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コロナウイルス連作短編その199「僕たちはそう馬鹿じゃない」

 布野久遠はスーパーマーケットの野菜売り場でパート店員の松土みち子と商品の鮮度管理について話していた.正社員とパート店員という立場の差はあるゆえ自然と権力勾配が生まれざるを得ない.ゆえに他の社員には彼らに居丈高に接することが多いが,久遠はパートやアルバイトに対してこそ,むしろ誠実に接しなければ組織は基盤から崩れていくとの持論がある.だからこそ他の社員を反面教師として,久遠は彼らへの礼節を常に忘れないよう心掛けている.ここにおいても安い時給で熱心に働いてくれるみち子を事あるごとに誉め,感謝を示す.
 ふと,みち子の奥に広がる鮮魚売り場,そこに2人の男性がいることに気づく.纏う雰囲気は楽しげだ.片方の髪の長い男性が何らかの商品を掴んだかと思うと,もう1人の短髪の男性が持つカゴにそれを入れるのだが,彼はそれをおどけながら拒否する.だが長髪はどうしてもそれを買ってほしいらしく短髪に押しつける,まるでお菓子を買ってもらいたがる幼児のようだ.翻って短髪は彼のわがままに困る母親だ.だがピリピリした雰囲気はない,むしろ暖かく親密げだ.
 実は,久遠は勤務中に彼らを何度も見掛けたことがある.別々に見たことはない,毎回2人セットだ.ゆえに彼らは同性カップルではないかと密かに思っている.そして久遠は先週,長年の恋人だった伊賀崎茉美乃と別れたばかりで,その傷に未だ苛まれている.彼らの幸せそうな姿を見ると自然と虫酸が走った.
 久遠は意識して彼らから目を背けようと,みち子との会話に集中する.しばらくはそこに心を注ぐことができた.だが今度はみち子の視線が,久遠の背後に向けられる.少し気になってしまい,彼もまたそちらをさりげなく確認すると,そこには彬正英がおり,荷物を積んだ運搬台車を押していた.
 正英は大学生のバイト店員だった.働きぶりは悪くない.それから彼も同性愛者らしかった.これは久遠の勝手な判断ではなく,他人からの伝聞だ.
「彬さんって同性愛者らしいから,ちゃんと配慮してあげてね」
 ある時,これを他の女性社員から聞いた.おそらく正英は彼女を信頼して同性愛者であることをカミングアウトしたのだろうが,配慮の名のもとに影で他人にそれをバラされたというのはなかなか悲惨だ.そして人を見る目のなさには憐れみをも催す.
 だが彼にはそれ以上の敵愾心を抱いている.
 正英は美男子だった.白い紙にスッと端正に描かれた1条の直線のようなスタイルのよさはいつであっても目を惹く.180cm後半は確実,もしかするなら190cmでもおかしくないといった大きさでもある.
 そして常にマスクを着けていたとしても,吉沢亮や横山流星といった2020年代のイケメン俳優に肉薄する爽やかな色気を隠し通せていないと,久遠は常に感じていた.男よりも女にモテそうなナリと,久遠は彼の美貌について思っている.
 対して久遠は身長164.4cmと小振りで,筋トレが趣味ゆえに体格こそ隆々たるものだが,女性にはついぞモテたことがない.代わりに男性から厭らしい視線を受けることが多いと,少なくとも久遠自身は感じている.
 久遠は週4度の頻度で駅前の24時間営業のジムへ赴き,肉体の鍛練に精を出している.筋トレは仕事で生まれる濃密な疲労をほどいてくれ,高尚なる達成感へと昇華してくれる可能性がある.鍛練の後には安らかな眠りに浸ることもできる.そして朝5時に健康的に起床した後,洗面所の小汚ない鏡で筋肉を確認するなら,その汚れを吹き飛ばすほどに輝く筋肉と,そして堅忍の後にこそ生まれる隆々たる肉体を拝むことができる.これが肉体鍛練の快感だ.
 だがジムでの活動において不愉快なものが,自分に向けられる視線だ.ダンベルで上腕三頭筋を鍛えている時,懸垂によって僧帽筋や脊柱起立筋といった背中の筋肉を痛めつけている時,大腿四頭筋のなかでも特に重要な大腿直筋を鍛えるためシシースクワットを行っている時,久遠は自分の肉体にネトネトした視線を向けられているのを感じるのだ.不可視の舌に筋肉を伝う汗を舐められているような不気味さを味わう.この主は男の筋肉が好きな男たちだと,彼は不信感を抱いている.ゲイは得てして筋骨隆々の男性ばかりを好んでいる,もしくはテディベア的な体型をした男性か.そういったイメージだけが久遠の心に刻まれている.少なくともネットに出張ってゲイやLGBTの権利を主張する存在はそういう風貌の人間ばかりだ.
 だがその視線の方に目を向けても,自分を見ている者はいないと気づくことになる.視界に他の人物が映ろうと,思い思いに鍛練を行っている姿が改めて確認できるのみだ.一度たりとも何者かと目があったことはない.
 それでも久遠はこれが被害妄想ではないという確信があった.
 昔,ネットである創作話を読んだことがある.科学者たちが1人の子供に透視能力があることを調査するため,裏向きにしたカードを1枚ずつ取上げていき,そのカードの図柄を子供に当てさせるという実験を行う.結果は10回中1度も当てられないというものに終わった.科学者たちは落胆するが,そのなかの1人は子供が超能力者であることを確信する.何故なら10回中1度も図柄を当てられないというのは確率として天文学的な数字となる.これは10回中10回とも図柄を当てるより難しい.これを行えるとするなら子供は正に超能力者であり,自分がそうであることを隠そうとしたために墓穴を掘ったのであると.
 久遠はこれに似たようなことがジムでの視線に関して起こっていると考えている.何度も何度も視線の方に目を向けるなかで,1度だけでも誰かと目があってしまい相手が気まずく目を逸らすという経験があったなら,自分の感覚が被害妄想であると認めるのも吝かではない.だがここまで目が合わないのは逆におかしい.彼らは自身が見ていると気づかれないよう巧妙に立ち回っているのだ.だがそれがむしろ巧妙に過ぎ,彼らの存在が明らかになってしまっている.
 ゲイが迫害されてきた歴史を考えるなら,彼らがこういった立回りを身につけるというのは必然的であり,それを批難する権利はこちらにないというのは理解できる.
 だが今,ゲイにしろ同性愛者たちの存在が認められてきて,愛を公にできる時代が来て彼らがやりはじめたことは何か.ヘテロセクシャル男性は自分たちを長きに渡って抑圧してきた加害者であり,彼らは今までの報いを受けなくてはならない.日常生活におけるその実践の1つが,ヘテロ男性を性的に眼差し居心地の悪い思いをさせることなのだ.今まではある種の生存戦略だった技術を,今度はヘテロ男性に嫌がらせをするため悪用を始めたのだ.配慮されるようになると途端に図に乗り始めるのならば,配慮の名のもとに裏でアウティングされるのも自業自得だろう.
「正英くん」
 正英のもとにやってきてそう声をかけるのは,高柿明日美だった.彼女も大学生のバイトで,彼女もまたかなりの美貌を誇る女性だと久遠は密かに思っている.そしてマスクをしているからこそ露骨に伺えるのは,彼女が正英に対して熱く湿った視線を送っていることだ.彼の切れ長の瞳へと,明らかに艶のある視線を送っている.それは自分がジムでゲイたちから受ける視線に似ていると久遠には思える.だが彼は女性からそういった視線を受けたことは一度もない.特に若い美女からなどあるわけもなかった.
 しかし正英はその視線を受けようとも特に何の反応もなく,いつもの爽やかな雰囲気を一切崩さず彼女に応対している.その姿を見ていると,虫酸が走る.もし自分と正英の肉体を逆にするなら需要と供給が一致するはずだと,ついそんなことを考えてしまう.ただただ勿体ない.
 明日美がまたどこかへ行くのと同時に,久遠は正英の方へ歩きだす.後ろからみち子が付いてくるのをキチンと確認しておく.正英は逆に台車を押してこちら側にやってくる.久遠は正英に話しかけるわけではない.特に何かするわけでもなく,彼とスレ違う.
「ああいう」
 彼はみち子に話しかける体で,続ける.
「ホモのカップルもスーパーへ買い物に来るんですねえ,時代だな」
 久遠は歩き続ける.
「布野さん,そういうこと言っちゃいけないんですよ.今はゲイカップルって言わなきゃ」
 みち子が久遠にそう言う.
「ああ……そうでしたね」
 久遠はチラッと後ろを振り向く.正英はこちらを向いていない.台車を押す大きな背中だけが見える.
 君,聞いてないフリしてるんだろうが,久遠は心で独りごつ,どうせTwitterで話題になる格好のネタを手に入れたとでも思ってるんだろ,価値観をアップデートできてない中年男性が職場で“ホモ”とか言ってたんですよ,その当事者が自分の周りにいるってことを想像したこともないんだろうな,馬鹿だなみたいに呟いてTwitterで同族に慰めてもらったり,意識高い系のやつらにRTさせてバズらせて可哀想な自分を演出して承認欲求を満たすっていうのが君らの戦略だろ,僕もそりゃ知ってるんだよ,久遠は心で独りごつ,そういう君らに時代遅れの日本や日本人を馬鹿にするためのネタを提供してあげるよ,こういうのも上司の責任ってやつだ,なあそうだろ,ちゃんと部下のガス抜きもしてやらなきゃね,はは,まあそういうお膳立てされたガス抜きごときで悦に浸ってる君らの姿はお笑い草だよな,実際には面と向かって指摘する勇気もないままSNSでグチグチ悪口言って同族と傷を舐めあう,だから君らは“女々しい”だなんだ言われるんじゃないのか,そして君ら自身が自分たちよりも弱い存在に“女々しい”って言葉を罵倒として使おうとするんじゃないか,久遠は心で独りごつ,なあ,君らが思ってるよりも僕たちは馬鹿じゃないんだ,僕は君がゲイだってことも分かってるし,ああいう発言は実際批難される類いのものであることも全然分かってるんだよ,僕たちは分かっててああいう発言をしてるんだ,何でって僕がそうしたいからなんだ,そして僕はそれをやっても許される立場にあるからだ,悔しかったら君もこのスーパーで出世してみせればいい,まあどうせ数ヵ月後には辞めるだろうけどさ,給料は安い,まあそうだ,でも何よりスーパーの仕事を舐めてるだろうからね,大学生っていうのはエッセンシャルワーカーにもっと敬意をとか何とかどこかの思想家の受け売りで言いながら実際に自分でやるとなると露骨に舐めた態度取るからね,さすがだよ,それから,そう,何で僕が差別したいかっていうのは,そうだ,こういう差別っていうのは何よりも楽しいからだ,君もフジテレビとかのドッキリなんか観てお笑い芸人が爆破されたりビンタされたりするのを見るのは楽しいだろ,差別にしろドッキリにしろ人権蹂躙っていうのは人間が,久遠は独りごつ,人間だけができる最高のエンターテイメントなんだからね,これを続けるためだったら何でもやるよ,意外なほどに何だってやるんだ,だから僕たちを舐めるのもいい加減にしろ.

私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。