コロナウイルス連作短編その62「究極の使命」
間宮晶は、自分がテレビを観ていると思っていたが、その液晶画面にはただ吐き気を催すような闇が広がっているのみで、つまり彼女はしばらくの間、虚無を見据えていただけだった。いしきの欠落は記憶の欠落もであり、晶はいつから虚無と戯れていたのかを思いだすことができない。頭蓋のなかに閉じこめられた脳髄、そのまわりに有害な霧がかかっているのを感じたし、思索を前に進めることもまた困難だった。だがその霧のなかに青と灰の光景が浮かびあがるのが分かった。いつか旅をしたことのある場所のような気がしながら、晶自身はほとんど旅行などしたことがなく、今まで生きてきたなかで千葉と東京を出たこともあまりない。この蜃気楼の風景について深く考えてみたい、そう思いながらも蜃気楼の向こう側から耳障りな音が響いてくるのを感じる。それが何かは一瞬で分かってしまう、息子である芹の泣き声だ。
ああかれをあやさなきゃ、ああかれをあやさなきゃ。
そうは思いながら、晶の身体は動かないままで、脳髄から電気信号が身体へと届く光景を想像しながらも、じっさいに晶の足や腕は反応することはない。
ああ、ちょっとさんぽにでかけたいな。
ふとそんな思いがたましいへと吹きつけてくるが、不思議とそのために身体は動いた。膝の関節は鈍い悲鳴をあげながら晶の身体を立たせ、臀部あたりで蠢く筋肉はこの動きに反応してピアノ線さながらに引き締まり、指に通る細い骨の数々は動作のバランスを取るためにかすかに震え、波動を吐きだしていく。うごくことができる、この事実が深遠なもののように思えた。晶はリビングを抜け、廊下を歩き、靴を履き、玄関ドアを開き、外へ出る。
道を歩く。道端にはコーヒーの空き缶や猫の死骸が落ちていたが、晶の目に入ってきたのは最近できたばかりのローソンであり、この場所にコンビニができたのは妻である関野キアラ(日本はこの関係性を認めていないが)と同棲し始めたころの2012年以来で、まるで晶とキアラの関係性に気分を害したかのようにスリーエフが潰れた後には、9年間更地が広がっていた。晶は道路を渡る、向こう側へ辿り着いたときに背後を軽自動車が風を引き裂くように走りぬける。風に押されて、晶は目前の自転車にぶつかった。
コンビニのなかに入ると、極彩色が瞳になだれこんでくるようで眩暈を起こしてしまう。SF映画で主人公が超越的な何かによって世界の真実全てを脳髄に流しこまれる、そんな場面を彷彿とさせた。様々な色彩を纏いながら並ぶ整髪料のケース、0.01mと大きく書かれたコンドームの箱、大きな乳房を持った女性が表紙の雑誌、オレンジ色の蓋に閉じられたお茶、大盛だとパッケージが喧伝するたらこスパゲッティ、歯磨き粉の味を思いださせる色のミントアイス、道端に落ちた犬の糞のようなチョコクロワッサン、ビニールの下でヌラヌラと輝いているサラダチキン。すべてが魅力的でありながらも、晶は何も買うことがない、財布も携帯も持ってきていないので買えないのは当然だったが、もし持っていても買うかは疑問だった。キアラが許さないだろう。
大きな歩道橋を歩いている時、荒涼とした風が晶の首筋に吹きつけてくる。毛穴の1つ1つに凍てついた毒を注ぎこまれながら、晶は霞になりたいと思った。霞となって曖昧なままに世界を彷徨い、最後にはどこかの山奥で霞を食物とする仙人に食べられるのだ。その人物の胃のなかには悍ましいまでに無限の宇宙が広がっているように思える、その虚空を霞の渦としてえいえんに、えいえんに回転し続けたいと晶は思う。だが腰の痛みが邪魔をする、まるで皮膚の下に炎獄が広がっているかのように不可視の炎が晶の細胞や骨、肉や血を焼き尽くさんとしながらも、死ぬことはないままに永遠と獄炎に灼かれ続けるのみなのだ。生きるという現象それ自体が今やプロメテウスの責苦なのだ、このにくからにげだしたいと晶は願う。
晶は近くの大きなショッピングモールへ赴く。コロナ禍の前は家族でここに買い物へ来ていたが、もうそんな楽しみは搔き消えてしまっていて、エレベーターを昇った先の寂れた小さな広場には人が疎らに散らばっている。皆がペットボトルの底に溜まった水滴のように惨めな、生気のない顔をしていた。元々どこにも居場所がなかった人間の孤独はコロナの蔓延によって加速していっている、自分の心も加速度的な落下を遂げていると、晶も人々の姿を見てそう感じる。左側には、まるで空き家と化したような空間が存在し、中では黒いスーツを纏った男性が誰かと話しており、不動産業者とその顧客だと思う一方で、その硝子ドアの横に設置してあるベンチで、掠れた茶のコートを着た青年が座って何かを食べている。近づいて見てみると、それはトレイに載せられた総菜の鶏肉だった。不思議とその青白い肉身に添えられたフライドガーリックまで確認できた。そして青年は鶏肉を食べた後には、1.5Lボトルに入ったコーラを鯨飲している。全て中で買ってきたものらしかったが、彼は素手でそれを貪っている。コロナ禍の今に外気に触れている食べ物を、しかも素手で食べるのは怖くないのか?と晶は怪訝に思う。しばらく遠くから彼の姿を伺いながら、突然思いたつ。これはかんまんなじさつなんだ。そして青年は鶏肉の脂がついた指をベンチに擦りつけてから、また肉の切れ端を食べる。
モール内には今でもカップルや子供連れで楽しげに歩く人々の姿が見える。皆の瞳が喜びに細まっており、そのマスクの下には微笑む唇の数々が見えてきて気味が悪くなるが、彼らもまたかんまんなじさつを遂げている最中なのだと思い、晶は気を紛らせる。彼女は自然とフードコーナーへと訪れていた。ラーメン屋の看板を見ると豚肉の沢山入った豚骨ラーメンが大きく宣伝されており、にくをむさぼりたいという欲望に晶の心も大きく傾いていながら、値段が950円というのを見ると心臓が急速に縮んでしまうのを感じた。950円は別に高くはないとそう思いたいのに、これにすら尻込みしてしまう自分がいた。
席に座る。水が飲みたかったが、ブースで何か料理を買わないと紙コップすらもらえない、衛生上の問題だ。彼女はコーナーの隅の席に腰を据えて、ただただ眠りたいと思いながら、2本の細い腕を枕にして眠ろうとする。目をつぶっているうちに段々と身体が暖かな闇に包まれていくのを感じたが、突然に腰を激痛が襲い、晶は現実に引き戻されてしまう。泣きたくなった。
かすみになりたい、かすみになりたい。
晶はショッピングモールから出ていき、外をしばらく歩いているとマスクをしないで歩く中年男性を見かけるが、彼は堂々と咳込んで唾を空気中に撒き散らしていた。勇気がなくて死ねないのなら、せめてああいう風に開き直ったうえで、コロナウイルスを周囲にブチ撒けながら他の人間を無差別に殺してやりたいという願いが、晶の心のなかにふと浮かびあがる。同時に頭に現れたのは妻であるキアラの眩い笑顔だったが、マスクをしていないのに口許はモザイクがかかったように曖昧模糊としている。だが曖昧さの下の唇には彼女の好きなチョコレート色の口紅が塗られており、その色彩がまるで下痢便さながらに這いずりまわっていた。
ふと気づくと目睫には不自然なまでに濃厚な霞が広がっており、晶は怪訝に思いながらも痛みに満ちた腰を擦りながら、その先へと進んでいく、進んでいく、すすんでいく、すすんでいくがしばらくは濁った白が続き、またその先へと晶は進んでいく。霞が晴れた時、いつもと全く同じ風景が広がっていると分かり深く落胆してしまう。だが"少年の広場"と名づけられた小さな広場に辿りついた時、そこで人々が何かを燃やしているのを見かけた。敷地の半分には叢が茂っている一方で、もう半分はキックベースを練習する女子チームのために土肌が露出していた。今は緊急事態宣言のため入り口は網で封鎖されているのだが、その土が剥き出しになった場所で人々が何かを燃やしているのだった。
何か心を惹かれて、晶は網を持ちあげて広場に入ってみる。マスクをした人々が何かを燃やしており、大地では美しく不穏な炎が瞬いているので、晶は近くにいた好々爺といった風の男性に「何を燃やしているんですか?」と話しかけてみると、彼は丸っとした大黒天の笑顔を浮かべながら、ポケットから何かを出した。それを受け取り広げてみると、それが日本の国旗だと分かる。
「何でもね、政府が近く国旗を燃やす行為を犯罪化するそうなんですよ。"国旗損壊罪"という名前がついていて"日本の名誉を守るのは究極の使命の1つ"だそうで。ではそれが犯罪化する前に、ここいらで思う存分燃やしておこうかと思いましてね」
大黒天は柔らかな笑顔を浮かべる。
「あなたもやりませんか」
彼は晶に日本国旗とチャッカマンを手渡した。ニュースでアメリカ国旗や韓国国旗が燃やされる光景を見たことがあったが、実際に日本国旗を燃やすのを勧められたのには驚いたし、少しの抵抗感も抱いた。だが日本国旗を燃やしている人々は皆仲睦まじそうで、ソーシャル・ディスタンスもキチンと守っているし、何よりもそのマスク付きの笑顔が真珠さながらに煌めいているのが晶には羨ましかった。だから晶も日本国旗を燃やすことを決めた。最初は広げた日本国旗の白い部分に火をつけようとするけども、ふと思いたって中心の鮮やかな赤に火をつけてみる。メリメリという音が響かせながら、日本国旗は茶色く変貌を遂げていくが、そこから生まれる炎というものはとても美しかった。蜃気楼のように揺らめている、そして火花は爆裂する超新星の欠片さながらに輝いている。剥き出しの土に落とされた日本国旗、小さな恐怖を抱きながらも少しずつ身体を近づけていき、そこに手を翳してみると、暖かくてホッとした。最近全く味わったことのなかった深い安らぎというものを感じてしまう、ずっとこの中に浸っていたかった。その様子を目を細めながら眺めていた好々爺が数枚の日本国旗を渡してくるので、晶は燃やした日本国旗が糞色の灰燼に帰する度に、新しい日本国旗を燃やした。そこから癒しの波動のようなものが現れて、空気や皮膚を揺らしてくれるのが晶にも分かった。
世界はいつの間にか痣色の黄昏に包まれていた。
ああ、いえにかえらなくちゃ。
晶はそう思う一方で周りの皆はまだまだ日本国旗を燃やすつもりらしく、土の上では未だ意気軒高に美しい炎の数々が瞬いている。晶も日本国旗を燃やし続けたかったが、芹が泣いていたことを思いだして、家に帰ることを決める。後ろ髪を引かれながらも広場から出ていこうとする晶に対して、皆が丸々した笑顔を浮かべながら手を振ってくれた。家路を歩く最中にあの腰の痛みが激しくぶり返しながらも、痛みを我慢して前に進んでいかなくてはいけないと晶にはそう思えた。家に帰るともう既にキアラが仕事から帰ってきており、ソファーに座ってニュースを見ているので、晶も隣に座って一緒にニュースを見るが、そこで"国旗損壊罪"については報道されていなかった。しばらくすると芹の泣き声がまた遠くから響いてくる、耳障りだった。横からキアラが晶の脇腹に手を伸ばして、上着を跳ねのけてその皮膚を直接撫でてくる。彼女は満面の笑みを浮かべる。
「ほらおかあさん、せりがないているよ」
私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。