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コロナウイルス連作短編その162「今年で30歳になる」

 相川周防は曇天の道を歩いている。その途中で、背の高い少女と母親らしき中年女性が嬉しげに歩いているのを目にする。少女は中学生か高校生にしか見えないが、お腹が大きく膨らんでいる。明らかに妊娠しており、とても幸せそうだった。
 あんなガキがガキ孕んでんのに、何で美桜には子供ができないんだよ?
 周防は妻である美桜とここ2年ほど子供を作ろうとしていたが、彼女はいっこうに妊娠することがない。卵子に関しても、精子に関しても、両方の生殖器に関しても検査をしたが、清々しいほど異状は見られない。困惑のままに不妊治療を行うが、今のところは全くの無駄だ。
 あのガキの乳首なんかクソ真っ黒なんだろうな、黒人みたいに。
 心のなかでそう吐き捨てるが、周防は唇を噛みながら、ゆっくりと静かに、声を出して言い直す。
「ア、フ、リ、カ、け、い、み、た、い、に」
 そのまま歩いていると、彼は妙な建築物を見つける。この辺りは住宅街で一軒家から小さめのマンションまで、あらゆる平民的住宅形式が軒を連ねていた。中でもパステルカラーに包まれコンパクトな、周防にとっては果てしなく無難なアパート群が密集する場所があるが、その1つに隣接する殺風景な駐車場、その傍らに真白い長方体の建築物があるのだ。外壁は細菌やウイルスの類を虐殺するような濃厚な白に覆われる一方、前面は完全なガラス張りでその奥に広い空間が伺える。こんなものは初めて見たと周防は思う。だが実際この道を通るのは久しぶりで、見覚えがないのも無理はないと思い直す。
 興味が出てきて近づいていく。やはり建築物として異質だ、未確認飛行物体か何かによって一夜のうちに建設されたのでは?と勘ぐりたくなるほど、この土地に暴力的なまでに馴染みがない。暴力的というなら外壁の眩い白さもそうだ。SFに現れる、人類を一瞬で抹殺する殺人光というべき代物は得てして白い。
 ある程度まで近づくと、急にガラスに何かが書かれていることに気づいた。Gallery Antoinetteというアルファベットの羅列だ。ここはアートギャラリーかと、合点がいく。だがそうなるとやはりこの土地にそぐわない。何故こんな乾ききった住宅街にアートギャラリーなどが存在するのか。意図が掴めない。
 しばらくガラスの前でグズグズしていたが、意を決して中に入ってみる。中もやはり白いが、外壁のものとは種類が違う。こちらはいわゆるモダニズム風の、虚飾が一切ない芸術的白といった風で、確かに無菌的ではあるのだが圧迫感はない。そこに微かな橙の灯りがかかりながら、それでも内装は白ばかりが際立つ。受付など、何らかの白以外の材質の何かがあるが、その差分を抹消して全体の印象は白であると断言したくなる欲望に駆られる。そして凍てついている。3月末から急に冬の寒さが戻ってきた印象を受けるが、内部の空気は外部の寒さよりも凍てつき、不穏だ。
 受付には1人の女性がおり、パソコンに向かっている。挨拶もない。何でこんなところにギャラリーが?と聞きたいが、キーボードを執拗に激しくカタカタ言わせ、露骨なまでに仕事中といった風だ。こうなると邪魔をするのも憚られる。だが不愉快ではない。
 そうして誰に促されるでもなく、奥へ行く。そこにはだだっ広い空間が存在していた。中心には今にも折れそうな柱が1本だけ存在する以外、目立った物体はない。代わりに天井には配管や梁などが剥き出しになっており、建築の臓器を見ているような感覚に陥る。今、周防は解剖学の授業を受ける新米医学生といった風だった。工場か何かをリフォームしたのか?と思いながらも、それにしては建築自体が小ぶりすぎる。こんな小さな工場で何が作れたというのか、傘の先か、それで人間を失明させる心づもりか。
 壁に何らかの四角い物体がついていると気づいたのは、この後だ。4つの壁に幾つか、何かが架けられている。しかし凝視したとて、黒いモヤモヤしたものが白い壁に浮かんでいるとしか思えない。
 確認するには近づくしかない。なので周防は近づく。
 そうして何らかの物体がキャンバスだと気づく。なので最初はその芸術作品が抽象画かと思った、殺風景で無難な抽象画だ。ほぼ完全に白で覆い尽くされ、何となく黒いものがある。なおも近づいていき、最終的にその黒いものが人間の毛だと分かった。厭な気分になった。そしてその縮れ具合は明らかに人間の陰毛だった。それでも救いだったのは実際の毛ではなく、絵だか写真だかであったことだ。しかし陰毛だけが真白いキャンバスに浮かんでいるのは異様だった。毛並みでそれがヴァギナに生え揃った陰毛だと分かったが、整えられていない、毛先があらゆる方向に拡散したその陰毛に少し圧倒された。
 だが周防はどんどん、引力に導かれるかのように近づいていく。キャンバスに塗られている絵の具はただ薄く表面を覆っている訳ではなく、所々妙に隆起している。作者は相当量の絵の具を使用しているのが伺える。それでいて陰毛以外の空間を異常な丁寧さで塗り潰し、そうして陰毛の1本1本が繊細なまでに際立っている。そしてここでやっと陰毛は写真であることに気づく、だからこそ生々しい。おそらく写真を拡大してキャンバスに張りつけたうえで、陰毛以外を白い絵の具で塗り潰しているんだろうと、周防は感じざるを得なかった。人間の陰毛を強調するためにここまでのことを成す芸術家を得体が知れないと思う。
 ふとキャンバスの横に小さな紙が張ってあるのに気づく。横長だった。そこに“重国さやか”と記されていた。明らかに鉛筆書きであり、小学生が書いたような拙さだった。もしかするなら、この陰毛の持ち主の名前だろうか。喉に陰毛の束を注ぎこまれ、窒息していくような気分だ。
 背中の産毛が逆立つ勢いで、周防は周りを見渡してしまう。壁には先に見た通り白いキャンバスが幾つも架けてあるが、その白い空間に浮かぶ黒は、おそらくそれが全て陰毛だと気づき、手が震えた。だが足は横のキャンバスへと動いていった。その陰毛は先と毛の生え方が明らかに違い、かつ陰毛があるはずの領域にも、不自然に白で塗り潰されている部分があった。横を確認すると“柁山武”という名前が書かれている。おそらく、これは男性の陰毛だ。思わず自身の股間を見つめる、黒いスーツズボンが艶もなく鈍く輝く。これは洗濯機でも洗うことができる。
 右側の壁に、また1つのキャンバスがある。そこに浮かぶのは女性の陰毛だった。だがこれは毛並みが繊細に整えられている。潔癖的だ、白人のポルノ女優や、それこそ綺麗好きな美桜の下腹部を想起させる。想起した瞬間に、猛烈な吐き気とともに横の名前を確認した。
 “貝葛米里”と書いてある。少し安堵した。
 だが筆跡に癖があった。貝、葛、里の3文字は別段特徴はない。だが米に関して、上から下へと続く縦線が異様なまでに長い。意図的にバランスを破壊するような書き方で、このせいで米という漢字だけ2文字分の大きさとなっている。
 美桜は、こういった止める必要のない縦線、串刺し線というべき線を極めて過度に長く書く癖があった。例えば中、例えば東。そして相川の川という字、この右2本を美桜は凄まじく長く書くのだ。役所の書類、その枠をいとも容易く突き抜けるほどだ。反省はない、変える気は一切ない。これを見るたびに周防は呆れながら、愛おしさを覚えていた。
 この米という文字を見て、いつもと同じような気持ちになった。

 周防は家に帰る。夕食の前に風呂に入る。これはいつものことだ。
 彼はいつも髭を剃る使い捨てカミソリで、陰毛を剃る。彼の陰毛は豪毛と呼称できるほどに固い、見るたびに頭には鉄条網が浮かぶ、難民の手に無数の傷を刻みつける鉄条網だ。周防はまずボディソープを泡立てて、陰毛を泡で包みこむ。白と黒のコントラストが鮮烈だ。
 股の付け根まで届く毛にカミソリの刃を当てて、剃毛を始める。刃をかたくなに拒絶するほどに毛は固いゆえに、カミソリはゆっくりと動かす。アゴや口の髭とこの陰毛を、同じく人毛と呼んで許されるのか、そう思わざるを得ない。歩くような速さで陰毛が剃られていき、しかし一気には剃り切れないゆえに、定期的に刃から毛を取り除いていくことが重要だ。
 気の遠くなるような作業だった。
 陰毛はぺニスの周囲だけに生えている訳ではない。ぺニス本体の茎の部分にも生えるゆえ、ここにも刃を当てる必要がある。だが細心の注意を払うべきはここではない。睾丸を包みこむ袋状の皮膚にすら陰毛は生えている。ここに関しては皮膚が他と比べて弱く薄いゆえに、力の入れ方に注意する必要がある。陰毛1本1本をより集中して剃っていく。
「ねえ、いつもよりお風呂長くない?」
 ドア越しに美桜の声が聞こえてきた。
「今日はゆっくり入りたい気分なんだよ!」
 ボリュームは大きくしながら、強い響きにはならないように気をつける。
 なおも睾丸袋の毛を剃っていく。マスターベーションやセックスで刺激を受けたぺニス部分の皮膚よりも、睾丸周りの皮膚の方が色黒なのが不思議だった。ふと、彼は黒ではなく、白い毛を見つける。白髪も他の毛と同じく剃るだけだ。
 とりあえず、全てを剃った。綺麗とは言いがたい。剃り残しが炭化した切株さながら股間にびっしりと並んでいる。そして床には膨大な量の陰毛が落ちていた。排水溝を覆う蓋と、網を取った後、シャワーの激流でその全てを流し去る。
 別に詰まっても構わない、なんなら詰まればいい。

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。