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コロナウイルス連作短編その151「くそボケどもが」

 その後、菅沼大翔は図書館のトイレで排尿を行う。尿は毒々しいまでに黄色いので、何か嬉しくなる。ペニスの先から滴を振り払っていると、横に立つ、苔色のダウンを着た男が先に便器から離れる。手を洗うかと思えば洗わずにドアへ行く。唐突にくしゃみを始め、不愉快な爆音を響かせる。信じられないのは洗っていない手でマスクを顎にずらすと、右の指で鼻にわだかまる鼻水を拭い、そのままズボンに擦りつけたのだ。
 お前みたいな存在がオミクロン撒き散らすんだよ、ボケ。
 大翔は心でそう独りごつ。だが男が彼の方を睨みつけるので、心臓が縮む。
「何か言ったか?」
 そう自分に向けて言ってきたので驚いた。心に吐き捨てたはずが、実際に声に出していたのか。そうは思えない一方で、男は明らかに大翔を睨み、両の瞼を微かに震わせている。醜かった。
「い、いや何も言ってませんよ」
 大翔はそう言っていた、今度は確かに喉を震わせ、舌をぬたうたせながら、質量としての声を響かせていた。マスク越しにでも彼が聞き取れるように大きくだ。
「くそボケが」
 男はそう吐き捨ててトイレから出ていく。内部空間の雰囲気がいっきに弛緩するのを感じ、安堵に体が震えてしまう。だが股間ではペニスが勃起を始めていた。肉体によって自分がマゾヒストと罵られているようで不愉快だった。勃起したペニスを強引にズボンにしまい、洗面台の前にまで立つ。もう既にいない男へと見せつけるため、過度なまでに洗浄液を手へとブチ撒けた後、手洗いを始める。アトピーゆえに液はつけるべきでなかった。それでいて皮膚が滑めるごとに、男への怒りが増幅し、毛穴という毛穴から火花が散るのを感じる。同時に、自分が情けない。若いだけで人生経験もないだろう人間に気圧され、敗北感のなかで勃起してしまう己を情けなく思う。

 図書館にいる気分ではなくなり外へと出ていく。体に吹きつけてくる風があまりに冷たいので、足が止まってしまう。ポケットから手袋を取りだそうとするが、痛々しく赤らんだ手先がかじかみ、うまく掴めない。と図書館の花壇横、そこにはベンチがあるが、そこに少女が2人座っている。だが彼女たちは忙しなく手を動かしていた。それをしばらく見ているうちにこれが手話だということに気づく。テレビでニュースの横で手を動かす手話通訳が映っているのを見たことがある。目障りだった。だが実生活で見るのは初めてで、少し興味が湧いた。手の動きは凄まじく早い。まるで空気を切り、穿ち、潰すといった行為を目にも留まらぬ速さで遂行しているのかのようだった。これが言語だとは俄に信じがたい。目にしているだけで目が疲れる。だが目につくのは手の動きだけでない、頭も同じように動いているのだ。揺れる、傾く、顎が引かれる。そういった動作が手に追随する。見ていて何か落ち着かない気分になる。
 そしてふとした瞬間、片方の黒い長髪の少女が手を動かすのを止める。視線を右左と動かし、周囲を確認したかと思うと、彼女はマスクを顎にまでずり落として、再び手を動かし始める。もう1人の少女もだ。
 こいつもあの男と同じだ、オミクロンを何とも思っちゃいない。
 今度は唇が動かないのを意識しながら、心へと確かに吐き捨てる。そうして手洗い中に浮かんだ憤怒に薪がくまれる。体が熱くなるごとに不思議と視界が鮮明になり、少女の姿がよく見えてくる。世界の解像度が加速度的にあがる。そして指や頭と同じく、唇もまた激しく動くのに大翔は気づく。開く、伸びる、すぼまる。そしてこの動態も細分化されている。“お”を発音するように開く、だらけたように曖昧に開く、一文字に伸びる、歯茎が微かに露出するように伸びる、梅干しを食べたようにすぼまる、上唇が下唇に少し覆い被さるようにすぼまる。これに連動して頬の表情筋までもが様々な表情を見せる。その表情は眩暈を起こすほどに目まぐるしい。吐き気がした。
 大翔は手袋を両手に装着すると、ベンチに向かって歩きだす。周囲には自分たち以外には誰もいないと確認しながら、少女たちに近づく。だが直前まで来た時点で緩やかにカーブを描くように曲がっていき、横目に少女の表情筋を見る。
「日本語しゃべれよ、くそボケどもが。コロナで早く死ね」
 大翔はちゃんと声に出して、この言葉を口にだした。今度は確かに、自分の意思で、喉も唇も舌も動かしながら、淀みなく言うことができた。素晴らしい気分で図書館を後にする。
 歩きながら、さっきのことをにやつきながら考えてしまう。“ろう者”の差別語である“つんぼ”という言葉を使ってもよかったが、そこまでの勇気がなかった。ここに関しては先の男にみせた臆病さがまた出てしまったという風だ。だがああして言ってやれたことだけでも清々しく、晴れやかだ。“つんぼ”と言えなかった弱い自分も愛したい。大翔はそう思えた。

「ただいま」
 出馬は家に帰る。妻である萠子は家にいるはずだが、自分を迎える声は聞こえない。洗面所に行き、控えめに洗浄液をつけて、冷えた手を洗う。激しくは洗わない、皮膚や肉を労るように優しく洗う。もちろんうがいも忘れることはない。
 リビングに行くと、萠子はいた。炬燵に入り、つまらないワイドショーを観ていた。
「ああ、おかえり」
 そうそっけなく言うと、再び蜜柑を食べ始める。
「なあ、光」
 大翔はそう声をかける。彼女が不機嫌そうにこちらを見る。
「ごめん、今日の朝は」
 大翔は彼女に頭を下げた。
「いや、朝は本当にくっだらないことで不機嫌になって、怒ったよ。何してるんだろうな、俺って。烏龍茶ちょっとしか入ってないのに冷蔵庫入れるな、本当に当然のことだ、これは。飲んでるのは俺で、沸かさなきゃいけないのも俺だよな。それをお前に責任転嫁して。本当に済まなかった」
 大翔は再び頭をさげる。
「なに、珍しい。そんな全面的に謝罪なんて」
 萠子は少し笑いながら言った。
「なんかあったの」
「いや、別に。でもふとな、何やってんだよ俺はって思ったんだ」
「ふうん」
 萠子はそう言った。
「ほら立ってないで炬燵入んなさいよ、外行って冷えたでしょ」
「ああ、まあね」
 大翔は横の座椅子に座り、足を炬燵に入れる。目が覚めるほど暖かい。
「今日の夕飯、サバの味噌煮ね」
「おっ、やったね」
 大翔は無邪気な笑顔を浮かべながら、かごに入った蜜柑に手を伸ばす。

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