり……」
 2人は一緒にボリボリとガリガリ君を喰らった。静寂にボリボリという音だけが妙におかしく響く。そんな風に喰らっていると、風午はガリガリ君を食べ終わってしまった。棒に"あたり"とは書いていなかった。残念だった。
「いや、長居しすぎた。早く帰んなきゃ」
 重春が言った。
「萌香に、ちゃんと俺らがコンビニで偶然会ったことちゃんと言っとけよ。遅くなった言い訳にもなるし、何よりこの関係についてはちゃんとオープンなものにしておきたい。秘密はなしだ」
「……分かった。じゃあな」
 重春は帰り、風午も自転車に乗って家へ向かう。

 家で、新作公開に備えて、シリーズ3作目の『ワイルドスピード TOKYO DRIFT』を観ていると、萌香が帰ってくる。
「何か有沢と偶然会ったんだって? 嫉妬してセフレブッ殺しにきたの? 何にせよ説明責任を果たしてもらいましょうかね」
 萌香がそう言うので、風午は今日のことについて嘘偽りなく語っていく。
「芥川の『トロッコ』とか、私も読んだな」
 萌香が頬を掻きながら言った。
「でも主人公がもらったのってキャラメルだっけ。何かかりんとうとかだった気がするけど」
「そうだっけ。載ってた教科書、実家にしかないな」
「いやいや、今はもうネットで読めるでしょ。何か、著作権切れのやつをネットに掲載してるサイトとかあったじゃん」
「そういうのだと、何か風情がなくないか?」
「まあね、分かんない方がキモチワルイ。スッキリしたい」
 そうして萌香が調べると本文には"駄菓子"だとか"包み菓子"としか書かれていなかった。
「今日のセックスはどうだった?」
 風午が尋ねる。
「いやあ、風午のせいで変なことになった」
 萌香がハハハと笑う。
「今日は抱かれたい、相手の性欲に呑みこまれたいって感じでセックスしに行ったんだよ。でも有沢、風午と会って何か動揺して、チンコが勃起しないっていう。だから今日は挿入なしの、触りあうみたいなセックスしてた。性欲が溶けあう、みたいな感じかな。したいのとは違うけど、悪くなかった。たまにはこんなのもいいかなって」
 萌香は自分の鼻を摘まんだ。
 彼女は早々に寝室へ行くが、風午は『ワイルドスピード』を最後まで観る。この3作目と5作目の『MEGA MAX』彼のお気に入りだった。8作目の『ICE BREAK』は最低だったので、最新の『JET BREAK』が面白いか少し心配はしている。
 寝る前に麦茶を飲もうと冷蔵庫を開けるのだが、その中にお菓子の箱がある。キャラメルだった、おそらく萌香が買ってきたんだろう。風午は箱から1つ摘まんで、食べてみる。濃厚な甘味に塩のカラッとした風味がのっかり、口のなかでとろけていく。旨かった。明日もいい1日になる、そんな気がした。

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。