コロナウイルス連作短編その14「俺が禿げるわけないだろ」
神藤徠がお風呂場で髪の毛を洗っている時、ふと手を見ると手のひらに大量の毛が付いているのに気づいた。まるで闇でできた地獄のようで徠は思わず身震いをする。彼は二十五才で未だに若いゆえ、なぜこんなにも一気に毛が抜けたか理解ができなかった。徠は若くして禿げる未来を想像して、吐き気を催す。自身のぺニスが生ぬるい不安でどんどん縮んでいくのが分かった。
俺は禿げない。俺が禿げるわけないだろ。
シャワーで毛を洗い流しながら、徠は心のなかで念じた。しかし不安は不気味な熱を以て、彼に迫ってくる。今の彼は大蛇に追いつめられた哀れなハムスターのようだった。
お風呂に入った後、徠はベッドの上でポケモンの対戦動画を眺めた。コロナウイルスによって孤立の生活が続くなかで、徠からはネットフリックスのドラマを1話見る体力すらも失われてしまった。何も考えずに呆けながら観られる、ゲームの動画だけが彼を癒してくれた。その後、彼はデーティング・アプリであるBumbleを起動する。彼はゲイなので男の相手を探した。黒い短髪が煌めくような男子、赤毛とそばかすがキュートな外国人男性、大理石のように固い頬骨を持つ中年男性。この誰とでもいいから、少しずつ距離を深めていき、最後には甘い雰囲気のなかでキスがしたいと思った。なので徠は男たちにLikeを送るのだが、ほとんどの場合それは帰ってこない。しかし今日は一人の男性からLikeが返ってきてマッチした。鼻がまるで芋虫のような、何故自分がLikeを送ったのか思い出せない不細工な男性だった。それでも彼はメッセージを送る。
“こんにちは。ぼくの名前は徠です。宜しくお願いします!”
“すごいカッコいいオーラを放ってますね。きっと芸術家でしょう? 有名なダンサー、それとも気難しい写真家?”
そして徠はメッセージが返ってくるのを待った。だが結局丸一日返ってこなかった挙句、最終的にマッチを解除されていた。徠は怒りからゴミ箱を蹴飛ばそうとするのだが、小指だけが当たってしまい、猛烈に惨めな痛みに襲われるだけだった。
夕食に母親である典子の買ってきた唐揚げ弁当を食べる。彼女は焼き鳥弁当を食べ、父親である菊夫は焼きそばを食べる。唐揚げは小さくとても貧相で、まるで鰯が海底にブチ撒ける糞のようだった。徠はこの唐揚げを作るために屠られた鶏たちのことを想像した。彼らは逆吊りにされながら、虐殺されていく。そのバックではABBAの『ダンシング・クイーン』が流れていた。だが母親が仕事の後に買ってきた弁当なので、文句を言うこともできなかった。まずくはなかったが、おいしいとも言えなかった。そして食べ終わった後、容器を捨てようと思った時、母親が叫んだ。
「汚いビニールは燃えるゴミに捨てなさい!」
その声には尖った怒りがこめられていた。“うるせえよ、ボケ、死ね”と言いたかったが、実際には何も言わずに容器をゴミ箱のなかに捨てた。
「男は使えねえな、本当」
典子はそう吐き捨てた。徠は何も言わなかったし、菊夫も何も言わなかった。
徠はまたポケモン動画を観ていたが、ムラムラしてきたのでオナニーを始める。ぺニスを刺激して勃起させた後、彼はその肉の塊にコンドームを嵌めた。そして腕を動かすのではなく、腰を振った。その方が自分はアナルに挿入していると想像しやすいからだ。オカズは最近よく観ているタイのBLドラマに出てくる俳優だった。タイ人の名前は独特で覚えるのが大変で彼の名前も覚えてはいないが、頬に浮かぶピンク色が官能的で好きだった。徠は自分の手が彼のアナルであると想像しながら、必死で腰を振る。しかし激しすぎると彼は痛がるだろうしと、勢いを少し弱める。彼はキスする時の顔がまるでりんご飴のように赤くて丸っこいので、それを想像しながら腰を振り続ける。イキそうになるとゴムを外し、ティッシュの上に射精する。使ったゴムを袋のなかにしまった後、徠は深い虚無感に襲われた。これから一生実際に誰かとセックスすることはできないのではないかという漠然とした不安が彼の心臓を包みこむ。
徠は童貞だった。男性と付きあったことはないし、男性とセックスをしたこともない。それでも新宿二丁目などには絶対に行きたくないという思いがあった。彼は二丁目やゴールデン街などの類いの場所を忌み嫌っていた。自分を簡単に受けいれてくれる場所に行きたくはなかったし、そんな場所は自分にとって害悪でしかないと徠は信じていた。コロナウイルスでこの二つの場所が危機的状況に陥っていると知った時、内心嬉しかった。そのまま全て潰れろ、みんな一緒に死ねと思ったんだった。
昼頃、徠は散歩に行った。春の日差しがとても気持ちいい。しかし歩いたとしても何が変わる訳ではない。買えるものも限られている。彼は就活中に鬱病になったことが原因で、ずっとフリーターとして働いていた。しかしコロナウイルスのせいでバイトは全て潰れ、浪費癖が仇となり貯金も残り僅かだった。徠は近くのファミリーマートに行く。ここには彼の好きなチョコミントアイスがあった。百六十八円のアイスを三つ買うことが今できる精一杯の贅沢だった。
夜にお風呂場で頭を洗うのだけども、祈りながら手のひらを見るとまだごっそりと毛が抜けていた。
何でこんなに毛が抜けるんだよ? 俺まだ二十五才だぞ?
彼は誰にともなくそう問いかけた。今すぐに神にこの髪の件について問いただしたかったが、今彼はコロナウイルスを世界に蔓延させることにかかりきりで、自分の話は聞いてくれないと思った。なので風呂から出た後はマリオカートの動画を観た。
部屋でゴロゴロしていると、足音が聞こえてくる。母親である典子が自分の部屋にやってきたのだ。彼女は溜め息をつくと、帳簿を書きはじめる。壁はとても薄いので何をしているかがハッキリと分かるのだ。それから典子は怒気を持った声を吐きだす。
「クソッタレが。ロクに稼げもしないクソ男が人に晩御飯作らせんじゃねえよ、ボケ。ふざけんじゃねえよ」
彼女はグチグチと文句を言う。それは夫である菊夫への愚痴だった。彼女の愚痴はいつもすこぶる下品なものであり、それを聞くたびに徠はタンクローリーに轢かれるような衝撃を味わった。前にこのことについて精神科医に喋った時には“君よりもお母さんの方を診察するべきかもね”と言われたんだった。徠は菊夫に憐れみを覚えた。かといって彼に完全に同情する訳ではなかった。鬱について彼の持つ理論は有害な精神論であり、その言葉は徠の心を深く傷つけてきた。つまり徠にとって家族とは冷血な敵だった。そして、そんな彼らの家から出ることのできない自分を呪ったんだった。
再びマッチング・アプリをやる。しばらく男たちにLikeを送っていると、マッチングした。今度の男性は水色の髪が謎めいたなかなかのイケメンだった。マリネという名前だった。
“こんにちは。ぼくの名前は徠です。宜しくお願いします!”
“すごいカッコいいオーラを放ってますね。きっと芸術家でしょう? 有名なダンサー、それとも気難しい写真家?”
再びそんなメッセージを送る。だが一時間待っても返事は来ない。苛つきながら、自分の写真を眺めてみる。もちろんカッコいいという訳ではないが、アゴヒゲはイカしているし、別に悪い顔ではないと思う。だが徠は部屋のなかで自撮りをしてみる。しかしこの顔はカッコいいと思ったところでシャッターを切っても、現れた写真は無惨なものだ。まるでハッカーにデータを改竄されたかのようだ。何度も試してみるが、そのたびに失望するしかない結果に終わる。自撮りは彼の自尊心をひたすらに傷つけていった。
母親が仕事から帰ってきた。買い物の袋を持っていたので、それを台所へと運ぶ。だが片そうとした時、袋が落ちてしまい、商品が床に散らばった。
「あぁあ」
典子は牛のゲップのような声を出した。
「もういいから、あっち行ってて」
「いや俺も片すよ」
「別にいいから。邪魔だから」
ブッ殺すぞ!とは言うことができなかった。徠は無言で部屋に戻った。
するとあのマリネという男性からメッセージが届いているのに気づいた。
“よく分かったね。ダンサーやってるよ。今全然仕事ないけどね(笑)”
徠は嬉しくなって喋りはじめる。マリネは海外文学も嗜む人物であり、彼らはその話に終始する。カルメン・マリア・マチャドの『彼女の体とその他の断片』は二〇一〇年代を代表する傑作短編集だ、今度コルソン・ホワイトヘッドの新作“The Nickel Boys”が翻訳されるらしい、韓国文学ならチェ・ウニョンの『ショウコの微笑』は絶対読むべきだ、今度クレメンス・ゼッツというオーストリアの作家の作品が邦訳されるらしい……そんなことについて話していると、あっという間に時間は過ぎた。久しぶりにたくさん海外文学について語ったので、徠の心は暖かなミルクのような充実感で満たされた。
そして徠はマリネに誘われるがままビデオ通話をすることになる。
「声、小さいね」
「いや俺、実家住みなんで」
最初はコロナウイルスで変わってしまった日常について話した。彼の場合はコロナが原因で恋人とも別れてしまったらしい。元恋人について話されて、徠は少しムッとする。徠は実家暮らしで親が面倒臭いという話をした。
「じゃあ、一緒に住もうよ」
冗談だとは分かっていたが、何と反応していいか分からず徠は苦笑いをした。それから雰囲気が奇妙なものになった。まるで腐ったトマトのような粘りけが空気にひっついているような感じになったのだ。マリネの顔は不気味な笑みに包まれていた。そして彼はいきなりぺニスを出して、それをしごき始めた。すぐに固くなり、刀のようになった。それを見ながら徠は何か緩みきった絶望感を抱いた。もう既に顔に精子をブチ撒けられたかのような嫌悪感に晒されたのち、徠はパソコンの電源を切った。
テレビを観ていると、東京でコロナウイルスの感染者が百六十人確認されたというニュースが流れた。徠は首筋を掻きながら、欠伸をする。
「こんなのいつまで続くのかね」
典子がうんざりといった風に呟いた。
「ずっと続くだろ」
徠は言った。頭を掻くと大量の髪の毛が落ちてきたけども、そのまま掻き続けた。
私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。