コロナウイルス連作短編その74「コーラは美味しい」
菱田季節はクローン病という腸の難病と診断された。腸が炎症を起こし続ける炎症性腸疾患の1つだ。寛解はするが、もう一生治ることはない。季節は厳格な食事制限を課されるが、最も酷と思えたのはコーラを飲むことを制限されたことだ。医師は症状を説明する際、医書のページを季節に提示する。食するべきでない物としてファストフードや唐辛子などの刺激物、ワカメなどの海藻とともにコーラが挙げられていた。コーラを毎日大量に飲んでいた季節は、これだけ摂取すれば生存可能なサイボーグになりたいとすら願っていた、気の置けない親友を1人失ったような気分だった。付き添ってくれた恋人の内筒季子が背中を擦る、慰めにはならない。帰宅後、独りで陰鬱な部屋に引きこもっていると、大いなる波濤さながらの絶望感に呑みこまれる。彼は台所に行き、隅に置かれた箱を見る。それはコーラ1.5Lボトルを6本収納した箱だった、これを蹴ったら足の先へ確実に激痛が走ると分かっている、季節は凄まじい勢いで箱を蹴りあげた。
2か月間、彼は糞穢まみれの地獄を生きた。下痢と腹痛が止まらず1日に10-20回はトイレに籠らざるを得なくなる。そのせいで眠ることもできない。眠れたとして、下痢の不穏な予感が彼を覚醒させ、その時に予感は現実に変わる。母が看病しに来る。「そんな身体に生んでごめんね」と涙ながらに言われ、彼女を殺したくなる。恋人の季子も看病に来る、だがあまり頻繁ではない。17歳年上である彼女には夫も子もいる、彼女の独りよがりの寂しさに自分が搾取されていると感じる。だが逃れられない。
それでも絶対静養と薬の効能で季節の体調は良くなっていく。下痢の激発を気にしながら、家の周りを散歩できるまでに回復した。その裏側にある公園で、夜に季子と会いキスをした、彼女の太腿を触った。数日後に彼女と病院へ行くが、そこで1日コーラを少しだけ――500mlボトルの半分――飲むことを許され、愕然とした。病院備え付けのセブンイレブンでコーラを購入し、季子に見守られながら飲む。美味しかった。季節は思わず号泣を始め、季子に首筋を撫でられる。だが彼女は2口だけしかコーラを許さない。
「飲むのは病院に通院する時だけね」
季子にそう告げられ、一応は同意する。彼女の膝に灰燼色の日輪が浮かんでいる。
散歩の距離は少しずつ長くなり、駅前の図書館に行けるようになった。何回目かに駅へ来た時、自然とファミリーマートに吸い込まれていった。ここでよく韓国のり味のポテトチップスを買い、帰り道で食べていた。医師によるとこれはもう許されない。クローン病によって食の楽しみという可能性の多くが失われたと、季節は思い知らされる。ポテトチップス、チョコレート、脂肪まみれの肉、海苔がパリパリと弾けるおにぎり、そしてコーラ。だが彼はコーラが収納されているケースの前に立ってしまう。医師は1日にボトル半分なら許容している、季子は通院の間隔である2週間に1度にだけと懇願している。飲みたいと、純粋にそう思った。行けるんじゃないか、季節は思った。突然に腹痛が彼を襲い、セブンイレブンを退散する。トイレはコロナ禍ゆえに閉鎖されている。駅近くにおいては、図書館でしか排泄はできない。
4日後、季節はファミリーマートで500mlボトルのコーラを買い、それを公園で飲む。美味しかった、美味しすぎた。翌日、スマートマーケットというスーパーで500mlボトルのコーラを買い、それを歩きながら飲んだ。翌日はミニストップで500mlボトルのコーラを買い、家に帰ってからそれを飲んだ。次に病院へ行った際、医師に血糖値が以前の4倍になったと通告される。これは処方されるプレドニンの副作用だといい、糖質の軽い節制も食事制限に加えられる。季子は彼が病院でコーラを飲むことを許さなかった。翌日、舞越というスーパーで700mlボトルのコーラを買い、公園で全て飲みほした。その翌日もコーラを飲み、そしてその翌日もコーラを飲んだ。ある日彼はコーラを飲み歩く最中、躓いて倒れた。ボトルからコーラが泥々と漏れだす。立ち上がるが、眩暈がして今度はあおむけに倒れる。頭を打つことはない。空は不穏なまでに濁っている、その灰燼の色彩を少し前に見た覚えがあるが、思い出せない。
目の前にコーラ1.5Lボトル6本が収納された段ボール箱がある。Amazonで注文したものだ。1本を取り出し、その重みを味わおうとしながら、右腕が痙攣するかのごとく震える、肉体の衰弱を思い知らされるが蓋を開ける。炭酸の炸裂する響き、無残に切り裂かれる空気、最後に蟠る無音。季節は一気呵成にコーラを飲む。筋肉にのしかかる重みを我慢しながら、コーラを自身の肉体に注ぎこむ。美味しかった。巨大なゲップを放出した後、今度は身体全体を痙攣させる。間髪入れずにコーラを飲み、ゲップをブチ撒ける。膝がガクガクと震え、季節は思わず地面につっぷした。そのうち忍び笑いが唇から漏れるのを抑ることができない。
自分でも驚くほどスムーズにコーラを摂取できていた。だが1本目が終る頃には、腹痛の感覚が鮮烈になってきていた。温度を持たない洞のようなマグマが大腸内を蠢く感覚が、文字通り肉薄してきている。それでも2本目を飲み始める。濃密な甘ったるさがより口のなかへ広がるように思えた、炭酸の炸裂音を細胞が壊死する響きにすら錯覚される、そして腹痛が更に鮮烈になった。だが季節には分かる、これはしばらく我慢すれば遣り過ごせる類の苦痛だと。その時を待ち、実際に止まった後には、再びコーラを自身の肉体へブチこんでいく。
3本目を少しずつ飲む一方で、シャツをはだけさせ自身の腹部を見る。以前は相当の贅肉に満たされており、腹を膨らませるとまるでそこにスイカが丸々収納されてるようにすら思えた。
「季節はおデブちゃんなんだからね」
季子がデートの最中に言った言葉を今でも覚えている。だが30kgも体重が減った今、腹部を膨らませようとしても殆ど隆起することがない。だが大量のコーラを一気に摂取したことで、腹部からタプタプという幻の音が聞こえる。腹自体は膨らまない、だがまるで幻肢痛のような膨らみを季節は感じた。もっと大きくしたい、その思いに晒され季節はコーラを更に飲む。勢いは加速度的に早まる。
だが途中で、季節は餌付いた。胃が吐き出されるような苦痛を味わうも、実際には何も出てきていない。少しコーラを飲むとまた餌付く、これを繰り返した。以前、胃カメラ検査で苦痛とともに死ぬほど餌付いた覚えがある。この苦痛を思い出す、だがコーラを飲み続けて餌付く。放出されるゲップの甘ったるさを鮮やかに意識した途端、全身の毛穴からコーラの甘い瘴気が噴出してくるような気がした。苦痛のなかでも、愉快な気分だった。
季子から電話がかかってくる。
「夕食は食べた?」
「レシピ読んで作ったお茶漬けパスタ食べたよ」
季節は嘘をついた。
「へえ、どんな感じ」
「なかなか美味しいよ。三つ葉とかちりめんじゃことか乗せて、めんつゆで味付けしたやつ。海苔もちょっと入れた」
「今度一緒に作ろうね」
「うん」
季子の淀んだ息遣いが聞こえる。
「最近会えなくてごめん」
「セックスしたい」
ハハハ、季子は笑った。
「なに、酔っぱらってる?」
食事制限以上にクローン病によって体質が変わり、季節はもはや酒が飲めない。それを知っての、笑い声を交えた言葉だった。季子は季節のために喘ぎ声を響かせ始める。季節のペニスは勃起しなかった、そもそも刺激しようとも思わなかった、股間を見据えながらコーラを飲み続ける。季子が絶頂に至ったような声を響かせた時、季節は思わずゲップした。
「えっ?」
コーラを飲み続け、腹痛が再び込みあげてくるのを感じた。マグマののたうちが先よりも激化し"ああ、クソがケツ穴から溢れでるな"という確固たる予感を季節は感じる、餌付きも悪化する、そしてある時点で加速度的に痛みが膨張を遂げる。それとは裏腹の冷静さで飲みかけのボトルと新品のボトルを両方持ち、トイレへ行って排便をする。と言うより、便器に座った瞬間に肛門括約筋が自然と開き、糞便がドバアと放たれた。固形の糞穢がかなりの勢いで落ちていき、痔瘻が刺激され張り詰めた痛みに襲われる。痛みのなかで、コーラを飲む。今再び、美味しいと感じられる。排便が止まることはなく、コーラを飲むことも止めない。餌付きが止まることはなく、コーラを飲むことも止めない。季節は便器の前に吐瀉物をブチ撒けた。昨日食べた何かが吐瀉物に混じっているが、何を食べたかは忘れた。身体を震わせながら、コーラを飲む。季節は吐瀉物をブチ撒ける。最初は内容物が存在したが、そのうち吐瀉物自体がコーラと変わらなくなる。そして季節は前のめりになり、吐瀉物のなかへ倒れた。尻穴から尚も糞穢が漏れ出ていくのを感じながら、意識が失われる。
目覚めて、その酷い状況に気づく。トイレは吐瀉物と糞穢、鼻の粘膜を腐爛させる悪臭で満ちている。季節は蹌踉として何とか立ちあがる。足裏が汚水に浸る。清々しい気分だった。トイレットペーパーで汚穢の数々を丁寧に掬いとり、便器へ投げ入れる。そして水を流す。これを勤勉に何度も繰り返した。最初は大量のように思えたが、掃除をコツコツ続けるとトイレは驚くほど綺麗になる。額を汗が流れるのを感じた時、自分が腹痛と下痢の予感に苛まれていないことに初めて気づく。悪くない気分だった。
数十分後、掃除を終えて部屋へ戻る。朝になっていた。床に置いてあるダンボール箱が目についた。中にはコーラの1.5Lボトルが1本残されていた。それを持ちあげる。アゼルバイジャンの艶々した油田から噴出する石油さながら濃厚な色彩を見ているだけで、季節は高揚感を抱く。その高揚のなかでボトルをグッと掴み、蜜密の琥珀に包まれた液体を喉へブチ注いでいく。瞬間、口の肉壁へ激越な炭酸と甘やかさが爆裂を遂げていく。椅子に括りつけられた惨々の中年男、殺し屋に銃口を突きつけられ、哀れ、頭蓋に銃弾をブチ込まれて脳髄が爆散、そんな映画の1シーンが浮かぶ。美味しかった。そして琥珀の液体はカンボジアの大地を乱打するスコールさながら喉へと降り注いでいき、大気圏を疾走する隕石さながら肉のなかで煌めきを放つ。季節は我慢できずにドボドボとコーラを肉体に注ぎまくる。コーラは美味しかった。
私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。