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コロナウイルス連作短編その129「お前も同じLGBTQだろ」

「あいつらの家にお呼ばれすんの久しぶりだな」
 三原吉名が横を歩く妻の三原李枝子にそう話す。風がかなり冷たい。昨日はぬるかったが、今年の秋は天候の推移が全く読めない。
「うん、コロナ禍前は火鍋食べたり、家でピザ食べたり色々遊んでたのにね」
 李枝子は前髪を少し触った後に、傍らの額を優しく撫でる。生え際に吹き出物ができていて、ほんのりと赤黒く染まっている。
「やっと2人の赤ちゃんに会えるね」
 そう聞いた時、吉名の頭にある疑問が浮かぶ。霞ヶ丘凛と峰南守はともに女性で、レズビアンのカップルだった。では赤ちゃんを実際に腹を痛めて生んだのはどちらなのか? Zoomでは何度か会って、既に彼女らの子供である里麻も紹介してもらっていたが、どちらが生んだかは聞いていないことに吉名は気づいた。どうでもいいといえばどうでもいい。だがそういう些細な疑問こそ頭にこびりつく。彼は何となしに、自分から見てより女性らしい守の方が妊娠出産を行ったように思った。どちらか知りたい、だがこれは彼女らに尋ねてもいい類の疑問であるかが分からない。カップルとの仲は悪くないと自認している。凛とは大学時代からの腐れ縁で、彼女が守と付き合っている期間も相当長いゆえ、何度も会って気心は知れている。ともすれば妻の李枝子よりも知り合っている期間は長い。だがこの疑問はかなりプライベートなものであると理解するし、何より女性が好きな男性という、性的指向においてマジョリティな存在の自分が、性においてデリケートな質問を気軽にしてもいいのかと思える。親しき仲にも礼儀ありという日本における暗黙の了解に抵触しないだろうか?
 吉名は少々の躊躇いを持ちながら、妻の方を見る。彼女はいわゆるバイセクシャルで男女両性に恋愛感情を抱く存在だ。レズビアンとバイセクシャルは無論同じではないが、女性が好きな女性ということでは重なりあう故に、自分よりもこの質問を問いかけるに適しているのではないか、少なくとも吉名にはそう思える。だからと言って、この質問を彼女たちにしてほしいと李枝子に頼むというのも不用意な気がしてならない。
 そんな風に思考を巡らせていると、突然目前へ蝶が飛んできて驚いてしまう。思わず後退りしたところ、背中の筋が変な方向へと曲がったのか、不愉快な痛みに襲われてしまう。顔を歪ませながら、腰をさするしかできない。
「だ、大丈夫?」
「いや、大丈夫だけど、大丈夫じゃない」
 30代も半ばを過ぎて明らかに体にガタがきている。これを痛感させられるたび、吉名は惨めな思いに打ちひしがれる。

「ああもう、ほんと久しぶり!」
 玄関先で凛と守が笑顔で2人を迎えてくれる。
「やっとZoom越しじゃなく、会えるようになったね」
 守が2人に殺菌用のスプレーをかけながら言った。
「こういうのもやらずに守さんたちと会えるのが一番良いんですけどね」
「まあ、最近東京は感染者1日で20人とかだろ。近いうちにそうなんじゃないのか。ドイツとかイギリスの間抜けみたいにはしゃがなきゃさ」
 そして2人に連れられ、吉名と李枝子は子供部屋へと赴く。白い壁紙で覆われた、かなり無難な空間、その隅へ寄り添うように置かれたベビーベッドに彼女らの娘である里麻がいる。健やかな寝顔を浮かべながら、静かに夢を見ている。
「かわいいねえ」
 思わず李枝子がそう言う一方で、吉名は何も言わなかった。深い感動で何も言えなかった。そして込みあげてくるのは、自分も子供が欲しいという途方もない思いだった。彼にはこれが、母性と父性とが組みあわさってこそ現れる動物の本能だと思った。いわゆる世間一般が言うように、本能とは獣が持つ類のコントロールできない欲望ではなく、こういった慈愛や優しさこそが動物の本能であるという自身の持論を正に証明するような無量の感慨を、いま正に吉名は味わっていた。
 そしてリビングに行き、凛が端正込めて作ったという豪勢な中華料理を囲みながら、4人は団欒を始める。麻婆豆腐、春雨、レバニラ炒めなどメニューは平凡なものでありながら、その複雑な美味たるや壮大なものだ。吉名は昔から凛の手料理を御馳走になっており、その度に舌鼓を打っていた覚えがあるが、久しぶりに食べると絶品という言葉では形容できない感動を覚える。旨さに加えて熱さ、辛さが心へと真に迫る。横を見るなら、李枝子も目を見開きながら料理をかっこんでいる。彼女はもっと上品なフランス料理などがいつもは好きだが、凛の中華料理には降参せざるを得ないといった勢いだ。さらに、ここに紹興酒もついてくる。あまり飲みすぎないように器は小さめだが、思わず何度もショットさながら飲みたくなるほどに、料理が旨すぎる。吉名は久しぶりにこの燃えるような多幸感を味わっていた。
 その合間に4人はコロナ禍においても続く日常について言葉を紡いでいく。凛は去年の4月頃、駅で卒倒を遂げたらしい。ちょうどコロナウイルスが猛威を振るい始めた時期で、コロナ罹患かと危ぶまれたが、軽い急性胃腸炎で大事とはならなかったという。
「焦ったよ、あれは本当。怖すぎてさ、病院で悪夢も見た。コロナで東京から人が死滅しちゃって、私一人だけがここに取り残されるの。それで『私はコロナウイルスじゃない!』ってずっと叫んでた」
 李枝子はここ1年半で一番楽しかった思い出は今年の夏頃に行ったうんこミュージアムだという。
「吉名はわたしの好みは“小学生すぎる”って馬鹿にしてくるんだけど、わたしは自分の小学生すぎる好み全然恥ずかしく思ってないし、むしろ誇りに思ってるからね。うんこ最高!」
 そんな会話の合間、凛や守の行動が吉名の視界に否応なく映りこんでいく。凛が甲斐甲斐しく食器を片付けたりする一方で、守は椅子から少しでも動く素振りを見せることはなく、何度も凛に紹興酒を注いでもらっている。
 身なりとして爽やかな短髪で、メイクにかなり切れ味を感じる凛は“男っぽく”感じるのに、実際の役割は“奥さん”という風だ。逆に守はふんわりした長髪に、全体的に肉感的な表情といい“女っぽく”感じながら、実際は“旦那さん”という風だ。どこかしっくりこない感じを吉名は印象として抱く。
 と、子供部屋から里麻の泣き声が響いてくる。かなりの轟音だ。
 あやしに行くのは凛の方かと吉名は予想するが、実際には守が部屋へ赴いたので予想は外れる。それでも泣き声がいつまでも止まないので、苦笑を浮かべた後に凛もまた子供部屋へと赴く。
 この空間を満たす空気感が少しずつ変わっていっているような気がして、李枝子の方を向くと、同じタイミングで彼女もこちらを向く。麻婆豆腐の橙のソースが唇の右端についているので、何となくティッシュでそれを拭く。彼女は感謝もせず、怪訝な表情を浮かべる。
 ビィン、とまるで無数の静電気が寄り集まり、一気に爆ぜたような鋭い音が聞こえた。吉名には音の源が何かハッキリ分かった、平手打ちだ。そして啜り泣くような密やかな音がまた聞こえてくるが、再び現れた轟くような赤子の泣き声に一瞬で掻き消される。相当に耳障りだった。
 しばらく動けないまま、部屋から2人が戻ってくる。
「はは、ごめんごめん」
 凛がそう苦笑しながら、言った。守は俯いて何も言わない。だがどちらも顔全体が赤紫色になっており、何かが起こったことは確実だった。その何かとはDVだとしか吉名には思えない。どちらかがどちらかに暴力を振るった、もしくは両方が暴力を振るいあっている。何にしろ確実に悪いことが、凛と守の間には起こっているとは確信せざるを得ない。
 だけど俺に口出しする権利あるのか?
 吉名はそう思う。男女のカップルとレズビアンカップルは間違いなく関係性に対する考え方や姿勢が異なるはずであり、ここで自分が介入しようとするのはヘテロであるマジョリティの価値観を押しつけるだけではないか。最近、彼はポーランドのジャーナリストが書いたルポタージュを読んだ。ブルガリアでは熊を飼い慣らし芸をさせることで生計を立てる熊使いという職業があった。だがこれは動物虐待として、オーストリアからやってきた動物愛護団体が保護のために、熊使いから熊を奪った。ジャーナリストは中立な立場で両方の証言を綴っていたが、吉名自身は最愛の熊を奪われた熊使いとその家族に同情し、彼らを精神的にも経済的にも窮地に追いやる動物愛護団体に不信感を抱いた。もっと大きくいえば、未だ発展途上の東欧に対し、既に経済的に恵まれた西欧が自身の論理を押しつけ、文化も経済も破壊するという、帝国主義のアレゴリーとしてこの構図を解釈した。今もしヘテロセクシャルである自分が凛と守のレズビアンカップルの関係性に介入しようとすれば、同じような多数派による植民地主義的抑圧に陥るのではないか。
 吉名は李枝子の方を見る。彼女はすこぶる居心地悪げに水を飲んでいた。
 何だよ、お前が言わないで誰が言うんだよ。
 吉名は唇を噛む。
 お前はバイで、凛たちと同じLGBTQだろ。女が好きな女のお前の方が彼女たちの気持ち分かるだろ、お前に何か言ってもらわなきゃこっちも何も言えねえよ。おい、マジで何か言ってくれよ、なあ。
「わ、私たち、もうそろそろ帰るね」
 そんな言葉に吉名は驚いた。だが実際には何も言わない。モヤモヤを抱きながら、その実安堵もしている。何となく別れの言葉を口にし、何となく凛たちもそれに答え、何となく吉名たちは部屋を出ていく。
「楽しかったね」
 しばらく無言だった後、李枝子が言った。夜になって風がむしろぬるくなっている。彼女は明らかにさっきの出来事を見なかったように振る舞っていた。
 何だよ、じゃあ俺はどうすりゃよかったんだよ。
 苛つきながら道を歩いていると、ある自動販売機に行き当たる。近くで見るとペプシコーラの500ml缶が100円というのが分かり、買おうとする。だが最後には売り切れという赤い微かな光が点灯しているのに気づく。苛つきがまた増幅し、李枝子の方を向く。
 もし俺がここでイラついて自動販売機蹴ったら、李枝子、どういう風に行動するんだろうな。これもやり過ごそうとするんだろうか?
 そうして思考を重ねながら、結局蹴ることはない。だが彼女にこう尋ねる。
「結局、どっちが子供産んだんだよ?」


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